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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年04月06日

2つの原理を行き来できる「自由」


「手づくりのアジール-土着の知が生まれるところ」(青木真兵 晶文社)
読み始めました。

「風舟」がどんな場所なのか?なぜ阿賀町なのか?なぜ寮なのか、温泉なのか?
みたいな問いに対してもヒントをもらえる1冊。

まずプロローグに書いてある「アジール」の説明から。

~~~プロローグより
アジールとは、古来より世界各地に存在した「時の権力が通用しない場」のことです。あらゆるものが数値化され、その序列に従って資金配分がなされる現代社会を此岸とし、「そうでない原理が働く場」として彼岸と位置づけたときに、アジールは「自宅を開いて図書館を運営する活動」それ自体がアジールを手づくりすることを意味しているのではないかと思い、本書のタイトルとしました。
~~~

そして第1章「闘う」ために逃げるのだから、考えさせられる一節を。

~~~ここから引用・まとめ
民俗学の父、柳田圀男は、「都市と農村」の中で、生産側の農村が消費側の都市に優越している点を
1 勤労を快楽にできること
2 考えて消費をすればなんとか生きていけること
3 土地からの恩恵を幸福と結びつけることができること
ここで重要なのは柳田が生きた明治から昭和前期には都市と農村という二つの原理がリアリティを持って存在したという事実です。

「二つの原理」については、イヴァン・イリイチも述べていて、もともと人類は生と死、男と女、右と左、敵と味方、都市と農村、文化と自然、秩序と混沌のように「二つの原理」のなかを聞きてきて、それらは「両義的な対照的補完性をなすもの」だったのです。つまり二つの原理は互いに補完し合っていて、どちらが欠けても世界は成り立たなくなってしまう。それが近代になり産業社会が成立する過程で、原理が一つになっていったのだと、彼は問題視しています。
~~~

そして、その世界を成立するために不可欠だったのが二つの世界をつなぐ回路としての「異人」と言いました。
本書では、これを「男はつらいよ」シリーズの寅さんを題材に説明しています。

~~~
高度経済成長期を経た一億総中流化とは、社会の原理が統一されていく過程でした。社会の総中流化、標準化は、社会の内部が「水臭い」資本主義的原理によって構築されていく過程です。そこから逃げ出し、「コスト度外視な」世界に触れることで、寅さんは生きる力を取り戻すことができた。

寅さんが「おいちゃん、それをいっちゃあおしまいだよ」と発するとき、彼は「おじさん、そんなドライなことを言ってしまうと、コモンズであるはずの家庭や故郷が社会にシステムに侵されてしまうよ」と警鐘を鳴らしているのです。

近代と前近代、文明と自然、秩序と無秩序といった二つの原理が補完性をなくし、対立的になってしまっていることが原因です。
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最後に「アジール」について

~~~
網野善彦によると、前近代社会は地縁・血縁が社会の基礎にあったため、アジールは無縁の場でした。だが現代のアジールはどうでしょうか。資本主義の発展により、人々は地縁・血縁を切って個人となり、自由を得てきました。つまり「無縁」の状態を自由だと感じてきたのです。この場合の「自由」は「商品を買うこと」によって得ることができます。しかし資本主義が過度に発展した結果、経済格差が出てきました。つまり「商品を買えない」人たちが出てきたのです。

社会の外部と縁を結び直すことが必要だと思っています。それができる場を、「現代のアジール」と呼びたい。ではどうすれば、外部との回路を取り戻すことができるのでしょうか。
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ヘンリー・D・ソロー「森の生活」にヒントがあると、青木さんは言います。

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なぜソローが独立を果たすことができたのか。それは社会を捨て、自給自足の生活を送ったからではありません。社会の外部の原理に触れる経験をしたことで、彼が社会の内部と外部を行ったり来たりできる確信を得たからです。

相反する二つを対立させ、その対立を乗り越え、一つに統一していくことが近代的な問題解決の仕方でした。しかし社会が経済発展する段階において、都市と農村という二つの原理のうち、都市の原理だけが強くなりすぎてしまった。ソローは湖畔の森で生活することや国民の義務であった税を支払わないことによって、そもそも人間社会に存在した二つの原理を取り戻そうとしたのです。
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数値化を前提として資本主義的・都市的原理に対抗できる別の原理の力を高めておかないと、なにより心が苦しくなってしまうし、自然環境も保護することができず、社会全体を存続することができません。

個人ではどうしようもできないときに必要となるのが、「場所」です。ある空間に身を置くことで、意識的に取り入れることができない情報を、身体が無意識にインストールしてくれます。そのような意味で、資本主義原理に負けない、外部と触れる経験ができる場所が必要なのです。現代社会において「異人」が生きていけるような、アジールとも呼べる、数値化不能な場所をつくりたい。

世の中に存在しないものがほしいとき。その方法は「手づくり」しかありません。むしろ「手づくり」すると、必然的にまだ形をなしていない「未分化」なものになるはずです。まず、その第一歩は逃げること。「闘う」ために逃げるのだ
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いやあ、すごいキーワードだらけでしたね。シビれます。
緑泉寮に来る子たちは、もしかしたらそれを直感しているのかもしれない。

「手づくりのアジール」を必要としている。
社会も、そして自分自身も。

2つの原理があること。
今、見えている世界が唯一の世界ではないこと。
そして2つの世界は行き来できるということ。
その体感を必要としている。

だから、緑泉寮は、学校から4㎞離れている高台にあって、温泉があり、本屋があるのです。
そこは「外部」とつながる場所であり「異人」たちが集う場所。

「学校社会」や「企業社会」といった数値化される資本主義原理だけではない
数値化されない他者からの贈与や自然からの恵みがある世界が存在するのだということ。

まずはその世界を知り、場所を通じてそこにアクセスしてみること。
そして、いつのまにかそれを行き来できるようになること。

「自由」とは、そういうことなのではないかなと僕は思います。  

Posted by ニシダタクジ at 06:47Comments(0)学び日記