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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年09月22日

「贈与」に気づく「ふりかえり」


「世界は贈与でできている」(近内悠太 ニューズピックスパブリッシング)

読み直しました。
タイムリーな1冊をありがとうございます。

この本の主題は
「贈与」とは何か?
なんですけど、
「学び」とは何か?「本屋」とは何か?について考えさせられます。

冒頭の
「従うべきマニュアルの存在しないこの現代社会を生きるためには、哲学というテクノロジーが必要なのです。」
ってところがまさに!
って思いました。

交換の原理によって覆われた社会で、僕たちはいかに生きるのか?
学ぶとは何か? なんのために「学ぶ」のか?
地域で行うプロジェクトの意味は?
「ふりかえり」で得るものは?

そんな問いに直面します。
キーワードはやっぱり「責任」と「存在」のような気がします。

~~~以下メモ
「自分ができること(CAN)」「自分がやりたいこと(WANT)」「自分が求められていること(社会が求めていること)NEED」の3つ目は、「自分がやらなければならない、と気づくこと(使命感)」から始まっていく。Responsibility(応答可能性⇒責任)っていうのはそこから始まる。

贈与は宛先に届かないかもしれない。あるいは受取人が受け取っていることに気づいてくれないかもしれない。
~~~

いっぱいメモあったのだけど、ひとまずは。

総合的な探究の時間のコンセプトで、「達成と成長」から「発見と変容」へって言っているけど「発見」されるのは「贈与」なのだろうね。それが「学ぶ」ということの意味なのだ、と。言葉を補うなら「贈与」を発見し、贈与する主体へと「変容」すること

たぶんそれが「ふりかえり」や「学び」の意味なのだろう。「機会」という不当に受け取ってしまった「贈与」に気づくこと。

「地域に貢献する人材」を育てる。
その「貢献する」っていうエネルギーはどこから駆動するのか?

それはやはり、「地域の良さを知る」なんかじゃなくて、被贈与者になること。「不当に受け取ってしまった」という自覚を持つことから始まるのだろうと思った。

それに気づく地域学習を設計できるだろうか。  

Posted by ニシダタクジ at 10:03Comments(0)学び日記

2023年09月16日

「責任」と「生きる」こと


「都市と地方をかきまぜる」(高橋博之 光文社新書 2016年刊)

明日からの「定住じゃない農業」に向けて、読み直し。
先日の只見高校での生徒会との対話で出た「責任」というキーワードにも通じるところがあり、書き留めておきます。

まずキーワードとして出てきたのは、
都市住民たちの「リアリティ(生きる実感)と関係性(つながり)の喪失」
「無常観」:この世に永遠のものなど何一つない。「限り」があるからこそ、「生」は自ら光り輝く。
「共感と参加」:その物の背景にある価値観に「共感」したり、その物の価値を高める物語づくりに「参加」したりすることを求めている

いいですね。これは「都市の20代」や「高校生」に言い換えても同じでしょうね。
そして、ガツンとくるラストの一節を引用。
~~~
消費者は文句を言っているだけで、その問題を解決する側に回ろうとしない。どこまでも他人事である。当事者とは、責任を引き受ける人のことを言う。つまりリスクを負う人のことだ。消費社会では誰もがリスクを背負うことをしないので、問題解決は遠のいていく。

それだけではない。当事者であることを避け続ける私たちは、リアリティを失った。生きるということは常に死ぬリスクを抱えているということに他ならない。だからリスクに目を向けないことは、生きることに向き合わないことに等しい。

リスクを直視すれば、それを回避しようと私たちは考え、行動し、ときに助け合う。それが生きるということだ。つまり私たちは今、「生きているけど生きていない」。だからリアリティを感じられない。そして退屈している。

退屈から逃れるには、リアリティを回復するしかない。つまり自分をとりまく環境や社会に関心を持ち、リスクを知り、それを当事者として引き受ける側に回ることだ。そうすることで私たちは生きるスイッチをオンに切り替えることができる。リアリティを回復する人たちが増えるほど、社会は今より確実によくなる。
~~~

「生きる」ことは無常であり、変化し続けることだ。「コントロール(予測)できる」という前提で構築されたシステム(都市や教育・・・)の中で、僕たちは「生きている」というリアリティを失った。

農村から人が流失し、まずは農村が疲弊したのち、都市はその人たちの購買力を原動力に、ひたすらに「消費社会」と化し、経済が上がっている時はよかったが、その勢いが無くなった今、多くの人が疲弊している。「疲弊している」ばかりではない。文字通り「リアリティ(生きる実感)」を失ったのだ。

その「生きる実感」の喪失と当事者性がリンクしているのではないか?と高橋さんは問いかける。

高校生が当事者性を言葉にすれば「責任」という言葉になるのかもしれない。
高校生も、都市生活者も、多くの若者も、「生きる実感」と「関係性」を必要としている。
だから、「東北食べる通信」のような取り組みに人が集まってくるのではないか、と。

それをデザインできるか。

たぶんそれが、僕の目の前でいま、起こっていることなのだろうと思う。  

Posted by ニシダタクジ at 09:24Comments(0)学び日記

2023年09月14日

「所属の欲求」が満たされない社会で「ともにつくる」こと



ニッパー型爪切りで知られる三条市・諏訪田製作所にいってきました。
https://www.suwada.co.jp/

OPEN FACTORYというテーマの元、2011年から工場見学を可能に。
2020年からは新社屋を建て、1Fが工場、2Fがショップとレストラン・カフェになっていて、社員はランチ無料なのだそう。
驚いたのは、日中もフリーで工場見学が可能で、ほぼすべての工程をガラス張りで見ることができること。
さらに驚いたのは全体的に若い職人さんが多いのと女性比率が50%を超えていること。


NO FLASHの文字が。

見られていることを前提にすることで、たくさんいいことが起こるな、と。
「OPEN FACTORY(開かれた工場)」というコンセプトは
学校にも、その他組織にも、若い人が働くうえで、かなり重要な条件な気がする。
プロセスをオープンにする、ブラックボックス化しない、ということ。

そんなわけで本日の1冊は、

「学校にプレイフルを取り戻す」(学事出版)

1年ぐらい寝かせてしまいまして、ようやく巻頭対談を読みました。
師匠、上田信行先生の今に会いたかったので。

~~~以下メモ
PDCAからFIDSへ
F feel
I imagine
D do
S share

感じる、考える、つくる、伝えるのスパイラル

自由と制約のバランスにより、創造性の発揮しやすさが変わると考えているからです。人はある程度の制約があったほうが考え始めやすいですが、制約が強すぎては自由な発想は生まれません。

コロナ禍で求められたことは
・世界中の人と協働し正解のない問いを解決する力
・新しい生活に適応し楽しむ姿勢
・試行錯誤しながらも挑戦する心
・新しい社会を創造する力

プログラミングが面白いのは、できるーできないというよりもどうやればできるのか、Howで考えることだと思っています。プログラミングは最初からうまくいくはずがない、というのが気に入ったんです。

予想外の解決策というのは、色々な人たちが試行錯誤していく中に生まれるものなんですね。
~~~
最後のプログラミングの話は、まさにIT業界で起こってきたことですね。
オープンソースでみんなで開発していくほうが解決策が見つかる、ってやつ。

あとは自由と制約のバランスっていうのはまさに、高校の総合的な探究の時間の授業におけるワークシートづくりの観点からもとても大切だなあと。

もう1冊紹介します。


「千年の読書」(三砂慶明 誠文堂新光社)より

~~~以下メモ
私たちはよく「偶然」本と出会います。しかしそれは本当に「偶然」なのでしょうか。

本屋の本棚は、世界にただ一つ、たった一人、その時、その場所をおとずれたあなただけへの招待状です。

「遊ぶように学ぶことは、人生で最高の喜び」(橋本武)

書物はもちろん読まれるたびに変容します。それは我々が経験していく出来事と同じです。偉大な書物はいつまでも生きていて、成長し、我々とともに年を取りますが、決して死にません。時とともに作品は肥沃になり、変容し、そのいっぽうで、面白みのない作品は歴史の傍らを滑りぬけ、消えてゆきます。
~~~

「本屋の本棚という招待状」とてもすてきな表現だなあと。

書物は読まれるたびに変容する。この「書物」と「人」の関係を「プロジェクト」と「人」に置き換えても同じだろうと。

「プロジェクト」と「人」は、相互作用を受けて、それぞれが変容する、変容し続ける。だからこそ、「チューニング」が必要だし「場のチカラ」を活かして、アウトプットには「魔法をかける編集」が必要なのだ。

そして、それこそが「遊び」と「学び」の境界線を溶かした「プレイフル」の源なのではないか、ということ。

この2冊とSUWADAの「OPEN FACTORY」から考えたこと。

「ともにつくる」という阿賀黎明高校魅力化プロジェクトのコンセプト。

それは、言葉を補えば、後ろには、「ともにつくられる」が入るのかもしれない。
そして、「ともにつくる」の前には「プロセス(過程)を」が入るのかもしれない。

いや、それは僕にとっての補う言葉で、「ともにつくる」という言葉は問いになっていて。「何を(ともにつくり)」「(結果)どうなるのか}というのをそれぞれの人が考え続けていくこと、なのかもしれない。

そして、「ともにつくる」が起こっているときに、人は「存在」を感じられるのかもしれないという仮説を僕は持っている。

マズローの欲求5段階説である「生理的欲求」「安全の欲求」「社会的欲求」「承認欲求」「自己実現の欲求」のうちの3段階目「社会的欲求(集団への帰属や愛情を求める欲求)」がごそっと抜け落ちてしまった社会を僕たちは生きていて。SNSや自己啓発本、教育商材ビジネスによって、「承認欲求」と「自己実現の欲求」が肥大化してしまっている。

そのピラミッドは安定が悪いから、倒れてしまう。

しかしながら、その解決策として、「帰属や愛情を求める欲求を満たす」という方向に行ける人は少数派だろうと思う。僕たちはひとりひとりもう浮遊しちゃっているから。たとえば「家族みたいな会社」に入れる人は少なく、またその環境に適応できる人ばかりでもないだろう。

僕の仮説は「ともにつくる」ことによるアイデンティティ形成だ。
場にフォーカスし、場のチカラを高め、場を主語にして、何かを生み出していく(つくる)。

そのときに大切なのが「構想」と「実行」を分離させないこと。意志決定、プロトタイプ(試作)づくりといった、プロセスに参加・参画していくこと。

その「つくっている」プロセスの瞬間瞬間に、ひとりひとりが「存在」を感じられるし、生み出した成果(つくったもの)に自分も参加(貢献)できたという自覚が、自分自身の「存在」を許すのではないかと思っている。

「緑泉寮ハウスマスター」は、高校生の暮らしを支える3年間限定の仕事。

暮らしにはゴールが無い。
夜が来れば朝が来る。冬が終われば春が来る。
そんな「循環する時間」を「ともにつくる」3年間。

ゴールが無ければ、唯一の答えがない。
ひとりひとりの様子を見て、関係性を感じて、その場がつくっていく時間。

「所属の欲求」が満たされない社会で「ともにつくる」こと。
「暮らしをつくる」とともに「自分自身をつくる」こと。
そんな場を育んでいきたいと思っています。

令和6年度から緑泉寮を「ともにつくる」仲間を募集しています。
https://shigoto100.com/2023/09/kawaminato.html

  

Posted by ニシダタクジ at 06:15Comments(0)学び日記

2023年09月08日

組織とチームとアイデンティティ

高校魅力化プロジェクトの内部研修のようなオンラインイベント。

組織からチームになるってどういうことだろうか。
ここで20代の人たちが言う「組織」は、
いわゆる指揮命令(責任)系統のあるピラミッド型組織のこと。
役場や学校などがそれにあたる。

その組織は組織でいいのだけど、
高校魅力化プロジェクトについては、チームでありたい、
というのが彼らの共通したところだった。

では「チーム」とは、
・役割が違うだけで上下関係がないので対話する
・構想と実行の分離が起こらない(構想に参加・参画している)
・チームだったら人が入れ替わることがよい循環になるけど、組織だったら脆さの原因になる。
・持続性とは、組織の同じ体制(人・役割の状態)を保つことではなく、チームが1年1年更新されていく仕組みをつくること。

これってアイデンティティの問題でもあるな、と。

上下関係のあるピラミッド組織においては、上の方にいる人の資質・能力が圧倒的に重要である。決定権がその人にあるからだ。しかしながら、コロナ禍の3年間を経て、答えそのものを喪失した時代を僕たちは生きている。

組織は今まで通りもちろんあるのだけど、そこに「地域おこし協力隊」という制度を使って、組織を横断したチームを作った。そのチームで課題を発見し、仮説を立て、実行し、ふりかえる、というサイクルを回していくこと。

それが課題解決に向けての手法であったはずだ。

その方法論として取り組んできたこと
1 意志決定の主体を会議体にすること。
2 構想と実行を分離させない(構想に参加・参画する)こと

この2つであったと思う。
それは、組織をチームにしていくための方法論であったのだけど、
同時に、アイデンティティ形成への方法論なのかもしれないと思った。

千葉哲也さんは「勉強の哲学」の中で、「学ぶ」とは「変わる」ことだど説いた。
「学び」に伴って人は変わってしまう。

目標に向かって、問題を早く正確に解くスキルだけが向上していくのは、学びとは言えない、と。
そう考えると、「探究って遊びのでしょ」みたいな言い方に、なるほどそうかも、って思える。

「学び」と「遊び」は対立構造ではなくてむしろ「遊び」の中に包含されているのではないか。
「遊び」の中におけるもっともエキサイティングなもの、それが「学び」ではないのか。
だって、自分が変容しちゃうんだよ。今まで生きてきた世界と違う世界を生きていくことになるんだよ。
そんなエキサイティングな遊びは雪山登山とか、そういう感じになっちゃいますよ。

この「自分が変わっちゃう」っていうのに対するマインドセットが、オジサンと若者を分けるのかもしれない。

キャロル・ドゥエック教授のいう「グロースマインドセット」と「フィクスドマインドセット」の違いだ。

http://hero.niiblo.jp/e256118.html
(参考:Everything is situated.13.4.19)

「チームで働きたい」と切実に願う若者のアイデンティティ形成の手法と(組織・会社から与えられた)自分のミッションを遂行していくことで、(肩書としての)自分を形成するという手法の違いがあるのではないかと思った。

後者は、ビラミッドのような積み上げ式のアイデンティティ形成方法を取り、一方で前者は、複数のチームに属し、そのチームで構想に参加・参画しかつ実践することを繰り返し、役割を果たしていくことで、複数の「自分(らしさ)」を獲得していく。

その1つ1つの点をネットワーク(コネクティングドット)したものが若者の「自分(らしさ)」の形成方法なのかもしれない。

「自分」とは複数個の点(自分の役割)のネットワークであるから、そのひとつひとつの点が変わってしまうこと、あるいは消滅してしまうことを畏れることはない。また違う点を打てばいいし、ネットワークを紡ぎ直せばいい。

たぶんそんな感覚なのかもしれない。

そんな彼らとチームを組み、成果を上げていくには、ピラミッドを崩していく(アンラーニングする)マインドセットと、「構想と実行の分離」をさせない「場」にフォーカスしたコミュニケーションが必要なのだろうなとあらためて思った。  

Posted by ニシダタクジ at 06:14Comments(0)学び