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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年06月02日

「プロジェクト」という創造の物語に身を委ねる


「クリエイティブ・ラーニング~創造社会の学びと教育」(井庭崇 編著 慶応義塾大学出版会)

序章から5記事目。
もはやバイブルですね。

いよいよデイヴィッド・コルブ先生の出番です。
「経験学習」理論です。

~~~以下メモ
「学びとは経験の変容を通して、知識が構成される過程である」とコルブは定義した。知識は、経験の把握と変容の組み合わせの結果生じる。

「ラーニング・サイクル」
1 具体的経験:主体が環境に働きかけて相互作用すること。⇒「経験する experiencing」
2 内省的観察:自分の経験の意味を俯瞰的な視点や多様な観点で振り返ること。⇒「振り返る reflecting)」
3 抽象的概念化:経験を抽象化して一般化し、そのルールやパターンを把握し、同化・構成すること。⇒「考える thinking」
4 積極的実験:抽象的概念化で得られた知識を踏まえて次なるアクションを起こすこと。「行為する acting」

また、行為と内省(4⇔2)、経験と抽象化(1⇔3)という2つの軸で学びが駆動される。つまり、

経験の把握する二つの様式である「具体的経験」と「抽象的概念化」の弁証法的解消と、経験を変容させる二つの様式である「内省的観察」と「積極的実験」という相反するものが弁証法的に解消するときに学びが生じるというのである。

※弁証法的解消:「正」(テーゼ)と「反」(アンテーゼ)を本質的に統合した「合」(ジンテーゼ)へと導く重要さをヘーゲルは説いた。
~~~

この後、コミュニケーションと創造のシステム理論へと進んでいく

~~~以下メモ
ニクラス・ルーマンの社会システム理論では、コミュニケーションは、主体の伝達や受信の行為のことではなく、複数の心的システムの間に生じる一つの「出来事」として、創発するものだとされる。コミュニケーションは、それに先行するコミュニケーションからの文脈をもっており、そのあとに続くコミュニケーションにつながっていくという文脈をつくる。

次に「創造」について考えたい。

何かをつくり込むときには、つくられるものの「あるべきかたち」があるということを、ここでは強調したい。つくり手がつくりたいようにつくれるわけではないのである。例えば、作曲をしているときに、合わせる音がずれていたら、つくり手がどう思うかに関わらず、それは事実として美しさが損なわれているのであり、きちんと合わされるべきだ、ということになる。あるいは、物語において主人公がとるべき言動はそのキャラクターと文脈に応じて自然なものであるべきだろう。このようにつくり手の「こうしたい」という作為にもとづいてではなく、「こうあるべき」だということに従ってつくられるのである。

これは、創造が、その創造ごとに固有の内的な論理によって進められることを意味している。

宮崎駿「クリエイティブというとかっこいいけれども、そうではなくて、自分の今の能力と、与えられている客観的な条件の中で、最良の方法はひとつしかないはずで、この路線、方法を決めてしまった以上、その方法は毎回、ひとつしかないはずだ。それにより近い方法を見つけていく作業にすぎない。映画は映画になろうとする。作り手は実は映画の奴隷となるだけで、作っているのではなく、映画につくらされている関係になるのだ。

谷川俊太郎「最終的には語と語の順列組み合わせでしかない文章というものにおいて、私たちは或る一語の次に他の一語を択ぶ。その選択には動かすことのできない必然性があると私たちは感じている。

このように創造の内実は、つくっていくもの(作品)が、「あるべきかたち」になっていくための次の一手を「発見」していくことの連続なのである。このことを、創造システム理論では、「創造とは発見の生成・連鎖である」と言う。しかも、その発見は、その創造に固有の内的な理論に従って生み出される。発見は、その創造(のシステム)のなかでのみ、発見としての意味があり、システムの中で要素として構成されると言うことができる。つまり、創造における発見の生成・連鎖も、オートポイエティック(自己創成的)なのである。

これって「委ねる」っていうことじゃないか。「創造」と「委ねる」って実は近いのかも。

創造システムとは、発見を要素とするオートポイエティック・システムであるということになる。「発見」は、ある「アイデア」が今取り組んでいる創造に必要なものだと「関連づけ」られるということを見出したときに創発する。

ここでいう発見は単に創造のプロセスを進めるという意味での「発見」である。

創造のプロセスにおいて、先行する発見を受け、それ以降の発見へとつながっていく、という機能を果たす要素を「発見」と呼ぶ。ここでいう「発見」は、心的システムのなかの意識としてではなく、また社会的な側面からも独立したものとして捉えられている点に、創造システム理論の特徴がある。あくまでも、その創造における論理・文脈での発見の生成・連鎖に注目するのである。

宮崎駿「映画というのは、映画になろうとしますから、その道筋をこちらが間違えないように見定めて、映画が映画になろうとするのを、ちゃんとやらなきゃいけないんですよ。自分がこれで何かを訴えたいというよりも、映画がこれを言いたがっているんだから、それを言わなきゃ仕様がないんですよね。」

村上春樹「本を書き始めるとき、僕の中には何のプランもありません。ただ物語がやってくるのをじっと待ち受けているだけです。それがどのような物語であるのか、そこで何が起ころうとしているのか、僕が意図して選択するようなことはありません。物語が何を求めているかを聴き取るのが僕の仕事です。」

何かの創造が可能となるためには、ヴィゴツキーが言うように、心的システムにおいて想像力が発動しなければならないのは確かである。しかし、それは心的システム側の事情であって、創造はその心的システムの意図や作為の思いどおりにはいかない。つくっているもの(作品)は、創造システムのなかで、その創造に固有の内的な論理に従って、発見の生成・連鎖としてつくられていく。心的システムは、創造システムの固有の内的な論理に従って「あるべきかたち」に向かう発見の生成・連鎖を「体験」し、受け入れるというかたちになる。

村上春樹「物語を書きだすときには、僕はそれがどんな結末を迎えるのか知らないし、次に何が起こるのかもわからない。最初に殺人事件があったとしても、誰が犯人なのか僕は知識を持ちません。僕はそれが誰なのかを知りたくて、小説を書き続けるわけです。もし誰が犯人なのかわかっていたら、小説を書く目的がなくなってしまいます。」

おいおい。マジかよ。犯人誰か作者も分からないのに殺人事件は起こっているんだ。

小川洋子「作家はその作品の一から百まで、全部自分一人の責任で書いているのだから、自分の思いどおりにできるじゃないか、と思われるかもしれませんが、実はそうではありません。・・・「こっちへいこう、こういうふうに世界を広げていこう」という、物語自身が持っている力に導かれないと小説は書けないと思います。」

人間がいなければ(心的システムがなければ)、創造システムが作動することはないのであるが、それは心的システムが創造システムをコントロールしているということを意味するのではない。創造にとっては、人間は不可欠ではあるが、あくまでも「環境」にすぎないのであり、創造は、創造そのものが自ら展開するのである。このようなことは物語をつくることにとどまらず、あらゆる創造に言えることである。

久石譲「頭の中でこんな曲にしようと考えている段階は、あくまで入り口でしかない。作曲の本質は、もっと無意識の世界に入り込んで、カオスの中で自分でも想像していなかった自分に出会うことにある。つくろう、つくろうという意識が強いときは、まだ頭で考えようとしているのだと思う。秩序立てて考えられないところで苦しんで、もがいて、必死の思いで何かを生み出そうとする。その先の、自分でつくってやろう、こうしてやろうといった作為のようなものが意識から削ぎ落とされたところに到達すると、人を感動させるような力を持った音楽が生まれてくるのだと思う。」

創造に「意志」なんて要らない、というか、「意志」という邪念がなくなったところに人を感動させるような作品が生まれるのだ。

創造システムの発見の生成・連鎖を、心的システムの意識が認識することは、心的システムは、いわば創造における発見を(後から)取り入れることを意味する。村上春樹は、その感覚を「ぼく自身、小説が自分自身よりも先に行っている感じがする」と言い、「いまぼく自身がそのイメージを追いかけている、という感じがある」と表現している。小川洋子も、「小説を書きながら、書き手である自分がいちばん後ろを追いかけているな、と感じます。宮崎駿も同様に、「僕は、ものを作る主体として作品を作っていたというより、ただ後ろからくっついていただけで・・・」と語っている。

さらに、創造的行為は、自分自身も変えていく。

村上春樹「長編小説を書いているときは、書きながら身体の組成そのものが刻々と変化していくようなところがあって、それは何ものにもかえがたい興奮であり、充実感です。でも「楽しいか?」と質問されると、そんな単純な言葉ではとても形容できないというしかないんですね。見通しの悪い未知の大地をどんどん前に進んでいくようなものだから、そりゃしんどいし。きついし、不安がないといえば嘘になります。小説を書くのは、僕にとってすごく大事なことなんです。それは自分の作品を生み出すことであると同時に、自分を変えていく、自分自身をバージョンアップしていくことでもあるわけだから。」

そして、プロローグにも書いてあるけど、川喜田二郎先生。
「創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象をつくり出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある」

そして、ここでデューイふたたび登場。
「あらゆる探究と発見は、そのなかに含まれているあらゆる危険を冒して、なお個人を作ることを含意している。というのは、新しい真理と展望に到達することは変わることだからである。古い自我は捨て去られ、新しい自我のみが形成されつつあり、その自我が最終的に取得した形態は、冒険の予見できない結果にかかっている。」

プロローグからの村上春樹とミヒャエルエンデをここでもう一度
村上春樹「主人公が体験する冒険は、同時に、作家としての僕自身が体験する冒険でもあります。書いているときには、主要な人物が感じていることを僕自身も感じますし、同じ試練をくぐりぬけるんです。言い換えるなら、本を書き終えたあとの僕は、本を書きはじめたときの僕とは、別人になっているんです。」

ミヒャエル・エンデ「わたしはよく言うのですが、わたしが書く行為は冒険のようなものだって。その冒険がわたしをどこかへ連れていき、終わりがどうなるのか、わたし自身さえ知らない冒険です。だから、どの本を書いた後も私自身がちがう人間になりました。私の人生は実際、わたしが書いた本を節として区切ることができる。本を執筆することがわたしを変えるからです。」

川喜田二郎の「絶対的受け身」
「自分がやりたいからやるんだという底の浅いものではなく、全体状況が自分にこういうことをやれと迫ってくるから、やむなくやっているという絶対感があるもので、それは絶対的受け身ということでもある。・・・全体状況が自分にやれと迫るからやらざるをえないというほうが、じつは真に主体的だと私は思うのである。」

「創造的行為の内面、それもひじょうに深いところに宿っている不可思議な何かに導かれているのではないかという気持ちは、創造的行為を達成したときの人の心に、自ずから愛と畏敬の念を生み出すものである。それは、今度やった仕事は創造的だったと思うような体験をしたとき、それを達成した人に、自らが生み出したものに対して、「俺が生み出したのだから、これは俺のものだ」という所有の概念がけっして生じないことでわかる。その人は何かの暗示によって、生み出されたものに対して対等の愛を感じるものであって、そこには所有物という感覚は生じないのである。」

「創造的行為において「客体」と「主体」の双方が創発されるだけかというと、その行為を通じて主体と客体とは、ひじょうに深い「愛と連帯感」で結ばれるのである。創造的行為が達成された当座は、きわめてホットな愛であり、時間がたつと連帯という形で落ち着く。」

「しかも、主体と客体が創造されるだけでなく、その創造が行われた「場」も、新たな価値を付加されて生み出されるものである。したがって、ひとつの創造的行為が達成された場合、そこには「主体」と「客体」と「場」の三つが生み出されるということで、その「場」というものが、第二の、そして第三の「ふるさと」となるということである。」

これからの学校は、「つくる」場になるのであり、それゆえ、それは、創造の「ふるさと」として位置づけられるようになることを意味する。学校は、創造社会における創造を下支えする思い出深い象徴的な場所になるのであり、創造社会を希望を持って生きることを内側から支えるような心の「ふるさと」になるのである。
~~~

つながった。
ぜんぶつながりました。
場のチカラも、発見と変容も、アイデンティティ問題も。なんなら「現代の美術家」も。(笑)
「創造社会」へのアプローチだったんですね。

「創造システム」に身を委ねること。
「創造の物語」の意志に従うこと。
「創造」が目指すあるべき姿に向けてアイデアを出すこと。

その創造の先に、結果として自己の変容があるんだ。
「自分を変えたい」と望まなくてもいい。

「プロジェクト」ってそんな風に「委ねる」ものなんだなって思った。
プロジェクトという「創造の物語」に身を委ね、感じることを発言し、発見を楽しみ、創造する場をともにすること。

ドキドキするような「創造」の瞬間に何度も立ち会うこと。夢中で取り組んで気がついたら、そこが「ふるさと」になっている、っていう仮説。

かつて、宮澤賢治は「農民芸術概論綱要」でこう語りかけた。
職業芸術家は一度亡びねばならぬ
誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である

探究学習に取り組む生徒たちと大人たちにいま一度メッセージを送りたい。

芸術家であれ  

Posted by ニシダタクジ at 07:53Comments(0)学び日記