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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2024年03月30日

SNSとアイデンティティ

『砂漠と異人たち』(宇野常寛 朝日新聞出版)

第四部 脱ゲーム的身体より

吉本隆明『共同幻想論』からの、アイデンティティ問題の考察がスルドいのでメモ
~~~
吉本の生きた20世紀が、共同幻想の肥大が個人を押しつぶしていた時代だったからだ。

イデオロギーによって思考を停止し、世界を善悪に二分してしまった人間たちが何をし得るのかは自明だ。20世紀とは、情報環境の進化に踊らされた人類が共同幻想を肥大化させ危うく自らを滅ぼしかけた時代だったのだ。だからこそ、吉本隆明はあらゆる共同幻想からの自立を唱えた。

3つの幻想は、自己幻想(自己に対する像)、対幻想(家族や恋人、友人など、1対1の関係に対する像)、共同幻想(集団に対する像)に分類され、これらは互いに独立して存在し、かつ反発し合う性質(逆立)があると吉本は考えた。

吉本が自立の根拠としたのが、対幻想-家族や友人などに発生する1対1の対の関係性-だった。家族を守ること、妻と子の生活を守ることをアイデンティティの中核に置き、政治的イデオロギーのもたらす共同幻想から「自立」すること。つまり吉本は半世紀前に、共産主義革命という20世紀最大の共同幻想からの自立のために、対幻想に依拠するという処方箋を提示したのだ。

その処方箋を提示された患者たちー全共闘の若き活動家たちーはたしかに、家庭という対幻想にアイデンティティの置き場を変えることで共同幻想から自立したのかもしれない。しかし、彼らの新しい依存先となった戦後的な核家族による家庭の多くは、かつての大家族に比して制度的には緩和されているが、その分精神的にはより依存の度合いを深めた性搾取の装置であったこと、そしてまた彼らの多くが私的な領域において対幻想に依存するからこそ、公的な場では思考を停止させ職場となる企業や団体のネジや歯車として埋没していったことは記憶に新しい。

前者は21世紀の今日においても性差別の根深いこの国の後進性そのものであり、そして後者は共同体の同調圧力として、個人の創造性を抑圧することでこの国の産業を20世紀的な工業社会に縛り付け、21世紀的な情報社会への対応を大きく遅らせている。
~~~

共同幻想とアイデンティティ問題。これ、僕のテーマでもあります。
著者は、この吉本の処方が失敗したプロジェクトだったと断じる。

~~~
吉本は、どこで誤ったのだろうか。吉本の失敗と、この国の長すぎた戦後史が証明することーそれはある幻想にアイデンティティを預けることがほかの幻想に取り込まれないことを保証しないということだ。

自分は妻子のために身を粉にしていることを誇りに〈対幻想への依拠〉、安心して職場ではネジや歯車となって思考を停止〈共同幻想へ埋没〉していった。

今日の情報社会においてそれは自明なことだが、むしろ人間はある領域の幻想にアイデンティティを確立することで、別の領域では安心してそれを明け渡すことができる。

資本主義と情報技術の発展は、人々に複数の場を生きることを可能にした。より正確には、人間が複数の場を生き得ることを、顕在化させた。このとき、吉本の自立論はその根底の部分で大きな修正を迫られる。三幻想はそれぞれ、別の欲望に根差して単に独立しているのであり、決して逆立はしていないのだ。
~~~

ある幻想にアイデンティティを依拠すること。それは、他の幻想が作用する場における思考停止を意味する。それで、はたして人は幸せになれるのだろうか。さらに、消費社会へと時代がシフトする中での吉本が変わっていくことを以下のように述べる。

~~~
その後の吉本は、80年代の消費社会の到来を経て、むしろ個人の単位でのアイデンティティの確立を志向するようになる。

大衆が一人ひとり生活の必需品ではなく、嗜好品を手に入れること。この国にはじめて訪れた消費社会は、日本人に消費することでの自己確認(自己表現)という回路を与えた。

モノとのコミュニケーション(所有)によって、他の誰かにも特定の共同体にも承認されることなく、アイデンティティを安定させること。モノの所有のもたらすアイデンティティは多くの場合一時的なもので、そして弱い。

実際に当時の消費社会下におけるモノの所有によるアイデンティの確認は、実質的にはそれを社会的に顕示することで、共同体からの承認を獲得することが目的とされていた。それは自己幻想による自立ではなく、実質的には共同幻想への埋没だったのだ。

そして、21世紀の今日において情報社会の到来とともに価値の中心は「モノ」から「コト」に移行した。現在ではアルマーニのシャツの袖口からロレックスの時計をチラつかせている人間に、現役世代の大半が軽蔑を感じるだろう。一方で「コト」は情報技術によって簡単に可視化され、そしてシェアされるようになっている。

そしてその結果として、多くの人々は「コト」を社会的に顕示している。この「コト」のシェアによる顕示の中心を占めるのが、SNSのプラットフォーム上の相互評価のゲームである。

情報技術はコトをシェアすることでの自己幻想の確認のコストを、大きく下げてくれる。意識の高いイベントへの参加を顕示するのは骨の折れる行為だが、タイムラインの潮目を読んで周囲の人間が石を投げつけている相手に自分も一撃を加えることには、能力もコストもそれほど必要ない。
~~~

いやあ、これはすごい。アイデンティティの確立がSNSへ依存していることがわかる。さらに著者は、現代の代表的SNSが、吉本の三幻想に対応していることを指摘する。

~~~
プロフィールとは自己幻想であり、メッセンジャーとは対幻想であり、そしてタイムラインとは共同幻想そのものだ。シリコンバレーの人々が吉本と参照したなどということがあるはずもない。彼らは人間の社会像の形成とコミュニケーションの様式を実際のユーザーの行動から分析し、そこから発見された欲望に工学的なアプローチで最適化していったにすぎない。

吉本隆明が提唱した三幻想が人間と人間の間に発生する関係のパターンを網羅し正確に分類するものであったことが、四半世紀後の情報技術によって証明されたと考えればよいだろう。

そして、いま僕たちはこれらの幻想をコントロールする情報技術によって、吉本隆明のいう「関係の絶対性」の内部に閉じ込められている。

たとえば、FacebookやTwitterのユーザーの多くが、対幻想(他のユーザーとの関係)や共同幻想(所属するコミュニティ)を誇示することでの自己幻想(プロフィール)の強化を日常的に試みている。21世紀の今日、吉本の三幻想はSNSというかたちで相互補完的に機能して、より強固に人類を関係の絶対性に縛り付け、動員のゲームのネットワークの中に閉じ込めているだ。

SNSとは情報技術を用いて人間間の社会関係のみを抽出する装置だ。人間間の関係のみを肥大させた結果としてSNSの与える社会的身体は「人と関わること」に特化し、そのために承認欲求以外の欲望が喚起されなくなっているのだ。
~~~

そっか。僕たちはまだ、吉本隆明が規定した世界の中で戸惑っているんだなあと。じゃあ、どうしたらいいのか。
「このゲームから降りる」ことだと宇野さんは言う。

~~~
かつてハンナ・アーレントが指摘したように、ゲームのプレイを目的にした主体はゲームの存在とその拡張を疑うことができなくなる。そしてゲームのプレイスタイルを変えること(所有から関係性へ)も、ゲームを複数化すること(プラットフォームとコミュニティの分散)も突破口になり得ない。では、どうするべきか。僕の解答はこの(関係性の絶対性のもたらす)ゲームから降りることだ。

それは外部に脱出するのではなく、内部に潜ることでなければいけない。

その手がかりは、日常の、暮らしの内部にある。

ロレンスも村上春樹もある時期から「走る」ことをその暮らしの中に取り入れていったことを。それも一定以上の「速さ」で走ることを彼らが求めたことを。

ランナーになったとき、住民と旅行客の差はなくなる。たとえその人がその街の住人だろうと、他の街からやってきた旅行客だろうと、走っている時間は、つまり「走る」ことそのものを目的に走っている時はその差はまったくなくなる。

僕が世界中の様々な街を訪れたときに、走ることでその街の一部になることができるように感じるのはそのためだ。街を走る人は、半ば匿名的になり、その街の風景の一部になっているのだ。

ランナーは走ることによってその街と、世界と対話する。しかし、速さを求めることは、その対話の可能性を閉ざす。純化されたスピードの追求は、その土地からの切断をもたらす。

「遅い」ランナーとは人間間の相互評価のゲームから降りた存在だ。しかしそれでいながら、人間を世界から切断する「速さ」の呪縛からも逃れ、「遅さ」を受け入れることで世界に対して開かれている存在だ。街を孤独に走るとき、僕たちは人間間の相互評価のゲームからは離脱しているが、その土地の事物に対しては開かれているのだ。

ここで重要なことはたった一つ。街を走るように、世界に接することだ。ただし、ゆっくりと。
~~~

じゃあ、どうやって脱ゲーム化していくのか?宇野さんは、京都に暮らした経験を基に「歴史に見られる」ことだと言う。

~~~
言い換えれば、個人の生の尺度で測ることができない巨大がものが、自分の生活の中に存在しているという感触だった。それは歴史を見るのではなく、歴史に見られる体験だった。自分がその物語の登場人物として、歴史の当事者として関与しているという実感はない。しかし確かに歴史は存在していて、自分の等身大の生活にも強く、深く影響している。そのことを僕はあの街で暮らしているときに、「見る」ことではなく「見られる」ことで感じていた。

そこには、「いま」自分が閉じたネットワークの相互評価のゲームでどのくらいスコアを挙げているかという問題を超越した、時間的な自立を与えてくれる感覚が、それも日常の、生活の内部に存在していた。人は歴史に見られながら暮らすことで、閉じたネットワークの時間的な外部の存在を意識するのだ。

京都のような古い街に暮らすとき、人はそれを意識することなくただ生活の中で歴史に見られることになる。このとき人間は時間をかけて、自己の存在よりも圧倒的に巨大な規模で、時間の流れが存在していることを無意識のうちに認識させられる。これがおそらく、物語化されない歴史へのアプローチのほぼ唯一の回路だ。

移住者としてその土地に接することが、そこを旅先として暮らしの外部に置くのではなく、暮らしの内部として受け止めることが、もっとも効果的に歴史に見られる身体を育むのだ。

その土地を無目的に「遅く」走るとき、僕たちの身体は無防備に歴史に見られることになる。このとき僕たちの身体は走ること以外に、自由な速度を用いてその土地に触れること以外に目的を持たない。セルフィーを撮るべき名所旧跡も、承認を交換すべき他の誰かも必要としていない。そしてそのために、接した場所において目的を持たない。
~~~

「歴史に見られる」という感覚。これはきっと、麒麟山米づくり大学に参加している人たち、Feel度Walkをしている人たち、もしかしたら地域みらい留学の高校生たちががうっすらと感じていることなのではないか。

180年続く酒蔵の米づくりを体感し、酒造りの細部を知る。そこに込められた想いを知る。そして、同時に、酒造りの歴史から見られているのだ。

本書のラストに著者は三つの知恵を提案する。

~~~
第一に、人間以外の事物と触れる時間を持つこと
第二に、人間以外の事物を「制作」すること
最後に、その「制作」を通じて、他者と接すること

人間は、人間外の事物に触れることで人間間の相互評価のゲームから一時的に逸脱する。プラットフォームによって画一化され、同じ身体を持つ他のプレイヤーとの承認の交換しかできなくなった身体がその多様な側面を回復する。ここで大事なのは、その事物を消費せずに、愛好することだ。ここで述べる消費とは、その事物を受け取り、用いることを指す。そして愛好とはその事物を単に受け取るのではなく、独自の問題を設定し、探求することを指す。

このとき僕たちは事物をただ単に見る、触れるのではなく、その事物を用いて何かを制作することが望ましい。そうすることで、僕たちは相互評価のネットワーク(世間)とは、切断されながら、世界と接続することができる。そして制作された事物により、僕たちは自立しながらも開かれることになる。そして制作された事物は、未来において人間たちを「見る」歴史的な主体になっていくのだ。

こうしてその人ではなく、制作された事物とのコミュニケーションに注力することで、情報技術に支援された人間間の相互評価のゲームとは異なるチャンネルでの対話が可能になる。
~~~
SNSによる相互評価ゲームの外部を、ひとりひとりは必要としている。そしてそれは、旅先のどこかではなく、暮らしの内部にあり、住んでいる町の歴史との相互作用にあるのかもしれない。

「いきている」と実感すること。それはひとえに、自分が交換不可能な存在であると認識できることなのだろうと思う。

人間以外の事物にふれ、事物を制作し、それを通じて他者と接すること。

そこに、アイデンティティを取り戻すヒントが詰まっていると思う。  

Posted by ニシダタクジ at 16:45Comments(0)学び日記

2024年03月27日

「相互評価」ゲームからの越境

『砂漠と異人たち』(宇野常寛 朝日新聞出版)

1年前に買っていたのですが、ようやく読み始め。
でも、タイムリーではあります。
僕たちは「評価」というものを問い直す必要があるのだと思う。

以下、引用。
まずはSNSによる「動員の革命」について

~~~
コロナ・ショックは人間をインターネットの中に、より正確にはSNSの作り出す人間同士の相互評価のゲームの中に閉じ込めたのだ。いつの間にか人々は問題を解決するためではなく不安を解消するために、考えるためではなく考えないために情報を検索し、受信し、そして発信するようになっていた。

マスメディアのもたらすものが他人の物語への感情移入であるのに対し、SNSのそれは自分の物語の発信である。その発信がほんの少しでも誰かを、社会を動かすと信じられるとき、人間は自己の存在が承認されたと感じる。ここにら「動員の革命」の特徴があった。「動員の革命」とは市民運動だけでなく、CDからライブやフェスへの収益構造の変化、「観る」アニメから「推す」アイドルへのサブカルチャーの中心の移動、「インスタ映え」による小売店や観光客の集客。サイバースペースの日常から、実空間の非日常に「動員」していた時代だった。

「動員の革命」とは、言い換えれば誰もが当事者として「自分の物語」を発信する快楽を得られる環境に依存した動員だ。しかし多くの人々が、その快楽の中毒となり、発信すること自体が目的化することでものを考える力を失ってしまっているのだ。彼ら、彼女らは自分が投稿した言葉が、画像が、動画が、他のプレイヤーの共感を集めたとき、自己の存在が承認されたと感じる。

このとき人間は、それがどんな小さなものであったとしても、確実に世界に素手で触れたと信じられる。この手触りは自分が存在していることを強く肯定してくれる。その結果として、今日の世界では世界中の人々が他のプレイヤーからの共感を競うこのゲームのプレイヤーになっている。プレイヤーの目的は問題の解決や再設定ではなく、問題についての応答による評価の獲得だ。他のユーザーからの評価を獲得するためには、その承認への欲求に訴えることがもっとも効果的であることを、いまやほとんどのプレイヤーが経験的に知っている。
~~~

「動員の革命」とは、SNSによって可能となった「自分の物語の発信」とそれに伴う「存在の承認」への欲求によって駆動されているのだと宇野さんは言う。

そして、いつのまにか、人はその「共感」の数を競うゲームのプレイヤーとして存在しているのだとも言う。まさに「評価経済」と呼ばれるものだ。

しかし、果たしてそれで、人は幸せになったのだろうか?
世界は進歩したのだろうか?
課題は解決したのだろうか?
「承認の欲求」という課題を含めて。

宇野さんは問いかける

~~~
しかし、僕は問いたい。この十年のあいだSNSによって動員されたそこは本当に外部だったのか。偶然目に映り、耳に入るものに溢れた出会いの場だったのだろうか。
~~~

それはむしろ、現実社会そのものがサーバー空間によって乗っ取られている、とも言えるだろう。しかしそれは「世界に素手で触れている」という感覚を喪失しているからこそ起こるのだ、と宇野さんは説明する。

~~~
グローバル資本主義というゲームをプレイし、そしてゲームそのものを内側から改変していくことが可能なメタプレイヤーキャラクターたちと、もはやこのゲームを主体的にプレイすることすら許されないノンプレイヤーキャラクターたちに世界は二分されているのだ。両者を隔てているのは、世界に素手で触れることができると信じられているかどうか、だ。

ヒッピーの脱社会性と反権威性にヤッピーたちの資本主義への過剰反応が合流したとき、シリコンバレーは生まれた。このとき、資本主義の外部に捏造するはずだったサイバースペースは、資本主義社会のあたらしいフロンティアとしてその内部に組み込まれた。

およそ百年前に、ロレンスが選択したゲームの目的(金銭や地位、そしてイデオロギーの追求など)を放棄し、ゲームのスコア自体を目的化するというアプローチこそが、帝国主義の無制限に自己拡大を試みるメカニズムの一部であるというアーレントの指摘は、情報社会を生きる僕たちに大きな示唆を与える

インターネットが、SNSのプラットフォームによって閉じた相互評価のゲームと化したとき、人々はアーレントの述べる〈グレート・ゲーム〉のプレイヤーに限りなく近い存在になる。

自分の発信が他のプレイヤーから評価されることで発生する承認の快楽の中毒になっていく。そして発信の目的は世界に影響を及ぼすことではなく、承認の獲得に変化していく。気がつけば、問題の解決や問い直しではなく、どのように回答すれば他のプレイヤーから関心を集めることができるかだけを考えて発信するようになる。
~~~

いやー。まさにまさに。
僕たちはSNSによって、現実社会を乗っ取られているのだ。
著者はそれを「アラビアのロレンス問題」として、解説するのが第2章だ。
ここは、なかなか難しかったのだけど、結論だけをメモする。

~~~
僕たちはロレンスよりもずっと簡単に物理的な身体を一時的に消滅させる一方で、社会的な身体のみを肥大させ、着飾ることができる世界に生きている。ロレンスほど徹底してその身体を痛めつけることなく、精神と身体を切り離し、メディアの中の虚像を手に入れることができる。

人びとは極めて無自覚に、単純化され、画一化された身体を用いることによって、その欲望も単純化され、画一化されている。プラットフォームはあらゆるプレイヤーの社会的身体を画一化する。現実の物理的な身体は多様だが、SNS上の社会的身体は一様なものになる。人間一人ひとりの身体は全く異なるが、SNSのアカウントの機能は同一だ。しかもその社会的身体(アカウント)の機能は、相互評価のゲームによる承認の交換のみを行うように設計されている。

その結果として人々は閉じたネットワークの内部に閉じ込められて、終わりのない21世紀の〈グレート・ゲーム〉に埋没している。そして今日となっては、SNSのプラットフォームの支配下にあると言っても過言ではない実空間にまで、その繭は拡大している。
~~~

新型コロナウイルスにより、生身の身体で「外部」に触れられなくなった私たちは、身体を拒絶して絶対的な外部を求めることによって、逆に閉じたネットワークに閉じ込められたのだと著者は説明する。

これこそがこの4年間で、起こったことなのではないか。
そう思った。

コロナショックによる外出制限によって、僕たちは(特に身体的に)「存在が承認される」機会を失った。その、根源的欲求に応えるために、SNSの世界へと時間を使うようになった。そこは、ひとりひとりが「1アカウント」でしかなく、平等な条件のもとの相互評価のゲームをプレイできる場だった。

「越境しよう」
そう高校生に呼びかけるとき、越えるべき「境界」とはいったいなんだろうか?

子どもと大人の境界。
学校内と学校外の境界。
地域内と地域外の境界。
日本と世界の境界。
または身体と精神の境界。

本当に越えなければならないのは「評価」の境界ではないのか。
SNSのプラットフォームが提供している相互評価のゲーム。
学校内外の活動のすべてを大学進学のネタとして「評価」しようとする入試ゲーム。

その外部に出る必要があるのではないか。
そして、「外部」を自ら構築する必要があるのではないか。
身体を伴ったリアルな実感として。

その「越境」のきっかけをつくること、コーディネートすることこそが私たちがここに存在している理由なのではないのか。

その「越境」を欲して、ロレンスのように高校生は地方を目指しているのではないのか。
そこに応えられる地域でありたい、そんな風に思った。  

Posted by ニシダタクジ at 07:28Comments(0)学び

2024年03月23日

「自分とは何か?」に応えてくれる活動


『ごちゃまぜで社会は変えられる』(濱野将行 クリエイツかもがわ)

読みました。シビれました。こんなすごい人いるんだなあって。
さっそく本書に出てくるユースサポーターズネットワークの岩井さんに連絡して、5月くらいに行きます、って言いました。

舞台は栃木県大田原市。
濱野さんが代表を務める一般社団法人えんがおは、「誰もが人とのつながりを感じられる社会」を目指して、高齢者の孤立問題を中心とした地域課題・社会課題に向き合っています。

えんがおHP
https://www.engawa-smile.org/

徒歩2分圏内の6軒の空き家を活用し、10の事業を展開しています。

もともと濱野さんは作業療法士を志す大学生でした、それが大学1年次3月東日本大震災で大きく動き出しました。高齢者の生活支援事業から始まり、いまではさまざまな事業を展開しています。

そんな濱野さんの本からの抜粋を
~~~
「生活のお手伝いをする」という「手段」を用いて、人とのつながりが希薄な高齢者の生活に「つながり」と「会話」をつくる。それが僕たちの生活支援事業です。

地域サロンの運営で大切なのは、「役割をつくる」です。お茶飲み場が居場所になるわけではないんです。人にとって居場所とは「役割」です。

介護予防=運動+役割なんです。
~~~

なるほどな~。役割をつくること。
畑をやり続けるっていうのもある意味「役割」だよなあと。
つづいて「関係人口の増やし方」

~~~
関係人口の増やし方は主に2つです。
1つめ「相談」のくせをつけること。2つ目「発信」。
課題解決の力と「人を巻き込む力」の両方が必要です。

他人に対しては結果を求めなくていいけど、何かを変えたければ、自分に対しては結果主義になること。
「結果」とは、テレビに出ることやSNSのフォロワーが増えることではなく「誰が幸せになったのか」です。

「人を幸せにした事実や想い」が「発信されて」生まれるものが「信用」だと思っています

どんな人が来たのか、どんなことで困っていたのか、自分たちの活動の結果、どう喜んでくれたのか。それを発信してください。

それを第三者がみて初めて「へー。いいことしてんじゃん」となるわけです。

目の前の人を喜ばせることが、何より大切です。順番で言えば間違いなく、1番は「人を幸せにした事実を積み重ねる」ことです。だけど、これからの時代、それとセットで「発信して信用を貯める」ことも大切なんです。
~~~

まさに、まさに。「発信」することは大切で、さらに「発信」すべきは、活動そのものではなく、「その活動によって誰がどのように幸せになったのか」ということなのです。

いや、まさに本質
さらに、濱野さんたちがひたすらやってきたこと

~~~
・目の前のニーズを拾う。それが自分たちのもつ性質と合っているかを確認してできそうならやる。
・やるときはなるべく多くの人を巻き込む、つくる段階から巻き込む
・壁にぶつかって凹む
・とにかく相談する
・その活動で誰が喜ぶかを明確化して、発信する。
~~~

いいですね。シンプル。
つづいて、関わりやすさを示す「余白力」について

~~~
チーム運営において、もっとも大切なことは「メンバーのもっている強みを最大限に活かすこと」だと考えています。そのためにリーダーは「不完全」でいたほうがいいと考えています。

「意図的」に、自分の弱みをそのまま開放することで、「自然に発生する」余白。そこに人が集まる。

他者が入る余白があれば、一時的に混乱しても、リーダーである人の想像を超えた形で、チームは進化していきます。この「想像を超えた」もポイントです。予測できない変化(進化)が起きるチームです。
~~~

いいですね。
リーダー像。

さらに、この本のハイライトはP200からの若者の巻き込み方。
これは、授業の設計においてもまったくその通りなので、写経します。

1 活動の「体験価値」を高める
2 余白をつくる
3 存在を受け入れる(名前を呼ぶ、個人の物語を捉える・強みを見つけて言語化するなど)
4 信じる。活動に来ている時点で、もう最強。信じる。任せる。
5 放置する。失敗できる環境こそが価値。間違っていても正さない。失敗してもらう。常に、付かず離れずの距離で見ている。失敗して自分で気づき、学ぶ。その過程を見守る。相談には乗る。
6 本人の変化を本人より先に捉えて、言語化して手渡す。
7 参加者(学生)よりも自分が楽しむ。
8 活動の社会的意味を伝える。なぜ、その活動がなければいけないのか。それに対してどんな解決策を提示しているのか。
9 環境のせいにする時は声をかける(気づけるような問いを投げる)。自分で気づけないスパイラルに入っているのであれば、嫌われてもいいからそれを伝える。
10 10個もなかった。だめなところを見せる。2と被った
~~~

10。笑
すごいなあ、濱野さん。
文章からにじみ出る人間性。
そして、その前に書いてあることになるのですが、僕の研究領域であるアイデンティティ問題についての言及メモ

~~~
家族以外にも「自分の存在を心配してくれる人がいる」という感覚が、そういう日々の声かけで、潜在意識の中に刷り込まれていくのではないでしょうか。その小さな積み重ねで「自分はここにいていいんだ」と、言語化できない、心の深いところで感じていくのだと思うんです。

誰かに心配されているとか、気にかけられている、みたいな体験の積み重ねが、数年後の自分自身への「自信」につながるのではないかと考えているのです。

彼が変わったわけではなく、「もともとできる」ことが、いろいろなものに抑圧されて、それを「発揮できなくなって」いたんです。

それが、世代を超えた交流で認められたり、受け入れられたりして、徐々に発揮できるようになっただけなんです。自分らしさが戻ったんですね。この場合もえんがおがやったのは、もともと素敵な彼を受け入れて信じることだけでした。

今も昔も、「今時のワカモノ」自体は変わっていなくて、みんな超ステキですよ。優しいんです。彼らを取り巻き育てる「環境」が変わっているんですね。そうして自分を「発揮」しにくくなっているのだと思います。
~~~

いや、ホント、その通りだなあと思います。
「存在の承認」という出発点をどうデザインするか。
そこに若者との活動はかかっていると僕も思います。

介護予防は、運動+居場所(役割)だと濱野さんは言う。
その「役割」を感じられなくなった。

若者は本当は若いだけで価値があるのだ。
価値があるから、声をかけてくれるのだ。
話をするだけで元気もらえるからね。

「仕事でアイデンティティを形成せよ」とキャリア教育は言う。
でも、それができる人は一部の優秀な人だ。
その優秀な人だって、「経済社会」というフィクションの中における「役割」を果たしているに過ぎない。

「自分とは何か?」
その問いに応えてくれる活動を必要としている。
それは「生きる」に直結しているから。

それは若者であっても高齢者であっても私たちオジサンにとっても同じだ。

自分は、どんな共同体で、どんな役割を果たせるだろうか。どんな役を演じられるだろうか。

そんな根源的な問いを皆、かかえていて、
一般社団法人えんがおと濱野さんは、その問いに応え続けているのだと強く思った。  

Posted by ニシダタクジ at 10:07Comments(0)学び日記

2024年03月23日

演劇のような本屋、劇団のような会社、劇場のようなまち


『ともに生きるための演劇』(平田オリザ NHK出版 学びのきほん)

ひさしぶりのオリザ節にシビれていました。
まずはひたすらメモを

~~~
「ある共同体に強い運命が降りかかったとき、共同体の一人ひとりから価値観の表出が始まる。そこに対話が生まれ、ドラマが生まれる」

私たちは、相手によってさまざまな態度をとり、「演じ分ける」ことができるのです。相手や場面によって、そして自分の社会的役割によって演じ分けることが、人間を人間たらしめる重要な能力なのです。人間にとって、身振り手振りや言葉によって人に何かを伝えること、演じ分けることは、共同体での生活を円滑にするためのごく自然の発達であり、これが芸術や演劇の萌芽だと私は考えています。

「演劇」は、「哲学」だけではすり合わせることのできない、異なる「感性」のすり合わせだと私は考えています。

イギリスが植民地を失っていく過程でイギリスの地方都市が急速に多国籍化し、人口の二、三割が外国から来た人にらなりました。そのため、他文化への理解や多様性理解が急速に必要となったのです。富国強兵、臥薪嘗胆、戦後復興、高度経済成長などの国家目標が掲げられ、その目標に向かって生きていけば、たいていの人が幸せになれると信じていた時代、そのような社会では、異なる価値観を理解することも、そのために必要な対話の言葉も必要ありませんでした。
~~~

まずは演劇とは何か?
人間を人間たらしめているもの、それは「演じ分ける」ことだとオリザさんは言います。
そして演劇とは、感性をすり合わせることなのだと説明します。
そしてまた「1つの目標に向かって皆が生きていける時代・社会」では、それは不要だったのだと説明します。

先日の只見高校の
「この授業を通して、自分が、只見町が、世の中が、〇〇になったらうれしい」
という問いは、まさに感性、あるいはベクトル感のチューニングだったのだろうと思います。

次に面白かったのは「かわいい」について

~~~
日本語には、対等なほめ言葉が少ないとよく言われます。日本語には、ほめ言葉にも上下の関係がどうしても入り込んでくる。たとえば、上司から部下への「よくやった」「がんばったな」、親から子への「いい子だね」「上手だね」という声かけには評価の成分が含まれています逆に部下から上司に対しては、「すごいですね」「さすがですね」など過度に持ち上げるようなほめ言葉が多い。

そこに汎用性のあるほめ言葉として登場したのが「かわいい」でした。中年のおじさんたちは、「今の若い子はなんでも『かわいい』で済ませる」とよく言っていましたが、ボキャブラリーが少ないのは、私たちおじさんのほうなのです。対等なほめ言葉がない日本語の欠落を、「かわいい」はずいぶん補ってきたことになります。このように、対等な関係性で使える言葉を、私たちはこれからも作っていかなければなりません。

長年硬直していたジェンダーや職場における関係性がいま、動き始めているのに、そこに言葉が追いついていないという状況があちこちで生まれています。これから私たちは、対等な関係を作りながら、対話の言葉を作っていかなければなりません。
~~~

若い人が言う、「かわいい」は、フラットなほめ言葉として、他の言葉が適切でないから、使われている、とオリザさんは言います。
なるほどな、と。

フラットなコミュニケーションを求めているんだよな、って。
直線的な人生を生きていないから。
その場その場で出会った人たちとフラットにつくりたいものがあるからね。

最後に演劇・劇団というチームについて
~~~
実は、演劇に限らず、「共同体の中で最も弱い人をどう活かすか」ということが、全体のパフォーマンスを上げる秘訣なのです。

黒澤明の『七人の侍』でも若くて弱い侍が登場するように、集団のドラマでは必ずその中に弱い人が含まれています。その人が力を発揮できるようにすることがとても重要なのだと、子どもたちは台本を作り、配役を決めながら気づくことができます。

その子の弱さを責めたり、克服させるのではなく、「弱さを活かす方法」を演劇の形式を借りて考えるのです。「この作品をいいものにしよう」という思いを全員が持っているという前提でしか劇団は成り立ちません。「俺はこんなに働いているのに、なんであいつはあんなにサボってるんだ」という疑念を誰かひとりでも抱き始めたら、劇団は崩壊します。

一つの作品に向かって、自分も、相手も、できる範囲の最大限の努力を払っているという合意がないと、演劇はできない。そのような前提は、本来、社会のどんな共同体にも必要です。「誰もが最適の努力をして今を生きている」という前提に立てば、エンパシー、想像力は生まれてくるはずです。

こうしたエンパシーを持ち、社会にも広めてゆくには、できるだけ多くの他者、異なる価値観を持つ他者と出会う体験を繰り返すことが必要です。そして、異なる他者と出会うことで、何か新しいことを生み出す喜びを繰り返し経験することです。その光明は、地方にあり、演劇にあると私は考えています。

「どんな人を育てたいですか?」と訊かれて「楽しく共同体を作れる人」と答えました。ここにどんなに多様な価値観が集まったとしても、それぞれの価値観を認めあいながら、対話をあきらめず、問題を解決して、楽しく共同体を作っていける自立した一人ひとりを育てたい。
~~~

「共同体の中で最も弱い人をどう活かすか」
「一つの作品に向かって、自分も、相手も、できる範囲の最大限の努力を払っているという合意がないと、演劇はできない。」
「異なる他者と出会うことで、何か新しいことを生み出す喜びを繰り返し経験することです。」
「楽しく共同体を作れる人」
いやあ、どれも金言すぎます。

しかもその光明が地方にあり、演劇にあるというのです。

まさに、地方の田舎町にこそ、「どんなに多様な価値観が集まったとしても、それぞれの価値観を認めあいながら、対話をあきらめず、問題を解決していく、楽しく共同体を作っていける自立した一人ひとり」になる機会がたくさん詰まってますもんね。それは「地域みらい留学」でも同じかも。

2014年1月、ツルハシブックスとは何なのか?を考えていた時、秋田のスターバックスで降りてきた「It's a theater」(劇場だ!)という言葉。心の中で叫んでいた。

あの言葉をふたたび思い出す。

僕がこの場所で実現したいのは、

演劇のような本屋
劇団のような会社
劇場のようなまち

なのかもしれない。  

Posted by ニシダタクジ at 08:10Comments(0)学び日記

2024年03月20日

「課題から出発する」のではなく「場」から生まれる「直感」と「個性」から出発する

will(やりたいこと)
can(できること)
need(求められていること)
この3つの円が重なるところにプロジェクト(仕事)をつくるとうまくいく。

とよく言われる、ことに対しての違和感。
(いや、僕もそうやって高校生に説明しちゃってますが、、、)
それは3月15日の只見高校の授業を通して、少し見えてきた。

「WHYからはじめよ」とサイモン・シネックは言った。
参考:アイデアが生まれる場所(20.3.2)
http://hero.niiblo.jp/e490381.html

今回の
「この授業を通して、自分が、只見町が、世の中が、〇〇になったらいい」
という作文を書き出し、それをシェアすること。

それはまさに、個人個人のWHYを聞き出すことになる。
WHYとは、「どこからきて、どこへいくのか」だ。
探究の授業で言えば、チームに入った想いと描いている未来、だ。
それに向かうためのコンテンツを出していくこと。(ブレスト)

そこで注意しなければいけないのは、すぐに整理・分析をはじめない、ということ。
せっかく頭の中に考えているものが付箋によって出てきているのだから、
まずは3分間(1分間でもいいけど)それを眺めてみること。

そうすると、自分が言ったもの以外の「それ、いいな」が見えてくる。
まずはそれをシェアすること。

そこで出てきたものは「直感」だ。
「やりたいこと」とはまたちょっと違う、「なんかイイね」だ。

willとは「やりたいこと」=意志ではなく、直感なのではないか。
そのベースで行くと、
canはできること=能力・役割ではなく、個性なのではないか。

needとwillとcanは円の中央という固定的なものではなく、常に動き続けていて、その3者も相互作用している。つまり、動的平衡。

その動的平衡が回っている状態で、そのプロジェクトのWHYが見つかる。
近代社会に適応するための人材育成を目指した近代教育は、「課題」に適応しすぎた。
「課題解決」の手段としての個人、手段としてのビジョン・目標になってしまった。
そしてその方が、「見えやすい=計測可能」だから、採用され続けた。

「課題(求められていること)」を出発点にして「できること=能力・役割」「やりたいこと=意志」を決めている。

それって、「あなた」じゃなくても、「あなたたち」じゃなくてもいいですよね。
だって、課題を解決することが大事なのだったら、もっと時間とお金と大人の力を投入してやったら、解決はやくないですか?

え?解決しない?だから課題なんだって?

そんな解決しないプロジェクトを教育と称して高校生にやらせているんですか?
そんなリスペクトの無い話ありますか、って。

「課題」ではなく、「場」を出発点にする。
地域の人と、高校生と、計5人(4人・6人もありますが)でつくる「場」。

場を主語にする。
1 構成員の想いを確認する。(どこからきて、どこへいくのか)
2 このプロジェクトを通して、自分が、町が、世の中が、〇〇になったらいい
3 2を実現するためにやってみたいことのブレスト(数を出して乗っかる)
4 3で出たことの中で、自分が書いてない「それイイね!」付せんを選択し、発表
  (できればこの付せんに関連するリサーチをひとつやってみる)

「場」によって、will=できたらいいね(直感)が生まれる。
他者との相互作用によってcan(個性)が見えてくる。

それを出発点にプロジェクトを作れないだろうか。

プロジェクトを進めていく中で、チームメイトやお客さんと対話を繰り返していく中で、「もしかしたらこのプロジェクトは、こんな課題を解決できるかもしれない」と思えることが出てきて、結果として課題を解決していた、ということが起こりうるかもしれない。

そんな風に、高校生に「価値創造アプローチ」について、説明していっていいのではないか、と思っている。

山口周さんは「市場は経済合理性限界曲線の内側の問題しか解決できない」と言う。

問題の難易度と普遍性のマトリクスにおいて、難易度が低く、普遍性が高いジャンルの課題は、概ね解決されてしまった。したがって、「課題解決」というパラダイムで価値(経済的価値)を生むことの難易度は非常に高くなっている。

参考:#043 なぜ市場原理だけではダメなのか?
https://note.com/shu_yamaguchi/n/nd295fd60fba0

世の中には「課題解決」じゃないアプローチもあるんだと伝えたい。そしてそのアプローチには、「場」によって現れてくるひとりひとりの「個性」と「直感」が必要なのだ、と実感できるようなプロジェクトになったらいいと思う。

自分がこのチームにいたからこそ生まれた企画・プロジェクトを今やっているのだ。
と感じられるような授業時間になったらいいな。

「課題を解決する」ために個人は何ができるか?
ではなく
「課題が解決している状態」を「創造」するために、場は、チームは、何ができるのだろうか?  

Posted by ニシダタクジ at 08:38Comments(0)学び日記

2024年03月17日

地域と伴奏する探究学習

福島県立只見高等学校「総合的な探究の時間」。令和3年に黎明学舎の丹羽さんが移籍してコーディネーターとなり、一緒に進めてきた授業。3月15日5・6限に2年次に行うプロジェクト顔合わせと、その後、令和6年度授業に向けた地域と教員の打ち合わせが行われました。

なんか、空気違うな、と。
先生方も、地域の方々も前のめりだ。

伏線があった。授業が始まる前の地域協力者キックオフ(打ち合わせ)で、新國農園の新國さんが言った。「具体的になにをするか?よりも、自分たちがなぜこの授業に関わって、どんな未来を描いているのか?を話したほうがいいんじゃないの?」

昨年度のキックオフは、1時間しか授業がなかったので、自己紹介⇒アイデア出し⇒年間計画づくりとあわただしくなってしまった反省もあり、今年はじっくりを時間をかけることにした。

1 授業の概要説明:個人⇒場(プロジェクト)、発見と変容、伴奏者としての地域の大人、
2 4マス自己紹介(名前・出身・私の好きな〇〇・只見町の〇〇がすごい)
  ⇒熱血自己紹介(郡山駅に降り立った人が行く場所決めていない時にプレゼンするとしたら)
3 この授業(プロジェクト)を通して、私が、只見町が、世の中が、〇〇になったらいい
4 3を実現するためにできること、アイデア30個出してみる(ブレスト)
(休み時間)
5 アイデアの中で、他人が言ったことで、あ、それいいな、と思ったものはどれか?印をつける
6 5を軸にして、年間計画に落とし込んでいく
7 春休みリサーチシートの記入
8 連絡先交換

こんな流れ。なかなかよかったなと。

想いの確認。WHYから始めよ。まさにそんな感じ。地域の人だけじゃなく、生徒も個人としての想いを語り、それをベースにアイデア出しをする。その「想い」には正解がないから。ひとりひとりに思いがある。これ、学期ごとにやってもいいなと思う。

春休みのリサーチは、その個人の想いや、5の他人が言ったアイデアでそれいいなって思ったものをリサーチしてみるのもいいのかもしれない。

感性が先にくるプロジェクト。それって、いわゆる「課題解決」とは違うアプローチなのだろうなと思った。

https://goodpatch.com/blog/product-value-solve-problem

検索すると、こんなページが。
課題解決型:ユーザーが認識し、顕在化している課題(Needs)を解決するためのアプローチ
価値提案型:ユーザーがまだ認識していない、顕在化する前の課題(Seeds)に対して、新たな価値や価値観を提案し、欲しいと思えるモノやコト(Wants)に変えるアプローチ

こちらも
https://www.daisuketsutsumi.com/entry/two-ways-of-NPO-strategic-thinking

課題解決型:
課題解決型とは字の通りですが「社会に存在する課題を解決する」ことを目的としたマイナスの状態を±0の状態に近づけることを目指す活動
価値創造型:
価値創造型とは、「社会に対して新しい価値を創造し、提供する活動」です。±0の状態から5にも10にも増やす活動
こちらに掲載されている表で見ると結構わかりやすい。

高校生が実行するプロジェクト文脈に落としていけば、
課題解決型:世の中に顕在化している課題に解決する。ex.防災の意識を高めるには?、子育てママを支援するには?
価値提案(創造)型:自分がやりたい、こんな町にしたい、から発想し、ひとまずやってみてから(それが結果的に課題を解決しているかどうか)検証する。

という風に分けてみると、商品開発とかPRのプロジェクトっていうのは、価値提案(創造)アプローチになっていくよなあと。

山口周さんが「ビジネスの未来」で言っていたけど
http://hero.niiblo.jp/e491394.html
参考:「自分」という共有財産(21.1.31)

上記ブログから引用
~~~
「問題の普遍性」と「問題の難易度」のマトリックスです。

問題の普遍性が高く、問題の難易度が低い領域には、多くの人が悩んでいる問題で、かつ、投資する資源は少なくて済むので、多くの企業はそこに参入します。松下電器が電化製品をつくり、トヨタが自動車を生産したわけです。

「課題を解決すること」がビジネスの本質であるとすると、困ったことに、問題(課題)はだんだんと解消されていきます。多くの家庭に洗濯機、冷蔵庫、テレビ、自家用車・・・が行き渡ってしまいました。それを解決したのが「地理的拡大」でした。アメリカに売り、ヨーロッパに売り、そしてアジア諸国に売ったわけです。
(中略)
したがって、企業が採用する選択肢は2つ。「普遍性が高いが、難易度の高い問題」へのアプローチか、「普遍性は低いが、難易度の低い問題」へのアプローチとなります。
~~~
「課題解決」というのが(大)企業だとしてもとても難しいアプローチなのだということがわかります。

だから、高校生のプロジェクトにおいて「課題解決」を前提として設計するのがナンセンスなことがわかります。

1 市役所にヒアリングして、課題を聞き
2 現場の人にインタビューして課題の現場を見て
3 自分なりに考えた解決策を提案する

で終わり。みたいなことをプロジェクト活動といって大学生になってもやっている新聞記事をいまだに見かけますけど、そこにどんな意味やスキルの向上があるのでしょうか。
せめて、4 自分でやってみる 5 ふりかえり 6 再設計があればいいのですけど。

それにしても、やっぱり世の中は「課題解決」という宗教に乗っ取られてしまっているように思います。山口さんのいうように、課題解決という手法では、よっぽどの大企業が「普遍性が高いが難易度の高い」課題(難しい疾病の治療など、莫大な投資が必要)もしくは中小企業が「普遍性は低いが難易度の低い」課題(いわゆるニッチな市場向けの課題解決商品・サービス開発)にいくしかないのです。

それかもしくは冒頭に説明した「価値創造(提案)」のアプローチと言うことになります。
高校生のときに、この実感をしていくことって大切なのではないかと思います。

自分(can)と社会(need)と未来(will)の真ん中にプロジェクトをつくっていくとうまくいく、と言われますけど、その3つの順番は、どこからでもいいのだと思いました。

なんとなくいいなと思った(will)から始めてもいいのです。
必ずしも社会課題(need)から始める必要ないのです。
やりながら自分(can)を発見し、変容していっていいのです。

あれは真ん中につくるのじゃなくて、三角形の「動的平衡」が機能しているときに、プロジェクトがうまくいく(変化し続ける)のだろうと思いました。

春休みリサーチにおいても、もしかしたらプロジェクトそのものも、「価値創造(提案)」アプローチっていうのがあってもいいのかなと思いました。個人の性格にもよると思いますけど。

授業後、令和6年度の打ち合わせを教員と地域の人で行った。熱量が過去最高に大きかったように思った。

その要因を振り返れば、コーディネーターの丹羽さんが夏に去り、自分たちでプロジェクトを回さなければいけなくなったこと。その中で「こういうときどうしたらいいんだろう?」ということや、他チームの状況が気になったこと。次年度に向けてどうやったらいいか?ということについて考えたこと。

教員サイドとしては、総探をやってきて、生徒が成長していることが実感できていること。いわゆる「手応え」が感じられてきていること。
1 アンケート調査での自己評価の伸びが数字として出たこと
2 最新の入試での総合型、学校推薦選抜の結果がある程度出たこと
3 学校長をはじめ管理職が「総探」に力を入れていくことを明言していること

地域サイドとしては
1 自分が担当している仕事に関連したプロジェクトであること
2 授業で、自分たちがなぜやっているのか?を語る機会があったこと
3 総探のプロジェクトが町のためにもなっていることが実感できていること

そんな要因から、50分の会議が終わっても、なかなか席を立たないアツい会議となった。
ようやくスタートラインに立った。
そんな実感があった。

令和6年度の発表会は学校を飛び出し、町の施設(公民館等)で公開で行うことになりそうです。
僕の役割はだんだんと少なくなっていきますが、引きつづきよろしくお願いします。

「地域と伴奏する探究学習」、始まります。  

Posted by ニシダタクジ at 08:24Comments(0)学び日記