2023年02月27日
「好き」というフィクションで自分を創る
2月23日「くらはたずかん」の報告会@新潟駅MOYORe:でした。
各地域を取材した大学生のブログ記事を発表し、
それについて話をしていました。
全体のnote記事はこちらから
https://note.com/kurahata_niigata/
今回取り上げるのは、2つ。
ふりかえりセッションでのコメントが多かった柏露酒造の染谷さん
https://note.com/kurahata_niigata/n/n13b237187f9f
~~~
「好きなことを仕事にできていいよね」って言われるけど、「日本酒が好き」と自分に思い込ませたという感じです。そうじゃないと何でここで働いてるの?って聞かれたときに説明できないんですよ。もちろんお世話になったから恩返しをするためという理由もありますけどね。
~~~
「好きなことを仕事にする」って素敵だよね、って多くの人が思っている。
一方で今働いている人の何割がその状況なのか?と問われれば1割を切っているんじゃないかと思う。
そんな世の中で「好きってことにする」っていうのは、
なかなかの衝撃だった。
そもそも、「自分はこれが好き」って胸張って言えるものってどれくらいあるだろうか。
好きな食べ物とか音楽とかだったら、それなりに語れるのだろうけど。
仕事の分野や内容でそれを語れる人ってどれくらいいるのだろうと。
みんなそんなに自分に自信ないんじゃないか。
「日本酒が好きってことにする」
「そうするとだんだんと好きになって行く」
「日本酒が好きな自分に自信が持てるようになっていく」
「やっと好きって言える」
そんなモデルなのではないかなあと。
もちろん、だんだんと好きにならない場合もあるんでしょうけど。
そのときはまた、違う「好き」を設定してみるしかないなと。
あとは、これ。
https://note.com/kurahata_niigata/n/n4b41af0a0635
糸魚川・能生の屋村さんの記事なのだけどその冒頭
~~~
今回の記事は、以下のみなさんにおすすめ!
・都会暮らしに憧れている人
・地方でのスローライフに憧れている人
・飽きっぽい人
・パートナーとの将来を考え始めた人
・社会に出ることが不安な人
~~~
リアル。リアルすぎる。
特に「パートナーとの将来を考え始めた人」って
大学4年生女子あるあるですごい。
で、文章もまさに!ってグッとくる箇所が多い。
話を聞いて、それが彼女なりの「魔法をかける編集」なのだと知った。
くらはたずかんのキックオフの時、
僕はいつもの「魔法をかける編集」の話をした。
「今しか、あなたにしか書けない記事を書いてください。」だ。
取材に行って、話を聞いて、その問いをまたグルグルして、記事を書く。
誰に向けて、どうなってほしくて、この記事を書くのだろうか。
私が伝えるべきことは?
そんな問いの中で出来上がった文章が心を打つのだと思う。
1年かけて1本のブログ記事を書く。なんとも贅沢な時間。
こういうのは県庁がやったほうがいいですね。
各地域を取材した大学生のブログ記事を発表し、
それについて話をしていました。
全体のnote記事はこちらから
https://note.com/kurahata_niigata/
今回取り上げるのは、2つ。
ふりかえりセッションでのコメントが多かった柏露酒造の染谷さん
https://note.com/kurahata_niigata/n/n13b237187f9f
~~~
「好きなことを仕事にできていいよね」って言われるけど、「日本酒が好き」と自分に思い込ませたという感じです。そうじゃないと何でここで働いてるの?って聞かれたときに説明できないんですよ。もちろんお世話になったから恩返しをするためという理由もありますけどね。
~~~
「好きなことを仕事にする」って素敵だよね、って多くの人が思っている。
一方で今働いている人の何割がその状況なのか?と問われれば1割を切っているんじゃないかと思う。
そんな世の中で「好きってことにする」っていうのは、
なかなかの衝撃だった。
そもそも、「自分はこれが好き」って胸張って言えるものってどれくらいあるだろうか。
好きな食べ物とか音楽とかだったら、それなりに語れるのだろうけど。
仕事の分野や内容でそれを語れる人ってどれくらいいるのだろうと。
みんなそんなに自分に自信ないんじゃないか。
「日本酒が好きってことにする」
「そうするとだんだんと好きになって行く」
「日本酒が好きな自分に自信が持てるようになっていく」
「やっと好きって言える」
そんなモデルなのではないかなあと。
もちろん、だんだんと好きにならない場合もあるんでしょうけど。
そのときはまた、違う「好き」を設定してみるしかないなと。
あとは、これ。
https://note.com/kurahata_niigata/n/n4b41af0a0635
糸魚川・能生の屋村さんの記事なのだけどその冒頭
~~~
今回の記事は、以下のみなさんにおすすめ!
・都会暮らしに憧れている人
・地方でのスローライフに憧れている人
・飽きっぽい人
・パートナーとの将来を考え始めた人
・社会に出ることが不安な人
~~~
リアル。リアルすぎる。
特に「パートナーとの将来を考え始めた人」って
大学4年生女子あるあるですごい。
で、文章もまさに!ってグッとくる箇所が多い。
話を聞いて、それが彼女なりの「魔法をかける編集」なのだと知った。
くらはたずかんのキックオフの時、
僕はいつもの「魔法をかける編集」の話をした。
「今しか、あなたにしか書けない記事を書いてください。」だ。
取材に行って、話を聞いて、その問いをまたグルグルして、記事を書く。
誰に向けて、どうなってほしくて、この記事を書くのだろうか。
私が伝えるべきことは?
そんな問いの中で出来上がった文章が心を打つのだと思う。
1年かけて1本のブログ記事を書く。なんとも贅沢な時間。
こういうのは県庁がやったほうがいいですね。
2023年02月22日
地域みらい留学ビジョンセッションの型
地域みらい留学を検討している中学生に向けたメッセージを検討する方法:「場」と「人」の往還
1 この町はどんな町?この学校はどんな学校 ⇒ だからこういう人に来てほしいの言語化(付箋ワーク)
※これを地元住民(役場の人)を交えてやることで、町の再発見とチームビルディングになる。
⇒ふるさとCM大賞でもこのフレーム使えるかも?
2 具体的な生徒の事例(成長物語的なもの等)を出して、それを1と合わせる
※1との往復によって、理想的な具体例に落とし込む
3 2で作った具体例に合わせ、コンセプトを言語化し、対象者(ターゲット)向けの言葉をつくる。
※〇〇とともにつくるを3パターンつくる、など。
「こういうことができるから」「こういう人に来てほしい」
「こういうことに困っているから」「一緒に考えてほしい」
「私たちは急いでないから」「場に委ねながらゆっくりと考えよう」
〇〇と●●を、ともにつくる
目的・目標中心主義からのグラデーションで表現する。
例:
1 地域にこんなフィールドがあるから、地域のサポートを受けて学べます⇒目的がある、または目的を見つけて学びたい人
2 学校生活もいいけど、暮らしを楽しみたい人は一緒に楽しみましょう⇒畑づくりやそば打ち、釣りなど、暮らしのスキルを身につけたい人
3 ひとりの時間も大切にして考えたい人は、見守ります⇒自然やゆっくりとした時の流れの中で深く考えたい人
1 この町はどんな町?この学校はどんな学校 ⇒ だからこういう人に来てほしいの言語化(付箋ワーク)
※これを地元住民(役場の人)を交えてやることで、町の再発見とチームビルディングになる。
⇒ふるさとCM大賞でもこのフレーム使えるかも?
2 具体的な生徒の事例(成長物語的なもの等)を出して、それを1と合わせる
※1との往復によって、理想的な具体例に落とし込む
3 2で作った具体例に合わせ、コンセプトを言語化し、対象者(ターゲット)向けの言葉をつくる。
※〇〇とともにつくるを3パターンつくる、など。
「こういうことができるから」「こういう人に来てほしい」
「こういうことに困っているから」「一緒に考えてほしい」
「私たちは急いでないから」「場に委ねながらゆっくりと考えよう」
〇〇と●●を、ともにつくる
目的・目標中心主義からのグラデーションで表現する。
例:
1 地域にこんなフィールドがあるから、地域のサポートを受けて学べます⇒目的がある、または目的を見つけて学びたい人
2 学校生活もいいけど、暮らしを楽しみたい人は一緒に楽しみましょう⇒畑づくりやそば打ち、釣りなど、暮らしのスキルを身につけたい人
3 ひとりの時間も大切にして考えたい人は、見守ります⇒自然やゆっくりとした時の流れの中で深く考えたい人
2023年02月19日
「構想」と「実行」、そして「アイデンティティ」
徳島・神山町にようやく行ってきました。宿題をたくさん残してきた2日間となりました。夏にまたいけるといいなと。
雨乞の滝は不動滝で引き返しました。

詳細は現在まとめているとして、一番感じたことは、「存在承認」のデザインでした。
高校3年の千代実さん。寮の夜ごはんづくりでも手際よく鶏肉を捌いていた。寮生の頼れるお姉さん的な存在。彼女の作ったケーキが「かま屋」で販売されると聞き、お邪魔しました。


そして手に入れたのがこの新聞です。

高校1年の夏からアルバイトを始めて2年半。
彼女の高校生活はかまパンとともにありました。
~~~以下新聞より引用
約2年半の間で、かまパンという存在は姿を変え続けています。それでも、ずっと変わらず大好きな場所です。学校や寮、地域に居場所がなかったころ、かまパンは私の心の拠り所でした。ここだったらいてもいいんだ、と何度も思わせてくれました。密かに、勝手に、常に支えてもらいました。それはきっとかまパンの人たちが、高校生やアルバイト、あゆハウスの子といった何かの括りを通してではなく、一人の人として私を見てくれたからだと思います。そんな環境が私は心から嬉しかったのです。
やりたいことがわからなくなったとき、かまパンは常に刺激をくれる場所でした。自分の興味関心を大切にしている人ばかりで、私にはなかった視点や考え方をたくさん教えてもらえました。自分の大切な経験や好きなことを語ってくれるみんなの顔はいきいきとしていて、私も自分のことのように心を躍らせる日々でした。
一歩踏み出せない弱い自分がいるとき、かまパンは挑戦する勇気をくれる場所でした。(中略)かまパンにいたから、できない理由よりもできる方法を探せる人になりたい、と思えるようになりました。
そして、神山の土地を離れる今、かまパンはこれからもずっと関わり続けたい、何度でも遊びにきたい場所です。ここで作られるパンを食べに、ここにいる人たちに会いに、ただこの場所を訪れるために。きっと私はこの先も、かまパンを愛し続けるのだと思います。こんなふうに思える場所に出会えたことが、大きな大きな私の財産です。
~~~ここまで引用
なんかもう、泣きそうだ。アルバイトの意味ってなんだろう?って。川喜田二郎氏が言う、「創造的行為を繰り返し行い、そのいくつかの達成が累積した場所」それがふるさとなのだと。
千代実さんの場合は、まさにそれなのではないかと。
この「生きてる感」はなんだろう、って。
多くの、いやほとんどすべての高校生、大学生は、アイデンティティの不安を抱えて生きている。
自分は何者なのか。生きている意味があるのか。誰かの役に立つことができるのか。
(それをいったらほとんどの大人も同じ問いを持っているのかも)
「創造的行為」の前段階が必要なのではないか。
それは、同じく川喜田二郎氏の「野生の復興」から読み解けば
http://hero.niiblo.jp/e490083.html
(参考:「判断」の余白をつくる 19.12.9)
~~~ブログから引用
「仕事」から「判断」を奪えば、それは「仕事」ではなく「執行」になる。(川喜田二郎「野性の復興」より)
この言葉は重い。多くの人たちが「仕事」と呼んでいるものは、実は「執行」に過ぎないのではないか。それは組織の問題でもあり、規模の問題でもあり、個人の問題でもある。
「学び」もきっとそうだ。「授業」がそもそも「執行」に過ぎないのではないか?そこに「判断」があるのか?「構想計画」があるのか?
「課題が与えられ、解決策を提案する」。「観察」も「判断」も「執行」もない。そんな授業でどんな力をつけようとするのか?
~~~
千代実さんのバイト先であるかまパンには、「構想」と「判断」があったのだろう。いや、つねにその連続の中に身を置いていたのだろう。
そして、さらにその前提として、千代実さんも書いているけど、「何かの括りを通してではなく、一人の人として」存在できる場であった、ということ。
「存在の承認」それをどのように見出し、形成していくか。
それは本人にとっても大人側にとっても、非常に重要な課題であると思う。
http://hero.niiblo.jp/e291471.html
(参考:承認欲求と他者評価 13.10.24)
考えてみれば、ここ10年、ずっとこのことを考えている気がする。山竹伸二さんの言うところの親和的承認(存在承認)を得るのは、本来であれば親や祖父母をはじめとする血縁者だろうと思うが、それを家庭に期待することはすでに難しい。
だったら、地域(社会)がそれをできないだろうか。
そのひとつの手法が「アルバイト」、それも個人店、小規模事業者のアルバイトであるかもしれない。コンビニやチェーン店のような大手と違うところは、「構想と実行の分離」ではないか、と。
「構想」と「実行」が分離されているところには「やらされ感」がある。
http://hero.niiblo.jp/e491374.html
(参考:「やらされ感」の正体 21.1.21)
1 構想に同意している
2 構想づくりに参加している
3 構想づくりに参画している
4 自ら構想している
この階段を徐々に登っていくこと。「構想の階段」を登って行けば行くほど、そこには、自分がプロジェクトを動かした実感が伴ってくる。
僕はそれがアイデンティティの形成にも関係してくるのではないかと思った。
一人の人として存在を承認される。
次に場の一員として構想から実行までに参加・参画する。
その繰り返しによって何かを創造する。
「自分」と「地域(社会)」と「未来」にプロジェクトができていくと言っていたけれど。「自分づくり」と「地域づくり」と「未来づくり」は、構想から実行へというプロジェクトを通して、同時に起こっていくのだろう。
2月8日に書いた違和感
~~~
「探究的な学び」が求められる。そこでは「内発的動機付け」や「主体性」が重要視される。その出発点が「地域課題」であったりすると、ストーリーとしては魅力的だ。しかしそれは「正解」に向かっていく従来の学びと何が違うのだろうか?
~~~
http://hero.niiblo.jp/e492876.html
(参考:正解というまがいもの 23.2.8)
そこに「構想」や「判断」が本当にあるのか?逆に、自分出発の「構想」が無ければ、そこに「自分」は形成されるだろうか。
千代実さんのかまパンでのアルバイトには、そのほとんどがあった。
・ひとりの人として承認される場があった。
・「構想」と「判断」と「実行」を目の前で見れるバイト先だった
・自らもケーキを企画・制作し、販売することができた。
そのすべてが、この場所を、かまパンを、そして神山を、ふるさとへと変えていく。
日本画家の千住博さんは、「料理だって立派な芸術です。作り手が、自分のイマジネーションを広げ、『私はこれが美味しいと思う。みなさんどうでしょう』と差し出すのですから。」と言う。
参考:「混沌」を示すことが、現代を生きる芸術家の使命でもある【第1回】「芸術とは何か」についての考察(19.3.9)
https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17251951
あゆハウスで行っている生徒による料理は、2時間でできる「構想と判断と実行」の実践かもしれない。「朝のあのスープ美味しかった」とフィードバックをもらい、少しだけホッとする。自分がここに存在していてもいいのだと思える。
先輩たちについて、最初はおそるおそる。でも経験を重ねれば、みんなができるようになる。
暮らしって、きっとそういうものだ。
直線的に進んでいく未来に向かって、階段を登っていくような「達成と成長」モデルではなく、ただひたすらに続いていく循環する今日を生きながら、「構想と判断と実行」を繰り返し、いつの間にかできていくもの。
それこそがアイデンティティであるのかもしれない。
雨乞の滝は不動滝で引き返しました。

詳細は現在まとめているとして、一番感じたことは、「存在承認」のデザインでした。
高校3年の千代実さん。寮の夜ごはんづくりでも手際よく鶏肉を捌いていた。寮生の頼れるお姉さん的な存在。彼女の作ったケーキが「かま屋」で販売されると聞き、お邪魔しました。


そして手に入れたのがこの新聞です。

高校1年の夏からアルバイトを始めて2年半。
彼女の高校生活はかまパンとともにありました。
~~~以下新聞より引用
約2年半の間で、かまパンという存在は姿を変え続けています。それでも、ずっと変わらず大好きな場所です。学校や寮、地域に居場所がなかったころ、かまパンは私の心の拠り所でした。ここだったらいてもいいんだ、と何度も思わせてくれました。密かに、勝手に、常に支えてもらいました。それはきっとかまパンの人たちが、高校生やアルバイト、あゆハウスの子といった何かの括りを通してではなく、一人の人として私を見てくれたからだと思います。そんな環境が私は心から嬉しかったのです。
やりたいことがわからなくなったとき、かまパンは常に刺激をくれる場所でした。自分の興味関心を大切にしている人ばかりで、私にはなかった視点や考え方をたくさん教えてもらえました。自分の大切な経験や好きなことを語ってくれるみんなの顔はいきいきとしていて、私も自分のことのように心を躍らせる日々でした。
一歩踏み出せない弱い自分がいるとき、かまパンは挑戦する勇気をくれる場所でした。(中略)かまパンにいたから、できない理由よりもできる方法を探せる人になりたい、と思えるようになりました。
そして、神山の土地を離れる今、かまパンはこれからもずっと関わり続けたい、何度でも遊びにきたい場所です。ここで作られるパンを食べに、ここにいる人たちに会いに、ただこの場所を訪れるために。きっと私はこの先も、かまパンを愛し続けるのだと思います。こんなふうに思える場所に出会えたことが、大きな大きな私の財産です。
~~~ここまで引用
なんかもう、泣きそうだ。アルバイトの意味ってなんだろう?って。川喜田二郎氏が言う、「創造的行為を繰り返し行い、そのいくつかの達成が累積した場所」それがふるさとなのだと。
千代実さんの場合は、まさにそれなのではないかと。
この「生きてる感」はなんだろう、って。
多くの、いやほとんどすべての高校生、大学生は、アイデンティティの不安を抱えて生きている。
自分は何者なのか。生きている意味があるのか。誰かの役に立つことができるのか。
(それをいったらほとんどの大人も同じ問いを持っているのかも)
「創造的行為」の前段階が必要なのではないか。
それは、同じく川喜田二郎氏の「野生の復興」から読み解けば
http://hero.niiblo.jp/e490083.html
(参考:「判断」の余白をつくる 19.12.9)
~~~ブログから引用
「仕事」から「判断」を奪えば、それは「仕事」ではなく「執行」になる。(川喜田二郎「野性の復興」より)
この言葉は重い。多くの人たちが「仕事」と呼んでいるものは、実は「執行」に過ぎないのではないか。それは組織の問題でもあり、規模の問題でもあり、個人の問題でもある。
「学び」もきっとそうだ。「授業」がそもそも「執行」に過ぎないのではないか?そこに「判断」があるのか?「構想計画」があるのか?
「課題が与えられ、解決策を提案する」。「観察」も「判断」も「執行」もない。そんな授業でどんな力をつけようとするのか?
~~~
千代実さんのバイト先であるかまパンには、「構想」と「判断」があったのだろう。いや、つねにその連続の中に身を置いていたのだろう。
そして、さらにその前提として、千代実さんも書いているけど、「何かの括りを通してではなく、一人の人として」存在できる場であった、ということ。
「存在の承認」それをどのように見出し、形成していくか。
それは本人にとっても大人側にとっても、非常に重要な課題であると思う。
http://hero.niiblo.jp/e291471.html
(参考:承認欲求と他者評価 13.10.24)
考えてみれば、ここ10年、ずっとこのことを考えている気がする。山竹伸二さんの言うところの親和的承認(存在承認)を得るのは、本来であれば親や祖父母をはじめとする血縁者だろうと思うが、それを家庭に期待することはすでに難しい。
だったら、地域(社会)がそれをできないだろうか。
そのひとつの手法が「アルバイト」、それも個人店、小規模事業者のアルバイトであるかもしれない。コンビニやチェーン店のような大手と違うところは、「構想と実行の分離」ではないか、と。
「構想」と「実行」が分離されているところには「やらされ感」がある。
http://hero.niiblo.jp/e491374.html
(参考:「やらされ感」の正体 21.1.21)
1 構想に同意している
2 構想づくりに参加している
3 構想づくりに参画している
4 自ら構想している
この階段を徐々に登っていくこと。「構想の階段」を登って行けば行くほど、そこには、自分がプロジェクトを動かした実感が伴ってくる。
僕はそれがアイデンティティの形成にも関係してくるのではないかと思った。
一人の人として存在を承認される。
次に場の一員として構想から実行までに参加・参画する。
その繰り返しによって何かを創造する。
「自分」と「地域(社会)」と「未来」にプロジェクトができていくと言っていたけれど。「自分づくり」と「地域づくり」と「未来づくり」は、構想から実行へというプロジェクトを通して、同時に起こっていくのだろう。
2月8日に書いた違和感
~~~
「探究的な学び」が求められる。そこでは「内発的動機付け」や「主体性」が重要視される。その出発点が「地域課題」であったりすると、ストーリーとしては魅力的だ。しかしそれは「正解」に向かっていく従来の学びと何が違うのだろうか?
~~~
http://hero.niiblo.jp/e492876.html
(参考:正解というまがいもの 23.2.8)
そこに「構想」や「判断」が本当にあるのか?逆に、自分出発の「構想」が無ければ、そこに「自分」は形成されるだろうか。
千代実さんのかまパンでのアルバイトには、そのほとんどがあった。
・ひとりの人として承認される場があった。
・「構想」と「判断」と「実行」を目の前で見れるバイト先だった
・自らもケーキを企画・制作し、販売することができた。
そのすべてが、この場所を、かまパンを、そして神山を、ふるさとへと変えていく。
日本画家の千住博さんは、「料理だって立派な芸術です。作り手が、自分のイマジネーションを広げ、『私はこれが美味しいと思う。みなさんどうでしょう』と差し出すのですから。」と言う。
参考:「混沌」を示すことが、現代を生きる芸術家の使命でもある【第1回】「芸術とは何か」についての考察(19.3.9)
https://www.foresight.ext.hitachi.co.jp/_ct/17251951
あゆハウスで行っている生徒による料理は、2時間でできる「構想と判断と実行」の実践かもしれない。「朝のあのスープ美味しかった」とフィードバックをもらい、少しだけホッとする。自分がここに存在していてもいいのだと思える。
先輩たちについて、最初はおそるおそる。でも経験を重ねれば、みんなができるようになる。
暮らしって、きっとそういうものだ。
直線的に進んでいく未来に向かって、階段を登っていくような「達成と成長」モデルではなく、ただひたすらに続いていく循環する今日を生きながら、「構想と判断と実行」を繰り返し、いつの間にかできていくもの。
それこそがアイデンティティであるのかもしれない。
2023年02月18日
輸送から徒歩旅行へ、そして「自由」を手に入れるために学ぶ

「君は君の人生の主役になれ」(鳥羽和久 ちくまプリマ―新書)
読み終わりました。
すごいグサグサと刺さりまくる本ですね。
高校魅力化界隈の人は読んでほしい。
その「探究」は何のため?と問いかけられる1冊。
~~~以下メモ
自主性というのは、環境とウマが合ったときに子どもに欲望の火がついた状態のことを言うのでしょう。つまり、教育の「され方」がうまくいっているときに、自主性は生まれやすいのです。
学びは一方がもう一方をむやみに信じ込むという非対称な関係のもとでなければ成立しえないのです。
それなら、あなたにとってどういう人が「先生」になり得るのでしょうか。それは、謎を秘めている人です。つまり、得体の知れなさのようなものを感じさせる人です。
実社会という狭い現実を上位に置くような教育では、子どもは育ちません。実社会の方が偉いと思っている大人は、規範的な価値観を教えることはできても、子どもに本質的な理想を語ることはできません。
いつの間にか先生が教えようとしていないことまで勝手に学んでしまう。そういう勘違いが学びの本質。
先生との出会いというのは、いったん自分の身体がバラバラになったような経験です。それから、バラバラになった身体を再統合して、もう一度生き直すような経験です。
「差別はいけない」という形でマイノリティが社会的に包摂されるようになった状況は、これまでのマジョリティの支配と何も変わっていない。むしろ、それも差別の一形態じゃないか。
自分を善良の立場に置くことがいつも差別の構造の根本にあるのに、いったんその立場に立ってしまうと、それを保持することに躍起になり、肝心なことに気がつかなくなってしまうものです。
コントロールというのは、わかりやすく相手を自分の思想に染めるのではなくて、こんなふうに相手をある枠内でしか思考できないよう追い込むことによって遂行されます。でも、それは表面上では子どもの意志を尊重する体をとるから、子どもはもちろん親自身さえその権力構造になかなか気づきません。
~~~
いいですねえ。
なんかバッサリっていう感じで。
「実社会という狭い現実を上位に置くような教育では、子どもは育ちません。実社会の方が偉いと思っている大人は、規範的な価値観を教えることはできても、子どもに本質的な理想を語ることはできません。」
そうなんですよ。実社会が偉いなんて、子どもも大人ももう信じられなくなっているんじゃないかと思います。
そして、ラストの章は、「なんのために勉強するのか」についての鳥羽さんなりのコメントがアツいです。
~~~以下メモ
「人の役に立つため」に勉強するようでは志が低いんです。なぜなら、「人の役に立つため」というゴール設定は、知らず知らずのうちに未来の可能性を封じてしまうからです。
科学技術の歴史を振り返ってみればわかりますが、人間が生きる地層を変化させるような発明のほとんどは「人の役に立つため」という動機で生まれていません。そうではなく、世界の秘密を探求する営みの中でたまたま発見されたことが、応用的に人の役に立つことに利用されるようになったのです。
つまり、人の想像力なんてたかが知れていて、現実世界では人の想像をはるかに超える偶発的な出来事が起こる。そこに秘められた爆発的な力をうまく利用することで、人は世界を改変してきたのです。
「人の役に立つため」という限定された目標設定では、偶然との出会いは生まれず、スタートの時点で未来の可能性をつぶしてしまいます。
~~~
人の役に立つっていうのは目的ではなく結果だと鳥羽さんは言います。
さらに、勉強と「自由」ついて、鳥羽さんのアツい話が続きます。
~~~
あなたが勉強を通して自分自身が変化することを発見し、それにともなって世界の受容のしかたが変わること、さらにそのことで、あなたを取り巻く人やモノとの関係性さえも変わることを許容できるかということにかかっています。
勉強することの大きな意味のひとつは、それを通してあなたが親をはじめとする身近な大人の影響から距離を取ることができる点です。
人間たちは、勉強を通して抽象の扉を開き、具体と中小の間を往還することで、世の中を見る解像度を高める努力をしてきました。
勉強は子どもの目を別のしかたで取り戻すことを通して自由になるためのものとも言えるのです。
人間は自分の人生が動き続けるということに負担を感じます。だから多くの人は大人になるにつれて、安定と安心を求める方向に進むものです。それに対し、自由というのは常に自分自身が揺れ動くことを許容することであり、安定や安心とは真逆の価値観なのです。
~~~
「勉強」と「自由」について、考えさせられた。
勉強とは本来、「思考の自由」を得るためにするものなのだ。親の影響や世間の常識に囚われずに自分で思考・判断できるようになることでできるのは勉強を通してのみ可能だ。「この先に自由がある」と自覚したものが学び、本を読むんだ。
ところが学校での勉強の多くは、むしろ社会適応した使いやすい存在とした「匿名の誰か」を作ろうとしているという自由とは真逆の方向に進んでいるから、それを本能的に察知して学ばないのではないか。
「じゃあ、どうやって学ぶか?」
そんなときに飛び込んできたのが、大阪万博の広報活動「AFTER2025」だった。
http://after2025.jp/magazine/
人類学者ティム・インゴルドのインタビュー記事。
~~~以下メモ
「輸送(transport)」から「徒歩旅行(wayfaring)」への変化。「目標を掲げて、AからBへ移動すること」から「常にまわりの状況に反応し続けられる状態にあること」への転換こそがほんとうのシフトだと考えています。
私たちの行動は、すべて人生の一部であると捉えてみましょう。そもそも人生には、目的なんてない。人生は続くこと、それ自体に意味があるのです。
少し想像してみてください。もし、みんながまったく同じ考えを持っていたら、会話は成り立たないと思いませんか?それぞれが違うことを考えていたり、異なる経験や知恵を持ち込むからこそ、私たちは言葉を交わすことができる。人は誰しも異なる経験を持っています。だからこそ、なんらかの形で会話に関わっていくことができる。公共とは、「ある問いに対して集められた異なる経験や知恵の集合」なのです。
教育とは本来、私たちの人生の歩みを導くこと。固定観念や思い込みから解放し、世界に対する知覚をひらくー私たちは世界や他者に耳を傾け、目を凝らし、注意を払い、ケアし、対応しながら学ばなければならないのです。
~~~以上メモ
人類学的アプローチ。参与観察。
たぶん、これが方法なのだろうなと。
輸送から徒歩旅行へのシフト。
そして「自由」のために学ぶ。
これが、僕の「探究(的学び)」に惹かれる理由だと思った。
僕が「高校生の探究」というテーマに惹かれる理由は、それが高校魅力化の方法として適しているとか、文科省がいうようにこれからの社会を生き抜くのに必要だから、ということではなくて、マイ探究である若者の(大人も)アイデンティティ問題にアプローチする方法として「探究」が魅力的だったから、だ。
そしてその方法を一言で言えば、ティムインゴルドが言っているように、「ともにつくる」だ。
人は「自由」を手に入れるために学ぶ。親の影響や世間の常識によって自由を脅かされないように。勝手に設定された「枠組み」の範囲内から脱出するために。
だから学ぶし、その学び方は目標設定・達成を繰り返す「輸送」ではなく、世界や他者に耳を傾け、目を凝らし、注意を払い、ケアし、対応しながら学んでいくということ。
そういう実践をしていきたいなあと。
2023年02月14日
宛て先のない手紙

「自分の〈ことば〉をつくる」(細川英雄 ディスカバー携書)
「活動あって学びなし」は
アクティブ・ラーニングが叫ばれるようになって、言われてきており、
現在でも高校の「総合的な探究の時間」などで実際に起こっている現象だと思う。
高校生の文脈で言えば、
1 活動だけして振り返りが無かったり、
2 教員や指導者に振り返りのスキルが足りなかったり、
3 振り返りをするにも言語化力がなくて、言葉にできなかったり
っていう現象全体のことであると思う。
そして、もし3の場合は、解決するのはかなり大変だし、一歩ずつやるしかない。令和4年度から2つの高校で、感情ベースと活動ベースの振り返りを1枚のシートで行っているが、それも上記の課題意識を踏まえている。
そしてそれは、僕の分野から言えば、アイデンティティ問題とも直結しているように思う。
「自分」と「社会」と「未来」のあいだにプロジェクトをつくる。
それを他者に説明、つまり「自分」と「社会」と「未来」の言語化をしなければならない。
そんな時にこの本はいいかもって。
~~~以下メモ
オリジナリティは、はじめから「私」の中にはっきりと見えるかたちで存在するものではなく、他者とのやりとりのプロセスの中で少しずつ姿を見せ始め、自分と環境の間に浮遊するものとして把握されるからです。
もっとも問題なのは、この「客観」は、個人の外側にあると思われていますが、具体的にどのようなものかははっきりしないものであるという点です。これは、いわば宛先のない手紙のようなもので、だれに向けてのどのような客観なのかがはっきりしないのです。
本来、評価というものは、評価する人がいて、評価される物・人がある/いるという関係で成り立つものです。
しかし、「世の中ではこうだ」とか「みんながそう思っている」という漠然とした評価になると、その評価主体の立場とその基準がどこにあるのかがわからなくなります。
近代の学校教育は、そうした宛て先のない権威性に気づかせないような制度となってきたのかもしれません。この制度の中でいつの間にか評価の行為主体は、自らの責任を取らないことに無自覚になってしまったということになります。
オリジナリティとは、はじめの「なぜ」からはじまって、「~だから」を経て、「~と考える」に至る、全行程の中から自然と滲み出てくるものだと考えるのがいいでしょう。
「こころ」は、感覚・感情による情緒の部分と、筋道をたどる思考による論理の部分との統合されたかたちで、あなたの中に内在しているのですから、これを外側から見ることができないのは当然のことでしょう。
この内側の「こころ」の一部が、「かたち」としての「ことば」となって他者に伝えられるのですから、他者には自分の「考えていること」のすべてが伝わるわけではありません。「こころ」のほんの一部が間接的に伝えられるに過ぎないのです。
このように考えると、「こころ」だけを追求したところで何もわからないし、「かたち」だけをターゲットとしたところで本質は明らかにならないことになります。両者が相互的な関係にあり、相補的な状況の中でしか問題は解決できないということになるわけです。
自己完結的なエッセイのような文章を「主観的」とし、論文のような検証を必要とする文章を「客観的」と定めてしまったことに大きな問題があると言えるでしょう。
論点はむしろ、主観・客観の問題なのではなく、テーマに関する他者の存在の有無なのではないかとわたしは考えます。
~~~ここまでメモ
「オリジナリティ」と「評価」と「客観」と「こころ」と「かたち」
なかなかのキーワードだなあと。
学校っていうシステムは、いわば「宛て先のない手紙」の訓練ばかりさせられているんじゃないかと。
「評価」を前提にしているにも関われず、評価主体は、その責任を取らない。
こうしてその「評価」を得るために、「宛て先のない手紙」を書き続ける。
アクティブ・ラーニングや探究的学びの落とし穴は、そこにあるのではないか。
「主体性」や「探究性」などを客観的評価をするというコンペの結果、
それに適応していつのまにかそのプロジェクトは宛て先を失う。
宛て先を失った個人のプレゼンは、誰にも届かない。
そんなスパイラルが起こりつつあるのではないのか。
自分のことばをつくる。
「なぜ~」「だから~」「~と考える」を繰り返すこと。
「こころ」を認識し、その一部を言葉という「かたち」へとアウトプットすること。
社会的インパクトのあるプロジェクトをなんかよりも、
ひとつのプロジェクトに対して、ひとつひとつていねいにことばをつくっていく、紡いでいくことが
特に「自分」を知るためには大切なのだろうな。
2023年02月08日
正解というまがいもの

「君は君の人生の主役になれ」(鳥羽和久 ちくまプリマ―新書)
まだ読み始めなのですけど、グサッと来たのと、2月7日~8日の企業向けワーケーションモニターツアーでのキーワード「はずれ者の祭典」とマッチしていたので。
~~~ここから引用
大人になる過程で、多くの人は自分の生きる実感よりも適応(周りに合わせること)を優先させることで自信を失っていきます。その結果、自分が好きなようにふるまえないことに対して、できない言い訳探しばかりに明け暮れる大人になります。
生きる実感を大切に育てていけば、あなたはいつかきっと曖昧なことを曖昧なままに受け入れることを知ります。白黒つかない現実の中にこそ、生きる楽しみがあることを知ります。
いつも正解ばかり求めてしまうのは、生きている実感が足りないからです。実感が足りないから、その代わりに正解というまがいものにすがってしまうのです。でもそんな不確かなものに支えられて生きていくのは、なかなかしんどいことです。
なぜなら、それはまがいものだけに、肝心なときほど頼りにならないし、どんなに求め続けても満たされることがないからです。
社会に適応できないと生きていけない。そんなことを言う大人は嘘つきですよ。そんな大人の言う「社会」なんて、その人が見たせまい世界の断片でしかなくて、彼らはいまあなたが見ている世界を見ていません。
自分を窮屈な枠組みに閉じ込めることでしか生きることができない恨みを、子どもを通して晴らそうとしているんですから、そんな言葉に対して聞く耳を持たなくて良いのです。
~~~ここまで引用
鳥羽さんの本は「おやときどきこども」以来ですが、
参考:全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じる(21.1.1)
http://hero.niiblo.jp/e491303.html
メタ認知って大切だなあと。
なんていうか、「自分を知る」というよりも「自分を捉える」のほうがしっくりくる。
常に変化し続けているからね。
引用した文章の後に、環境と自分の話がでているのだけど、
そんな風に自分を相対的に見る機会が大切だと。
昨日聞いたとある高校生の時に地域へ越境留学した大学生の話を思い出した。
高校入学後に地域活動を行い、その活動を推薦入試という枠組みを通して発表し、有名大学に進学した。それは高校魅力化の現場にとってもキレイなストーリーなので、界隈ではよく知られているし、むしろそれを目指したい地域は多いだろう。
そんな彼が語った言葉があまりにも重くて。
キーワードは「主体性」と「承認欲求」なのだけど。
「なぜあなたが主体性をもってこの活動に取り組んでいるのか」という問いに答え続け、うまく言語化できるようになり、そのストーリーを内面化していったと言う。
それは、鳥羽先生の本でいうところの「適応」と呼べるかもしれない。「適応」することで、評価は得られるが「自信」は失われていくと、鳥羽さんは言う。
これは僕も思っている「探究的な学び」そのものに対する違和感と近いかもしれない。
「探究的な学び」が求められる。そこでは「内発的動機付け」や「主体性」が重要視される。その出発点が「地域課題」であったりすると、ストーリーとしては魅力的だ。
しかしそれは「正解」に向かっていく従来の学びと何が違うのだろうか?
鳥羽さんの言う「生きる実感」をもっと大切にしていかなければいけないのではないか。
たまたま出会えた「偶然」的な出来事や出会いを大切にして、感性を磨いていくことも必要なのではないか。
「正解などない」だからこそ「探究的な学び」が必要になるはずなのだけど
いつのまにか「探究的な学び」からの大学合格みたいな正解ができてしまっていて。
そのためには「内発的な動機付け」と「主体性」が必要になって
それに「適応」してそのようなストーリーを内面化する。
そしてそれは「承認欲求」を満たすことになるのかもしれない。
そうして、むしろ自分を、「生きる実感」を、失っていくのではないか。
そんな風に思った。
正解を疑うこと。
世界をメタ認知すること。
たぶんそこから始める必要があるのだろうなと。
2023年02月03日
「福祉」から出発するアントレプレナーシップ

なぜ「偏差値50の公立高校」が世界のトップ大学から注目されるようになったのか(日野田直彦 IBCパブリッシング)
2018年刊。
湯島の「夜学バー」で知り合った大学院生の出身校である大阪府立箕面高校の話。
これは本質的で素晴らしいなと。
いい本を紹介して頂きました。
~~~以下引用とメモ
要はビッグプロダクトではなくて、ミニマムプロダクトで隣人の問題解決を「具体的にできる」こと、それだけなのです。それ以外はとりたてて必要ないのです。
今はインタラクティブな関係性をいかにつくり、ダイバーシティを理解し、共感し、変化・成長し続けることが、より重要な時代です。いうなれば双方向でありつつ、トップダウンのない、本当に対等な関係をどう築くか。
すごいですねえという拒否
英語より先にマインドセット。実験場として使ってくれ、ただしコラボレーションして、ね。
ホワイトボードだらけにするとコミュニケーションが活発になる。
そもそも今の教室のスタイルは、何の科学的根拠もありません。単に、国家予算による物理的な限界によって作成された妥協の結果です。
ワークショップマインドのためには上下を作らないことだけでなく、前後もつくらないことが重要なのか。発言者が立ったところが前になる。
ワークショップのスキルではなくてマインドをまず体得すること。プロジェクトの進行と創造は、メンバーの変容と相互作用しながら起こっていく。「つくる」と「かわる」が場によって起こり、結果自分も創られていくのだと。それがワークショップマインドなのでは。
ワークショップのマインドは、手段であると同時に目的でもある。VUCA時代を生きていくための基本的マインドセット。
~~~
とまあ、こんな感じの学校改革。「海外有名大学に多数輩出」というと、「英語に力を入れたのね」と思う感じと「総合型選抜で有名大学に多数合格」というと、「探究、プロジェクト活動に力を入れたのね」と思うのに似ている。
いやいや。そういうことじゃないんだなと。
箕面高校を変えたのは「マインドセット」なんだと。
そしてそれこそがひとりひとりの「人生への当事者意識」を変えていくのではないかと思った。
伝えるべきは、ワークショップのスキルというよりもまず、ワークショップのマインドだなあと。
場のチカラで作り上げていくものが必要なのだと。
以下、この本で一番アツかったところを引用
~~~ここから引用
なぜ会社が存在するかというと、昨日よりも明日、社会をもっと良くするためです。そのためにどういうシステムをつくったらいいのかを考えるのが「株式会社」でした。
資本主義の目的(存在意義)とは、元手を持っているが行動する方法がわからない人と元手を持っていないが行動をしたい人がマッチアップして、より効率よく、そして規模を大きくして社会を変えるためのシステムであったはずです。
教育のことを順序立てて話していくと、学歴やビジネス、ましてやお金の話には決してなりません。人類を次のステップにどうやって上げるか。私はそのために教育の現場にいるのです。そのための、日本の高校の現場なのです。
マネージャーとは、ミッションベースと、社会のマーケットベースで物事を判断し、それをどうやって合わせるかを考える仕事です。そして現場の人たちはというと、いま自分たちができる最大のポテンシャルを発揮してもらうだけでいいのです。
~~~
いいなあ。
日野田さん。カッコいいな。
ラスト、「未来の学校は宇宙につくるべきだ」と日野田さんは語る。
時間と空間の枠を超えて学べ、と。
いやあ、それですね、それ。まさにそんな時代。
「一生学び続ける」ってインプットを続けるってことじゃなくて時間と空間を超えて学ぶことだろうなと。
宮澤賢治先生的に言えば「巨きな人生劇場は時間の軸を移動して不滅の四次の芸術をなす」って感じか(農民芸術概論綱要より)
学校ってなんだ?
学びってなんだ?
と問いかけられる1冊でした。
そんな本を読んだ後での中高連携の打ち合わせを経て思ったこと。
1 そもそもどこを目指していくのか?
キャリア形成の時の定番である「やりたいことは何か?」という問いがベクトルを尋ねているような気がするので応えなければならない気がするのだけど、それを職業名などの到達点で答えているからいつまでもモヤモヤするのではないのか。
問うべきは、あなた自身の問い(テーマ)は何か?ではないだろうか。そのベクトルが生きるのに必要なのでは。
人間の本質がベクトルだとすれば、三丁目の夕日的な、社会全体にベクトル感があれば、与えられたベクトル、つまり目標があれば生きられるのだけど、社会全体がベクトル感を失ったいま、人は自らベクトルを生み出さなければならなくなっている。
そのベクトルを生み出す方法としての「問い」でもある。
ベクトルっていうのは、現代においては目標ではなく問いのことで。問いを共有することがチームの条件なわけで。問いのアップデートができる環境こそが価値。
人は、自分自身の問いを会社(学校、プロジェクト)という箱を使って表現し、問いをアップデートする存在なのかもしれない。
問いのアップデート。それこそが生きる意味なのかもしれない。だから明日も生きられるのかもしれない。
2 プロジェクト学習、ワークショップ手法を使う意味について。
自分を知る、社会を知るのベースにワークショップ(場)という手法があり、場を通して自分と社会を認識し、自分と社会のあいだにプロジェクトができる。
プロジェクト=やりたいことWANT
自分=できることCAN
社会=求められていることNEED
手法(場)=ワークショップ
のひし形かも。
「自分を知る」っていうのは、自分の形(や完成形)を知るっていうのではなくて、自分のベクトル(とか方向性)を知りたいってこと。自分を知る、社会を知るというより、自分と社会をどのように捉えるか。それも「いま」捉えるか、なのだろうな。自分も社会も常に変化していて形ではないから、それをインプットすることは原理的に不可能。
ボランティアを起業家(アントレプレナーシップ)教育の入門編に位置づける、っていうのはどうだろう。隣人のお困りごとを解決できることこそ、起業家精神を発揮する場。
ボランティアではなくフィールドワーク。それこそ参与観察だよね。
~~~とツイートまとめ
と、なんとまさか、最後に日野田先生の本の「要はビッグプロダクトではなくて、ミニマムプロダクトで隣人の問題解決を「具体的にできる」こと、それだけなのです。それ以外はとりたてて必要ないのです。」
に戻ってくるというオチ。
「福祉」から出発するアントレプレナーシップってあり得るなあと思った。
「学力向上」に必要なのは、高い目標などではなくマインドセット。
そして隣人の課題を具体的に解決することができるアントレプレナーシップ。
それはもしかしたら高齢化が進み福祉の役割が大きいこの町のもっとも得意とすることであるのかもしれない。