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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2023年12月31日

「ともに歩み、ともにつくる」経験と場がその町を「ふるさと」へと育ててゆく

年内ラストの日記は、大掃除によって発掘されたAFTER2025の冊子の人類学者ティム・インゴルド氏の「生きた世界の住人として、ともにつくること」より。

こちらから全文読めます。
https://after2025.jp/magazine/

2月18日に少し引用しています。
参考:輸送から徒歩旅行へ、そして「自由」を手に入れるために学ぶ(23.2.18)
http://hero.niiblo.jp/e492901.html

本日もメモから
~~~
「輸送(transport)」から「徒歩旅行(wayfaring)」への変化。「目標を掲げて、AからBへ移動すること」から「常にまわりの状況に反応し続けられる状態にあること」への転換こそがほんとうのシフトだと考えています。

私たちの行動は、すべて人生の一部であると捉えてみましょう。そもそも人生には、目的なんてない。人生は続くこと、それ自体に意味があるのです。

少し想像してみてください。もし、みんながまったく同じ考えを持っていたら、会話は成り立たないと思いませんか?それぞれが違うことを考えていたり、異なる経験や知恵を持ち込むからこそ、私たちは言葉を交わすことができる。人は誰しも異なる経験を持っています。だからこそ、なんらかの形で会話に関わっていくことができる。公共とは、「ある問いに対して集められた異なる経験や知恵の集合」なのです。

教育とは本来、私たちの人生の歩みを導くこと。固定観念や思い込みから解放し、世界に対する知覚をひらくー私たちは世界や他者に耳を傾け、目を凝らし、注意を払い、ケアし、対応しながら学ばなければならないのです。

人類学は「他者の声に耳を傾け、真剣に受け止めること」を公言している唯一の学問です。人々の経験から発された言葉に学び、私たちみんなの人生の道しるべとする。これこそが人類学の主題であり、社会生活の主題でもあります。このような人類学を実践できれば、違いのなかで共生していくモデルになるかもしれませんね。

物事を閉じ込めるのではなく、外へ溢れ出させること。そうすることではじめて、私たちの身のまわりで起こることに応答する生き方ができるようになります。

外へと溢れ出させるための方法、そのひとつは動詞化することです。たとえば、コモンズ(共有の資源)を動詞化して、「コモニング(commoning)」に変えてみるのはどうでしょう?

コモンズをひとつの活動として捉えることで、ある問題のもと、異なる経験と背景を持った人々が集い、会話することができるようになります。

そしてコモニングには、会話を前に進める力がある。一人ひとりが想像力を発揮して、会話を通して、理解し合える場所を見つけ出す。-これは、過去を掘り下げて、すべての人たちの共通点に立ち戻ることとは、真逆の考え方です。それぞれが自分の経験を軸にしながらも、今いる場所を超えて、想像力を前に向かって投げだすこと、それこそがコモニングなのです。
~~~

「コモニング」という「ともにつくる」の具体的方法。

将来的には「社会関係資本(ソーシャル・キャピタル)」になるかもしれない人と人のあいだにある「共有の資源」。それを目の前の異なる経験と背景を持った人々が集い、会話することを通じてつくりあげていくプロセス。

人と町の関係だって、川喜田二郎氏の言った
「全力で創造的な行為を行い、そのいくつかを達成した場所を人はふるさとだと認識する」
っていうものも同じだ。

「創造的な行為」をともにつくった人や場所と人は「創造の物語(ともにつくった物語)」をともにする。

その「創造の物語」が「共有の資源」となり、それがあいだにある関係が「社会関係資本」となるのではないか。それはもちろん、「贈与-被贈与」の関係だとしても、創造ずる「場」の存在により、それは可能になる。

1月14日(日)に行われる地方の正月行事に、東京の大学生がふたたび来たいと言っている。それはきっと9月の稲刈り合宿の時に単なる農作業や飲み会をしたのではなく、「一緒に何かをつくった」からだろうと僕は思っている。

高校生にとっても、地域おこし協力隊にとっても、それは同じだ。
「ともに歩み、ともにつくる」経験と場が、その町をふるさとへと育てていく。  

Posted by ニシダタクジ at 08:49Comments(0)学び思い日記

2023年12月28日

PUBLIC HACKで「まち」と「まなび」を楽しむ


『PUBLIC HACK: 私的に自由にまちを使う』(笹尾和宏 学芸出版社)

「マイパブリックとグランドレベル」以来の衝撃。
参考:マイパブリックと参加のデザイン(23.5.8)
http://hero.niiblo.jp/e493048.html

冒頭から
「賑わいや集客によらずにまちの魅力を高められないか。」と問いかけてきます。

そして、続けます。
~~~
私たちは忙しく生きることを余儀なくされています。勤労であることが賞賛され、余暇を満喫することは軽んじられてきました。加えて、失敗することが許されず、ひたすら成功を追求する価値観が支配する社会で生きています。

そういう社会で生きていると、ものになるかわからないけれどゼロからつくりあげる「満足」より、すでに完成されて結果が保証された「満足」を知らず知らずのうちに選んでしまいます。

こうして私たちは、手近な快楽に抗えなくなります。手近な快楽は、それと引き換えに、私たちから「自分で探し求める力」を奪い、「そう行動すべき」と仕組まれている状況に違和感を持たなくさせます。
~~~

「コスパ」や「タイパ」を指標としてすべてのものを測るようになってしまうこと。
「賢い消費者」としてのふるまいを、人生の始めから終わりまで強いられること。しかも、無自覚に。
これは、かつて尾崎豊が歌った「仕組まれた自由」なのではないか、そんな風に思いました。

仕組まれた自由という「不自由さ」に抗う人たちが、
地方や農業、地域おこし協力隊、あるいは地域みらい留学を志向しているのではないか、と僕は思います。
著者は、数々の「PUBLIC HACK」の実例を見せながら、町でもっと遊ぼう、と誘います。

僕がこの本を買ったのは、この本に掲載されている「流しのこたつ」を実践されている奥井希さんの活動に参加し、本屋という「リアルメディア」についてあらためて考えたからです。

参考:「リアルメディア」という参加のデザイン(18.11.2)
http://hero.niiblo.jp/e488340.html



著者は「ルール」について次のように述べます。
~~~
ルールはその時々で判断が狂わないよう、どう解決するかが定められた「関係者共通の決めごと」と言えます。ルールができる以前の解決手段だった「当事者同士のやりとり」を省略するツールです。その判断の良し悪しがいつ何時も変わらないならルール化は有効な手段です。

当事者同士でやりとりをするという柔軟な対応ができれば、お互いの望みを叶える最適解を導ける可能性があります。

ところが、ルール化をしてしまうと、当事者同士でやりとりする余地が消えてしまい、より優れた答えを導く可能性を放棄することになるのです。

「ケースバイケース」という考え方を放棄することは、合理化・効率化をもたらすと同時に、判断をルールに丸投げする思考停止を進めることになります。

ある状況を解決するための手段としてつくったルールは、いつの間にかそれ自体を守ることが大切であるかのように目的化されます。
~~~

これもまさにそうですね。高校生の寮についても、同じことが言えます。
大城美空さんが体感したフォルケホイスコーレで夜な夜な行われている、対話の時間を思い出しました。

参考:はじめに「越境」ありき(21.8.1)
http://hero.niiblo.jp/e491941.html

著者は、現在おこなわれている「公民連携」は、「公共空間の管理運営事業の収益化」であると言い切り、それでいいのか?と問います。

ラスト、痺れすぎてたくさん引用しちゃいました。

~~~
まちの自由度が高まり、自分のやりたいことがまちでできるようになることで、個人の満足感が達成され、それがそのまちへの「私」の意識を高めます。そして、そのプロセスの中で場所とのコミュニケーションが生まれます。

供給側が用意したプログラムに参加しても印象に残るのはそのプログラムの内容ですが、個人のやりたいことが実現できると、自分のやりたいことを受け止めてくれた場所に対する思いが芽生えます。

また、その場所を大切に感じながら関わり続けていくなかで、他の利用者や管理者とのつながりが育まれ、最終的にまちへの愛着につながります。

それぞれが利害関係のある目的意識のもとで同じ空間を共有していると、ただ何もせず、その場でお互いの存在を許容し続けることができなくなります。

人があるまちを訪れるのは、そこで「人が楽しそうにしているから」です。そのまちにやってきた人がもっと滞在しようと思うのも、そのまちで「人が楽しそうにしているから」です。

純粋に「やりたい」という思いを持った人の企画は、内容も集まるコミュニティもオリジナリティを帯びます。企画者が満足すれば、「またやりたい」という継続性が生まれ、それに参加した人が「自分もやりたい」と始めれば、アクティビティの多様さにつながります。
~~~

うー。これ、探究的な学びとかマイプロとか、「若者を活かしたまちづくり」とか、全部に刺さってきますね。そして高校や地域自体が「利害関係(たとえば、評価)のある目的意識のもとで同じ空間を共有していないか?」という問いかけにもなってます。前向きなベクトルの強い「学びのコミュニティ」にも、同様なことが起こらないか、非常に気になります。

そしてもうひとつのキーワードは「寛容性」について

~~~
経済性やジェンダーの分野でマイノリティとされる存在が住み続けたいと思えるまちには寛容性がらあり、そういった町ではクリエイティビティに満ちた開放的な文化が生まれ、その先にイノベーションにあふれた企業が生まれるというロジックが示されています。

「まちの自由度」を支えているのは、まさにこの「寛容性」です。目新しく見慣れない行為=PUBLIC HACKの種をそのまま許容しようという考え方が働くのは、まちが寛容性を備えているということに他なりません。

まちの自由度は、寛容性によって支えられ、それがまちに創造性を生み出すのです。まちの自由度が高まると、自らの欲求に従順になり、創意工夫に基づく独創的な行為が公共空間に生まれます。これらの行為は、誰にも目に触れる場所で行われるため、偶然通りがかった人が登場人物になってら参加し、出会いが増えます。「出会い」は創造性を高める重要な要素であるとされています。
~~~

「寛容性」とっても大切。麒麟山公園には、〇〇禁止とは一切書いていなくて(だからバーベキューもキャンプもできる)、ただ一言「ゴミは持ち帰りましょう」って書いてある。まさにこれ、まちの寛容性だろうな、って。

さらにPABLIC HACKと「地域活性化」について
~~~
私的で自由な行為は、地域活性化に役立つかと言うと、一義的には役にたちません。

別に社会のため、まちのためではなく、自分本位のモチベーションでやっていることなので、メッセージ性はありませんし、社会の課題にメスを入れるような強い想いも不要です。制度化されるほどの大きなムーブメントを目指しているわけでもありません。

事業価値のある汎用性のあるビジネスモデルとは言えず、事業化されて広がっていくこともありません。つまり、世の中に普及すべきものとしては位置づけられておらず、あくまでそれで得られる成果の大部分は、私たち自身の満足感です。

でも、「それでもかまわない」と言いたいのです。私たちの自分本位な行為はそれをやっている本人が満足している限りまちに表出し続けます。その行為を何に波及させるか、活用するか、ではなくその行為が行われているまちの現場そのものが価値になります。

そんな行為ができる環境と、それを実践する人がいること自体がすでにまちの値打ちなのです。

本人が続けていきたいと思える満足感が得られていて、さらにそこに触れた人がそれぞれ私的で自由な行為を連鎖していけば、個人プレーがまち中に広がり、いつの間にかまちの風景を変えていきます。

私的で自由な行為を倣うべき「モデル」ではなく、「ケース」として捉え、それぞれの個別解としてケースが積み重なっていくことによって達成されるPUBLIC HACKが、まちの魅力を高めていくのです。
~~~

「まちの魅力」とは、なんだろうか?そんな問いにあふれています。

移住者たちの個人店が立ち並ぶまちも素敵ですが、宮崎県立飯野高校のような、高校生が町をフィールドにして躍動している場所の空気感はまた違った魅力があるのだろうなと思うのです。

最後に、著者は新しい都市像を提案します。
~~~~
量から質に価値が転換され多様な個性が良しとされる現在、PUBLIC HACKを通じた「自分で何をしたいかを見出し実践することができる生活文化の醸成」は、市民1人1人の自律性を高め、質の高い多様性のある社会を実現し、まちの持続性を高める一助になりうるのではないでしょうか。

公共空間を通じた地域の活性化を志す時、事業化に直ちに舵を切って、他の選択肢を放棄するのではなく、たくさんの市民による一時的な利用を積み重ねていくことによる活性化の可能性を検討してみてはどうでしょうか。市民に「~させる」という使役動詞型の取り組みに依存せず、市民が自ら「~する」という自動詞型の取り組みを通じたまちの魅力づくりに目を向ける必要があると言えます。

PUBLIC HACKでは、「楽しむ」という価値は与えられるのではなく、自らその力を高めることによって獲得されます。それは、自分の人生をより自分のものにするための鍛錬だとも言えます。自分が楽しめる時間を増やすことで、生活そのものが楽しくなるように、小さなアクションであっても継続していくことで、結果的にまちの姿が変わっていくのです。

PUBLIC HACKを通じて、都市生活者は、都市というシステムに生かされる受動的生活者にとどまるのではなく、自ら能動的に都市を生きることができるようになります。そうした状況が多数集まり続いていくまちにこそ、私たちが望む都市像が体現されるのです。
~~~

これ、都市生活者=生徒、まち(都市)=学校、生活=学び、学習と置き換えても、いいのではないかと思います。

▽▽▽以下置き換え
PUBLIC HACKでは、「楽しむ」という価値は与えられるのではなく、自らその力を高めることによって獲得されます。それは、自分の人生をより自分のものにするための鍛錬だとも言えます。自分が楽しめる時間を増やすことで、「学び」そのものが楽しくなるように、小さなアクションであっても継続していくことで、結果的に「学校」の姿が変わっていくのです。

PUBLIC HACKを通じて、「生徒」は、「学校」というシステムに生かされる受動的「学習」者にとどまるのではなく、自ら能動的に「学校」を生きることができるようになります。そうした状況が多数集まり続いていく「まち(学校)」にこそ、私たちが望む「まち(学校)」像が体現されるのです。
△△△

「地域で(をフィールドに)学ぶ」っていうのは、そういうことなのだろうな、と。
「生徒の進路実現」と「まちづくり(地域活性化)」のあいだにある、どちらにも属していない余白のある「学び」。

それを「自らつくっていくこと」そして「楽しむ」こと。そういう現場を地域の大人たちと「ともにつくる」まちにしていきたいな、と。

本書のP52「流しのこたつ」のふたりの言葉がカッコいいので、最後に引用を。
~~~
こたつを目的地まで電車で手運びする風景や、外に持ち出している風景を他の人が見ることで、「よくわからないもの」に対する社会の許容度を広げたり、誰かがやろうとするハードルを下げたりするきっかけになればと、2人は語っています。

2人は、何かゴールを掲げてそのためにこたつを広げているのではありません。予測を超えた面白さや出会いへの機会として、流しのこたつそのものを楽しんでいます。
~~~~
めっちゃ素敵だし、アーティストだな、と思った。
そんな活動を許容できる町に暮らしていきたい。  

Posted by ニシダタクジ at 08:15Comments(0)学び日記

2023年12月19日

偉大なコーディネーターはチョウチンに光を灯す

「居場所の解剖学」(全9回)の初回に出たのでまとめておきます。
https://musubie.org/news/7900/

説明文には
『「居場所とは」何か、どのような場なのかを多面的に明らかにしつつ、居場所を運営している・したいと考えている方・または居場所のコーディネーター等が考える居場所の機能を、わかりやすく視覚化できるように、解剖していきたい』
とあります。

今回のお題は、室田信一さん(東京都立大学)をゲストに、「支える」から考える人の居場所、でした。

~~~以下メモ

・「支える人」と「支えられる人」の非対称性。互いが支え、支えられるためには?
・インターネットラジオ:自然、ゆったり、うすぐらい、会話、深夜、コミュニケーション
⇒がんばらなくてもいい会話
・スノーフレークリーダーシップ:コミュニティ・オーガナイジング参照

・サグラダファミリア:建築と修復が並行している:完成しない(しなかった):ライフデザインラボ
https://minatokurasu.com/
・なぎさ:個と地域の境目をあいまいにする:子育ての輪Lei
https://kosodatenowa.wixsite.com/kosodatenowa-lei
・メッカ:いつかそこに行きたいと願う場:こまちぷらす
↓こまちプラスのaboutページ。言語化すごい。
https://comachiplus.org/about/
~~~
「居場所とは何か?」:湯浅誠 2023 居場所の政策論(試論)
居場所とは、誰かにちゃんと見てもらえている、受け止められている、尊重されている、つながっていると感じられるような関係性のある場のことを言う。

そこに居ると落ち着ける、安心できる、ほっとする、元気になれる、力が湧いてくる、ごきげんでいられるとその人自身が感じられる〈場〉のことであり、関係性を含んだ空間の概念である。
(中略)
同じ空間であっても、居場所になったりならなかったりする。自分の部屋、自分の家、自分の学校、自分の職場であっても、同じだ。よって居場所とは、個人的で、主観的で、暫時的なものである。万人にとっての普遍的で恒久的な居場所などというものをありえない。

居場所の解剖学が目指すもの:「居場所」が生まれやすい条件を知り、「居場所」を増やす。
居場所とは、個人的で、主観的で、暫時的なものです。それは、「幸せ」のように、本人が感じるかどうかであって、他者がコントロールできることではないので、100%の答えを導き出すことができません。

しかし、「多くの人にとっての幸せ」が何かを考えるように「多くのひとにとっての居場所」となる法則を考えることで、よりたくさんの人が「居場所づくり」をできる社会にしていけるのではないかと考えています。

「居場所」の定義とは「自分の存在を確認できる場所」と集約でき、以下のように分類できる。
「社会的居場所」:他者と関わりを持つことで自分を確認できる場所
「個人的居場所」:他者との関わりから離れて自分を取り戻せる場所

コミュニティデザインラボが考える「居場所が生まれやすい法則」
人×場×係:3つが揃う時、そこは居場所(社会的居場所)になる
※「人」と「係」だけでは、友人関係や人間関係であり、居場所ではない。

「係」とは:自認できる存在意義
1 その場において本人が納得できる存在意義
2 他者から与えられても与えられなくてもいいが、自認ができるもの
3 場においての自認は他人の影響を受けやすいもの
4 役割のようなわかりやすいものだけではなく、その場の空気感や人によっていくらでも増えるもの。

「タッチポイント」(ステージ)⇒「居場所未満」(ステージ)⇒「居場所」(雲)
1 タッチポイント:#(タグ):「考えや思い」が多様であり複数ある程、タッチする人が増える
居場所と人が出会う入り口のようなもの。
たとえば
#建物の外観が可愛い #知り合いがいたから #サッカーが好き #そこにいる人が好き
というように、様々なタグがあり、居場所に出会う動機づけのようなものを指します。

2 居場所未満:コントロールできる、把握できる。誰でも自分の意志でアクセスできる
ここには「人」と「場」がありますが、まだ居場所といえるまでではありません。
場の中で人と人が出会い、様々なコミュニケーションが巻き起こることで「自認」や「承認」が掛け合わせれ「係」という概念が生まれます。この「係」は、次のステージである「居場所」へと導きます。

3 居場所:個人的、主観的、暫時的であるためコントロールしにくい
居場所は、そこに居ると落ち着ける、ごきげんでいられると「その人自身が感じられる」場のことであるため、個人的で、主観的で、暫時的なコントロールしにくいものです。
特に、「係」という概念は流動的なものなので、ふとしたことで生まれることもあれば、喪失することもあり、それに伴って居場所も生まれたり、喪失したりします。
~~~

ここで「係」を風船のように例えて、係を得た人が雲の上に上がっていって、それが「居場所」になるという仮説が示された。
ここで室田先生登場。居場所を「上下」でとらえることに違和感があると。doingよりもbeingが大切なのではないかと。

そこで生まれたのが「チョウチンアンコウ」モデル。
人は誰もがチョウチンアンコウで、頭にその光がともっていない。
「係」というのは、そこに光を灯した状態のようなことなのでは?と
beingがアンコウそのもので、それを関係性によって、チョウチンに光を灯すこと。

当事者性と向き合うこと、当事者性に気づくこと、当事者性を発揮することで「係」に出会い、アンコウに光が灯り、アンコウが集まることで居場所ができる。
~~~

「コーディネーター」っていうのは、チョウチンアンコウの「チョウチン」に光を灯すっていうことなのだと思った。
そしてその光を灯すのは、コーディネーターという人ではなくて、コーディネーターがつくる「場」なのだろうと。

そこに居る人、そこにあるもの、空間、進行中の企画などによって、ひとりひとりが、チョウチンアンコウであることに気づき、「係」を得て、チョウチンに光を灯すこと。

それは「役割」とは違うっていうこと。もしかしたら、目的目標のよくわからないプロセスにあるほうが、「係」は生まれやすいのかもしれない。目的目標に向かっていくと明確な「役割」が生まれ、あいまいな「係」が生まれにくい。

「係」って存在と役割のグラデーションのあいだにあるような気がする。
そんなグラデーションのある「場」をつくっていくこと。

ウイリアム・アーサー・ワード(William Arthur Ward, 1921-1994)の言葉を思い出した。

The mediocre teacher tells.
The good teacher explains.
The superior teacher demonstrates.
The great teacher inspires.

凡庸な教師はただしゃべる
よい教師は説明する
すぐれた教師は自らやってみせる
偉大な教師は心に火を灯す

これのコーディネーター版
凡庸なコーディネーターは、ただ司会をする
よいコーディネーターは、目的・目標を達成する
すぐれたコーディネーターは、相互作用を引き出す
そして、偉大なコーディネーターはチョウチンアンコウのチョウチンに光を灯す。

こんな感じ?
コーディネートってそういうことか、っていうのが見えてきた講座となりました。2回目が楽しみです。  

Posted by ニシダタクジ at 18:58Comments(0)学び日記

2023年12月09日

悪魔のように細心に、天使のように大胆に


「妄想する頭 思考する手」(暦本純一 祥伝社)

スマホに使われている「スマートスキン」というマルチタッチインターフェースを発明した暦本さんのエッセンスに詰まった1冊。

キーワードが詰まっているし、高校生に説明するときに、その入り口はいいなと思い、メモします。

~~~
「イノベーションのスタート地点には、必ずしも解決すべき課題があるとはかぎらない」

「真面目:課題を解決する」「不真面目:真面目を逸脱する」
⇒真面目と不真面目は「真面目度」を計る価値軸の上に乗っている。
「非真面目」
⇒真面目度の価値軸の上に乗っておらず、上司や先生の命令に関わらず、やりたいことに集中している。

課題解決型の真面目なやり方だけでは、予測不可能な未来に対応するイノベーションを起こすことができない。
素人のように発想し、玄人のように実行する

悪魔のように細心に!天使のように大胆に(黒澤明)
「天使度:発想の大胆さ」「悪魔度:技術の高さ」

「言語化」:WHAT(何を)WHY(なぜ)やるのかを説明するツール。

「やりたいこと=クレーム」は一行で言い切る。
クレームは「答え」ではなく「仮説」で。

やりたいジャンルはクレームではない
始める前にあらすじを書く
・課題は何か?それは誰にとって必要なものか?
・その課題はなぜ難しいのか?あるいはなぜ面白いのか?
・その課題をどう解決するのか?(ココが一行クレーム)
・その手法で解決できることをどう立証するか、どう決着をつけるか
・その解決手法のもたらす効果、さらなる発展の可能性

これを12月23日「星影書店」をベースに書いてみる。
https://hoshikage1223.peatix.com/

〇一行クレーム
「就職活動をスペックのマッチングからベクトルのマッチングへ換える本屋さん」

〇課題は何か?それは誰に取って必要なものか?
・学生:業種や業態、給与などで就職先選ぶのではなく、社長の人柄やビジョンで共感できる会社と出会いたい。
・企業:優秀な(面白い)学生は、(スペック・知名度が低い)自分の会社を選択肢に入れてくれない。

〇その課題はなぜ難しいのか?
・学生:すでに出来上がっている巨大な就活システムがそのような仕様になっており、それを前提としている
・企業:上記システムを活用するには費用がかかる、スペック勝負だと、検索・検討されにくい

〇その課題をどう解決するのか?
就職活動を「スペック」のマッチングから「ベクトル」のマッチングに換える本屋さん

その手法で解決できることをどう立証するか、どう決着をつけるか
1 10名程度の企業経営者へインタビューを行い、15冊~20冊程度の本棚をつくる。
2 一定期間本屋さんを開店し、主に大学生を対象に販売する。
3 本を購入した人が会社・経営者にアクセスができる仕組みをつくる
4 実際にマッチングが起こるか検証

〇その解決手法のもたらす効果、さらなる発展の可能性
・就職活動中以外の学生や若手社会人との接点がつくることができる。
・複数回の実施、他地域での展開の可能性。
・ウェブサイト、SNS上での再現性の可能性。

~~~
いいですね。こういうの。
プロジェクトのはじまりって感じです。

この方法で、ひたすらに打数を増やしていくことだと暦本さんは言う。
「一行のクレームを書いてから決着をつけるまでの最初のサイクルを短くすることが大事だ。そこに時間をかけていると打数は増えない」

なるほど。
これは高校生でも、大学生でも、むしろ大人になっても、ずっと同じだろうと思う。
だからこそ

1 クレームの素材を集めるためにアンテナを張る
2 クレームを書けるようになる
3 クレームを検証(アクション)する
4 ふりかえって、次のクレームに備える

みたいな繰り返しをやっていくことが大切なのだろうと思う。
まだ第2章です。読み進めるのが楽しみです。
  

Posted by ニシダタクジ at 08:08Comments(0)学び日記

2023年12月03日

己の唯一無二性に気づくため「座標軸」の外に出る


「ケアしケアされ、生きていく」(竹端寛 ちくまプリマ―新書)

まずはP22 子ども基本法第三条第三項より

「全てのこどもについて、その年齢及び発達の程度に応じて、自己に直接関係する全ての事項に関して意見を表明する機会及び多様な社会的活動に参画する機会が確保されること」

なるほど。
寮のルールとか勝手に決めちゃいけないんですね。子ども基本法違反なんです。
授業のカリキュラムもどうなんでしょうか。

次にwith-nessについて。
~~~
about-nessな考え方:「〇〇について考える」やり方で、問題を対象化して「客観的に」分析する思考。常に問題を細分化・他人事化しやすいし、他者の問題なら「それは〇〇が悪い」と上から目線で指導や指摘をしやすいです。

with-nessな考え方:「〇〇についてあなたと私が共に考え合う」という姿勢で、物事を切り離して分割するのではなく、どのように関連づけられそうか、いかに相互作用が起こるのか、を大切にします。まずは相手が悩んでいること、しんどいこと、苦しいことを遮らずに最後までじっくり聞いてみる。相手の話を否定せずにまるごと受け止めてみる。その後、その話を聞いた自分は心の中にどんなことが浮かぶかを、私を主語にして、話し始めてみる。それがwith-nessなアプローチです。
~~~

ケアの種類について

~~~
1 関心を向けること Caring about
2 配慮すること Caring for
3 ケアを提供すること Caring giving
4 ケアを受けとること Care-receiving
5 共に思いやること Caring with:複数性、コミュニケーション、信頼と尊敬、連帯感
~~~

そして手厳しい「昭和98年的世界」の描写
~~~
「迷惑をかけるな憲法」と同じような「呪いの言葉」としての「頑張れば報われる」は、「報われるためには頑張らなければいけない」:根性論「頑張らないなら報われなくても仕方ない」:自己責任論へと転化してしまう。

学校は標準的で規格化された学力を埋め込むための「学力工場」になっているのではないか。

パウロ・フレイレは「教師が一方的に話すと、生徒はただ教師が話す内容を機械的に覚えるというだけになる。生徒をただの『容れ物』にしてしまい、教師は『容れ物を一杯にする』ということが仕事になる。『容れ物』にたくさん容れられるほどよい教師、というわけだ。黙ってただ一杯に『容れられている』だけがよい生徒になってしまう。」と言い、それを「銀行型教育」と名付けた。

知識を預金するかのようにため込む時、「なぜ?」「どうして?」という問いを抱えること自体が無駄になります。黙って暗記した方が、たしかに「効率的」です。でもそれは自らの中で湧きあがる「問い」を消して「正解」ばかり追い求める行為になります。そして、そのような「問い」を消すことは、私自身にとっては「学びの自発性」の炎を消すことでもあったのです。
~~~

昭和的な「正解≒効率化」がある時代から、標準化・規格化された「正しい答え」を失った令和の時代。世の中が変わってしまったのに社会のシステムと人々の思考がアップデートされていないことで生きづらさが増しているのではないか、と筆者は言います。


最後のケアの項目から、「共に思い合う関係性」(P 164)

~~~
中核的感情欲求(伊藤絵美)
1 愛してもらいたい、守ってもらいたい、理解してもらいたい
2 有能な人間になりたい、いろいろなことがうまくできるようになりたい
3 自分の感情や思いを自由に表現したい、自分の意思を大切にしたい
4 自由にのびのびと動きたい。楽しく遊びたい。生き生きと楽しみたい
5 自律性のある人間になりたい。ある程度自分をコントロールできるしっかりとした人間になりたい

この要素が満たされない状況
1 人との関わりが拒絶されること
2 「できない自分」にしかなれないこと
3 他者を優先し、自分を抑えること
4 物事を悲観し、自己や他人を追い詰めること
5 自分勝手になりすぎること

ケア対象者の中核的欲求を満たすためには、どうしたらいいのか?

P168 岸政彦さんが提唱する「他者の合理性の理解」のための「生活史」の把握

「生活史とは、出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積である。そしてその連鎖と蓄積を通じて、人生そのものに『意味』というものを付与していくのである。私たちは自分の経験、出来事、他者、場所などに、常にさまざまな意味付けをおこなう。それは希望に満ちたものでもあるだろうし、絶望的なものでもあるかもしれない。わたしたちの人生の中心には意味があり、その意味をめぐって私たちの人生は展開する。意味によって人は生かされていて、そして生きることで意味が生み出されていく。」

あなたが誰かをケアする際には、ケアする相手の「出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積」を理解する必要があります。その人は、これまでの人生にどのような「意味づけ」を行ってきたのか。これから、いかなる意味づけを行っていこうとするのか。本人の過去の意味づけと、未来への展望をうかがいながら、では自分はそこにどのように能動的に関わっていけるのか、を考えていきます。ここで能動的と述べたのは、絶望的な意味づけが希望的な意味づけに変わるように積極的に関与しケアすることができるか、という視点です。

伊藤絵美さんによると「他者を優先し、自分を抑えること」の中には、「『ほめられたい』『評価されたい』スキーマ」が、「物事を悲観し、自分や他人を追い詰めること」の中には、「完璧主義的『べき』スキーマ」が存在する、といいます。(スキーマ:無自覚・無意識の認識のパターンやクセのようなもの)

そんな他者の生活史の理解を通じて、他者がいかなる中核的感情欲求をどのように満たされたか、満たされていないか、を把握していくプロセスは、「他者の他者性」に気づくことであり、それを通じて「己の唯一無二性」を捉え直すことでもあります。

「他者の他者性」とは、「他者には、自分には理解し得ない他者性がある」ということです。

ものごとを決めるときにも、その前提で進めていくときに大切なことが、「違いを知る対話」と「決定のための対話」を分けるということです。

学級会であれ会社の会議であれ、話が揉めるのは、価値観が対立した際です。その前に、お互いの価値前提を聞き合う時間があれば、話は違ってきます。なぜあの人は私と反対の意見を持っているのか、そこには必ず理由や背景があります。

他者の他者性を理解するプロセスの中で、彼女がそうせざるを得ない出来事と選択と理由の、連鎖と蓄積(≒他者の合理性)が理解できてきます。すると、彼女を許せるだけでなく、彼女にイライラした自分の内的合理性も理解でき、それをも許せるようになってくるのです。

「迷惑をかけるな憲法」とは、まさに魂の植民地化そのものです。中核的感情欲求の1つ、「自分の感情や思いに蓋をして、「他者を優先し、自分を抑えること」に必死になる姿です。学生たちも私も、制度的な植民地状態に生きているわけではありません。言論の自由が保障された日本社会に暮らしています。でも、「個々人の精神が内部で深く植民地化されている」のです。
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いま・ここ、の不確実性に身をさらすこと。これはめちゃくちゃ怖いことです。何が正解かわからない状況にあるなかで、自分が言ったことを理解してもらえるか、受け入れてもらえるかどうかわからない。それは自分が傷つく恐れもあり、不安感も高まる状況です。

でも、それが己の影だとしたら、どうでしょう。影を無視して、他者との出会いによる葛藤を回避して、スムーズな日常に逃げ込むことによって、己の唯一無二性に出会うチャンスをも見失ってしまいます。それは中核的感情欲求を満たすチャンスを見失うことであり、「世の中なんてどうせそんなもんだ」と諦めて、自己責任的社会を消極的に受け入れ、自分自身が縮こまっていきます。それこそが「魂の植民地化」なのです。

魂の「脱」植民地化とは、この葛藤の最大化場面において、他者を信じて、他者や己との対話を豊かにしていくプロセスなのではないかと思います。落としどころや見通しの利かない場面で、とにかく他者の他者性を理解しようと、全身で聞き耳を立てる。そういうふうに、相手に自分をさらけ出すことで、相手との間に信頼関係が生まれ、そっから相手も自分の声を聞いてくれる展開が生まれる。そういう不確実さをそのものとして大切にする姿勢の中から、「違いを知る対話」が生まれてきます。そしてあなたがそう心がけさえすれば、いま・ここ、でその対話を始めることもできるのです。

それこそがケアに満ちあふれた対話なのです。

他者の他者性に出会った上で、どのようにいま・ここで己の唯一無二性と関係性のダンスを踊れるか、が問われています。正直、ダンスを始めてみないと、そのダンスはどこに行き着くか、わかりません。
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いいですね。このラスト。グッときます。

ケアする、ケアされるということ。
それは共に思いやること。
相手の他者性に気づくこと。
それを通じて己の唯一無二性に気づくこと。

「アイデンティティ」という問題の解決策のひとつがここにある、と思いました。

他者の生活史の物語を知ること。
「出来事の選択と理由」の連鎖と蓄積を受け止めること。

それはある意味、自分が築いてきた「座標軸」の外に出ることを意味するのかもしれない。
己が唯一無二であること。

それは他者で他者であることの自覚から始まっていくのかもしれません。  

Posted by ニシダタクジ at 12:11Comments(0)学び日記

2023年12月02日

「とらわれ」を獲得する前に



富山県舟橋村のfork toyamaにお邪魔してきました。
https://fork-toyama.com/

昨年のクラウドファンディングの記事に概要はまとめられています。
https://readyfor.jp/projects/forktoyama

「fork」というのは選択肢という意味。
代表の岡山さんはもともと研究者を目指し、大学院に進学。
教授から君はアカデミックよりジャーナリズムが向いていると進路変更。
PR・マーケティング会社を経て独立。
現在は富山県の事業者のブランディング等を手掛けている。

舟橋村は「日本一小さな村」。補助金や制度に頼るのではなく、住民同士が「子育て共助」に力を入れてきた結果だと言います。(上記サイトより)

市町村合併をしなかったのも、理由のひとつには「合併すると小中学校がなくなってしまうから」ということが挙げられる。

富山駅まで電車(地鉄)が走っていて、通勤するのに便利ということもあるだろうけど、「子育て共助」をキーワードに移住者も子育てを通じてまちに溶け込んでいく仕組みができている。

そんな子育ての村、舟橋村に今年5月に正式オープンしたのが学童保育だ。

運営するのが一般社団法人fork。
ミッションは「はたらく」と「そだてる」をもっと自由にする

学童保育の方針は「みん営」:子育てをみんなのものに。
保育料はゼロ。

みん営がひらく可能性
「はたらく」家庭の状況や周囲の環境にとらわれず子どもが安心して過ごせる場所をつくることで親の「はたらく」に自由な選択肢が生まれます。
「そだてる」:経済的・地理的な制約にとらわれず、子どもの能力や価値観を拡げる機会をつくることで「そだてる」ことにあたらしいチャンスが生まれます。
「くらす」:「はたらく」と「そだてる」がもっと自由になることで、自分の暮らしたい街で暮らすこと、好きな場所で生きることができるようになります。

保育理念は「まなぶをあそぶ、みらいをつくる。」
・自分で考える力を育む:指示される、命令されるのではなく、どうすべきかを自分で考えて行動できる人として育つために、大人はきっかけを提供する役割を担うことが大切です。

・子どもも大人もおなじ人:子どもだから未熟、大人だから完璧。そんなことはありません。どちらも同じひとりの人として尊重し合う関係を大切にしています。

・多様な大人の背中に出会う:子どもだからこそ、世の中にはさまざまな人がいることに気づきやすい環境が大切です。多様性との出会いは自分の可能性を広げることにつながります。

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forkの文章を読んでいると、「〇〇にとらわれず、選択肢を増やす」という文法になっていることがわかる。

これは岡山さんの「もっと自由に生きてほしい」という祈りが込められている。

「日本一小さな村、富山県舟橋村で生まれたforkは、子どもの有無や住んでいる地域を問わず、社会みんなが「子育ての関係者」になれる日本初の学童保育施設です。さまざまな個人や企業が経済的に支えることで保育料ゼロを実現し、さまざまな人・もの・コトとの出会いを提供することで子どもたちに人生の選択肢が広がる機会をつくることに挑戦しています」

まさにまさに。人は、「機会」によって、「とらわれ」から解放され「自由」を得て「選択肢」を増やす。

それをいかに早くやれるか?
つまり「とらわれ」を得る前にやれるかどうか。
やっぱり小学校からスタートすべきなのかもしれない。
「遊び」と「学び」が分かれる前に、遊びのような学び、学びのような遊びをつくっていきたいと思った。

参考:「学ぶ」と「遊ぶ」を再び融合させること
http://hero.niiblo.jp/e493270.html
参考:「自信がない」は後天的に獲得した資質である
http://hero.niiblo.jp/e459844.html

岡山さんが言っていた3次資源(=精神性)という言葉も印象に残った。富山県の歴史的背景(貿易・交流の拠点でありながら農村地帯)から、保守的な人とチャレンジングな人(田中輝美さん的に言えば土の人風の人かも)との両方がいるが、それぞれが共存・共生しあっているという。そういう歴史的背景って大切にしていきたいなと思った。

ハードと、ソフトと、精神性というか、ベクトルというか、美学っていうか、そういうもの。その3つがオーバーラップするものとしてのみん営の学童保育。しかもそれは岡山さんひとりではなく、集まってくるサポーターの人たちとの対話しながら出来上がっていくもの。そして、子どもたちも享受するだけでなく、その一員としてつくっていくもの。

その、「これからつくっていくもの」のためのハードとソフトなのだろうな、と思った。  

Posted by ニシダタクジ at 08:16Comments(0)学び日記