2022年03月05日
ゲームにはゲームを
「ゲーミフィケーション」(井上明人 NHK出版)
読み終わりました。
「今時書店」さん、タイムリーな本をありがとうございました。
物語には、物語を
部活には、部活を
ゲームには、ゲームを
ですね。
同じ土俵で上書き保存していくことが大切かなあと。
昨日はプリマペンギーノさんグループの公営塾ネットワーク会議でした。
入試の対応の関係もあり、2日目午前だけの参加となってしまいましたが、
隠岐島前学習センターの澤さんの言葉にビビっときました。
「探究」ってなんですか?
「探究」の魅力を生徒に伝える50分の授業とは?
っていう根源的な問い。
正解のない問いであり、
HOWじゃなくてWHYを問いかける問い。
あの問いの瞬間、参加者がフラットになった。
探究の楽しさは、まさにそこにあるのではないか、って思った。
「場」による共創。「場」を主語にした共創。
「場」に巻き込まれ、一体化し、「問い」を生むこと。
「問い」の創造の前で人と人(高校生と地域の大人)はフラットになる。
それが偶然・予測不可能性のチカラだ。
もうひとつのエッセンスは、学校と方向性を合わせながら役割の違いを相互に理解し合いながら進めていくこと。そこには、アマチュアリズムとアンラーニングがキーワードになっていくと。
また、方向性を合わせていくためにも、対話のデザインが大事だ。初歩的な話だけど、隠岐島前のミーティングは、学校関係者もセンターのスタッフも、ハウスマスターもランダムに輪となって、話をしていた。きっとその積み重ねっていうのも大切なのだろうな。ひとまずウチも会議の席次をクジ引きにしようかな。
っという感じのまとめになりました。
~~~以下自分のためのメモ
グレーゾーンの可能性:「普通」の拡張⇒「関わり」の拡張
「カリキュラム」と「評価」を手放した場としての学習センター
★学校と方向性が同じであることと役割が違うことの明示
学習センターは半歩先をいくタグボート
一緒に問いをつくる⇒フラットになる。
「学び」と「幸せ」の両立:人間力を高めるプロジェクト
「関わり」の変化⇒使う言葉の変化:「連携・協働」⇒「共創」へ
何を残し、何を変えるのか?
「探究」を手放すフェーズに来ている。
チームになる=方向性を合わせ、役割を分担すること
学校の力学の把握:意思決定者、意思決定の仕組み
★手柄は全部学校に。
「これが探究なんですね」って言ってもらえる探究をつくる
探究=場を主語にした共創
授業をアンラーニングする
逆算せずにやってみることと積み上げること。
フェーズによって行き来する。
~~~
ってこんな感じ。シビれるなあ。
エッセンスをたくさんもらいました。
すぐに実践していきますね。
ということで、「ゲーミフィケーション」の話に戻ります。
12月に佐藤恒平さんのところで聞いた、
「ゲーム探究と演劇探究」って話。
まさにこれらのバランスだなあと。
中動態的な演劇アプローチと俯瞰してみるゲーム的アプローチの両方が必要なんだなあと。
で、これってゲームに似てるなあと。
今回の本で、いちばん刺さったのは、
たのしみの「順序」の話。(P162~)
~~~以下引用
コンピューターゲームのなかでたのしみの「順序」をつくるための手法として「アンロック」と「レベルデザイン」の2つがある。
1 アンロック
「アンロック」はかけられた鍵を一つずつ解錠していく」という意味だ。
アンロックが用いられると、最初にプレーヤーができることはほぼ一つしかない。「スーパーマリオブラザーズ」であればジャンプしかできない。だがしばらくプレイしていると「レベルアップしました」と言われ(アイテムを取り)、たとえば火を使うことができるようになる。さらにプレイを進めると空を飛べるようになったりする。
「教育」でも算数・数学などは段階的にステップアップしていくという意味では同じなのだが、致命的な違いは、教育では「義務」として次の課題が与えられるが、ゲームの「アンロック」は「あなたはレベルアップして強くなったので、こんな新しいことができるようになりました。といった「獲得」として、新たな技能が追加される。
新たにやらなければならない「義務」として提示されるか、新たにこれができる「獲得」として提示されるかにより、プレイヤーがたのしみを持てるかどうかは大きく変わってくるだろう。
これが最初から「たくさんのことができますよ」と言われたらどうだろうか。ほとんどの人は少ししか使いこなすことができないのではないだろうか。「アンロック」はかんたんに言えば、まず「これがたのしいですよ」と言われゲームが始まり、ゲームをプレイするなかでできることが少しずつ増えていく手法だ。
2 レベルデザイン
「レベルデザイン」はプレイヤーの自発性を損なわずに、ゲームの難易度を高めていく。そのため、「アンロック」よりもさらに高度な手法だと位置づけることもできるだろう。
「マリオなら、ひとつのネタがあったら必ずそれを覚える場所、実際遊ぶ場所、応用する場所、極める場所がある」(任天堂・宮本茂)
「覚え」「遊び」「応用し」「極める」というマリオをジャンプさせることを学ぶプロセスはプレイヤーに意識させることなく、マップのなかに周到に順序立てて配置されている。これこそが「レベルデザイン」という手法そのものだ。プレイヤーがゲームに対してより能動的にプレイしてゆくときの「上達の実感」や「適度な手応え」は、「レベルデザイン」という方法論によって実装されるのだ。
多くのコンピューターゲームでは、ゲームを遊ぶために必要な努力をなるべくしないように設計されている。マリオを遊ぶとき、ルールブックをわざわざ読み込む必要はない。また、マリオの動き方のパターンを何十種類も覚える必要はない。
~~~
うーむ。たのしみの順序、か。
こういうことですね、佐藤恒平さん。
自らが勝手にハマっていく「探究」は、きっとゲーム以上の「ゲーム」になっているのだろう。
自らがデザインした(あるいは結果的にデザインされた)ゲームの主人公となり、世の中を舞台に、次々に自分の才能を「解錠」し、気が付かないうちに、たくさんの技を「覚え」「遊び」「応用し」「極める」というプロセスを踏んでいるのだろうと。
令和4年度の僕のコミュニケーションデザインのテーマは「ゲーム」と「ゲーミフィケーション」になりそうです。
3月1日に話していた地域でつくる部活動的な動きに合わせて、いい視点をもらいました。
物語には物語を
部活には部活を
ゲームにはゲームを、ですね。
3年前くらいからずっと言っている「場」のチカラは中動態的な「演劇探究」で、今年のゲーミフィケーションは仕組み・構造を知り、俯瞰してデザインする「ゲーム探究」。
おそらくこの2つを行き来することが探究にとって重要なのだと思ってます。
地域と共につくる共創的な探究へと歩みを進めていきましょう。