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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2024年06月28日

あなたにしかできない貢献は?


『東大よりも世界に近い学校』(日野田直彦 TAC出版)

いつだったか、御徒町駅近くの夜学バーに行ったときに、日野田先生の箕面高校時代の教え子がいまして、そこから気になっていたので、ようやく読めました。

まずは、日本の学校の初期の頃のデザインについて
~~~
権力者や会社の上司など、上に立つ人の方針や考えをふまえて行動する人、もっといえば、「上」の意向をくみ取り、忖度できる人が必要でした。そのような人間を育てるために学校はデザインされています。国語の入試問題で「著者の意見」を問うのはそのためです。上の人の意見を理解できる人間を育てるためです。入試問題に強くなるには、出題者の著者の意見だけでなく、「出題者の意図」を察することが必要です。
~~~

そして、さらに就職について
~~~
ご両親が知っているような会社は、極端に言えば、いまがピークです。いずれピークアウトする可能性が高いのです。かつて製鉄業や重工業などの花形産業と言われていた企業がその後どうなったかを考えるとわかるのではないでしょうか。

みなさんは従順な犬ではなく自立心の強いネコや、どこでも生きていけるオオカミやライオンのような人間に成長しなくてはいけません。これからの社会や企業が、そのような人材を求めるようになるからです。
~~~
と説明します。
もっともですね。

海外では求められる人材について、このように説明します。(P51)
~~~
・オーナーシップを持ち
・オープンマインドで接し、
・グロース・マインドセットをもって試行し
・他者への貢献ができる人材
~~~
そのために学校は
・アカデミックスキル重視
・自由度、主体性、多様性が高い
・パーパスに気づく
ことをプログラムする必要があります。

2章と3章は、日野田先生の実践と、これまでの経歴がアツく書いてありまして、読んでもらえれば背景がじわっときます。
そして第4章「ミライの勇者へ」という熱いメッセージが。

ナレッジ=鎧 スキル=盾 マインドセット=剣
世界から問われている3つのC
「チャレンジ」「チェンジ」「コントリビュート」

そして、この本のハイライトは
P169からの「Who are you?」です

~~~
Who are you?
海外に行くと、必ずといってよいほど、そうきかれます。
What's your story?(あなたの物語は?)
What's the Contribution that only you can make?(あなたにしかできない貢献は?)
How do you see The World(あなたにはこの世界はどう見えている?)
~~~

「あんただれやねん?」と聞かれているのです。
Who are you?は、名前を聞いているのではありません。
職業を聞いているのでもない。
もっと本質的な質問です。
世界観といってもよいかもしれません。
~~~
How would you like to be remenbered?
「君はどのような人として記憶されたいか?」

なるほど、と。
そんな本を移動中に読んでいて、向かったのが、
「地域・教育魅力化プラットフォーム活動報告会2024~地方から教育を変える~」でした。





~~~以下イベントメモ
【尾田専務理事・活動報告】
・2024年度に地域みらい留学で移住した高校1年生は、3199名。2024年度は35道県144校が参画している。
・「地域・教育魅力化プラットフォーム」のビジョンは、「意志ある若者にあふれる持続可能な社会をつくる」こと。そのために「地域みらい留学事業」および「コーディネーター育成事業」を推進していく。
・「地域みらい留学」のテーマは「やりたいこと」と「自分らしさ」を見つける。
・高校時代=地域で育まれる最後の3年間
・アンケート結果によれば、地元の子を含めて意志ある若者が生まれつつある。

【卒業生トークセッション】
・地域みらい留学は育った場所と違うところでスタートするので「ありたい自分でスタートできる」
・大学(慶応大学SFC)の同級生は敷かれたレールをただ進んでいる人もいるが、自分は地方(島根県立津和野高校)で高校時代を送ったことで選択肢が多くなり、就職に迷っている。
・中学生へのメッセージは、「自分で決める」ことが大事

【岩本代表理事・みらい留学のみらい】
・キーワードは「越境」:「東京から地方へ3年間」という地域みらい留学の枠を超える。地方⇒地方、2泊3日の「みらたび」等の推進
・「地域」「学校」の枠を超えて、海外にいる日本人や日系二世を含めて、地方の高校に行くようなムーブメントを作れないか?
・海外で日本語教師として活躍している日本人・外国人は「グローカル・コーディネーター」として地方の高校に配置できないか。
・生まれた環境は選べないが、学ぶ環境は誰もが選べる時代を

【ゲストトークセッション】
・大空高校のテーマは「越境」と「探究」具体的には海外留学を進めている。(町からの補助40万。定員4名に対して応募7名。落ちた子は自費で行くなどが起こっている。
・大空高校は国内短期留学も取り組んでいる。地元出身の子も化学反応により、外に積極的に出ていくようになった。
・「みらたび(2泊3日の他地域高校みらい留学体験)」も積極的に取り組んでいる。
・大人世代の「リアルで出会った人とオンラインでつながる」のではなく高校生はネットで出会って、リアルで会いに行く、という流れが生まれている。
・地域みらい留学生のさらなる「留学」、「留学」×「留学」が起こっているのではないか。

【感想】
・144校の中でどのように個性を出して阿賀黎明高校を選んでもらうか、についてさらにメッセージを磨く必要がある。
・海外・国内を問わず、地域みらい留学生や地元の子が他国・他地域へと越境する「留学」×「留学」に取り組むのは魅力のアップにつながるのでは。
・高校時代の海外/国内の(短期)留学に町の補助等も検討していく必要がある。
・国内留学のプラットフォームとして「みらたび」について調べ、参加・参画を検討したい。
参考:みらたび https://miratabi.jp/

まさにこの感想の一番上。
中学生にどうやって阿賀黎明高校を選んでもらうか?
それには究極、かかわる大人たちひとりひとりが、
「Who are you?~あんただれやねん?」に答えられることだし、

この3年間で、ともにそれを探し、見つけ、磨き、創っていこうぜっていうメッセージを発することなのだろうな、と。  

Posted by ニシダタクジ at 17:29Comments(0)学び日記

2024年06月06日

技術ではなくセンスを磨く「修行」

痛快。
爆笑。
久しぶりにこういう本読んだなあ。


『「仕事ができる」とはどういうことか?』(楠木建 山口周 宝島社)
某大手古本チェーンで購入。

楠木さんの『ストーリーとしての競争戦略 ―優れた戦略の条件』(楠木健 東洋経済新報社)
http://hero.niiblo.jp/e486575.html
参考:もし、このプロジェクトが「アートプロジェクト」だとしたら(17.12.22)
のエッセンスも詰まっていてうなる本です。

山口さんの
『世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか?』
http://hero.niiblo.jp/e486473.html
参考:「正しい手」よりも「美しい手」を指す(17.12.7)

『劣化するオッサン社会の処方箋~なぜ一流は三流に牛耳られるのか?』(山口周 光文社新書)
http://hero.niiblo.jp/e489486.html
参考:なぜ、「教養」は死んだのか?(19.6.26)

と合わせて、
「50代オッサン上司の言ってること意味わかんないなあ」と嘆く20代におススメの本です。(笑)

キーワードは「シークエンス(sequence):(物事の)連続,一連;(映画などの)一続きの場面、順序、配列」

「コラボレーションでシナジーを」みたいに言うオッサンに対して、手厳しい。

~~~ここから引用
成果に至るシークエンスを経営者が描いていて、そのシークエンスを構成するピースに欠けている要素がある。その欠けている要素が自社だけで用意できないから提携やら合併やらによって埋め合わせる。それを総称して「シナジー」ということになるわけですが、やたらと「シナジー」と叫んでいるだけの人は、そのシークエンスが描けていないんでしょうね

成功者が「ほかの人間とは景色が違って見えている」というのは、その人の独自のフィルターを通したときに、同じものが「違って見える」ということ。ここでフィルターに相当するのが、その人が持っているストーリーなんだと思うんです。

自分なりのストーリー上に位置づけることで、個別の要素が独自の意味を持ち始めるということ。戦略は全部「特殊解」であって、すべてが文脈に依存していて一般的な解はないですからね。

逆に言えば、論理を積み重ねていきついた解が他者と同じであれば、それは論理的に正しくても最適解ではない、ということですよね。
~~~

いやあ、その通りすぎる。
「戦略」とは「経営」とは何か、考えさせられる。


さらに「なんとか3.0」おじさん、「これからはサブスクだ!」おじさん、「GAFAはこうやってる」おじさんに対しても手厳しい。

~~~
「3.0とおっしゃいますが、だとしたら2.0ってなんだったんですか。3.0との本質的な違いはどこにあるんですか?いずれは4.0もあるんですね。」と問い詰めると、「いや、『気持ち3.0』なんだ」と。

アドビはサブスク以前に「photoshop」を売りまくっていて、条件がそろっていたからこそ、サブスクに舵を切ったのです。

GAFAはメガプラットフォームだからスゴイんだ、という話。GAFAは戦略も収益構造も、まるでちがう会社だということがすぐわかる。でも、そういう中身には立ち入らず、とりあえずの結論が「これからはプラットフォーマーの時代だ」。実に空疎です。イオンもウォルマートもセブンイレブンもプラットフォーマーと言えばプラットフォーマーですからね。JR東日本もそう。あれだけプラットフォームを持っている会社はほかにない。

「まさにプラットフォーマーです。(笑)」
「東京駅の1日の乗車人数だけで約47万人ですよ」
「現物のプラットフォームを持っている」
~~~
ここで爆笑してしまった僕もオッサンなのかもしれないですが。。。泣

本書では一貫して、仕事ができる人にはスキルではなくてセンスがある
じゃあ、そのセンスはどう磨かれるのか?という話が続いていきます。

ここでひとつ紹介したいのがセンスを磨くのは昔から「修行」だっていうこと
ここで「修業」と「修行」の違いについて。

「修業」とは,一定の業を習い修めることで,自分の利益のために業を習い修める事であるのに対して,「修行」とは何物も求めず利害得失を離れて,悟りを開いた人々の道を行ずる事です.武道修行の究極は人間形成です.著者は,武道の修行において,健康で徳を身につけ,品位と品格を備えることを常に最終目標としております.(文武不岐(ぶんぶふき) : 修業と修行遠藤 守 バイオフィードバック学会)

~~~
『弓と禅』(オイゲン・ヘリゲル著)

ヘリゲルは、禅に興味があって、禅を学びたいと東北大学の教授になったとき「禅を勉強するんだったら弓をやったらいい」と言われたので当時の弓の世界の第一人者「弓聖」と言われていた阿波研造に弟子入りした。

そこで弓を持たせてもらえないところから「修行」することになる。やっと弓を的に向かって打たせてもらうときになって、「的に当てようとして撃っちゃいけない」と言われる。「あなたが的に当てようとしなくても、的にあたるように勝手に矢が出ていくから、矢にいかせなさい」というのを聞いて、ヘリゲルは爆発して、「先生は目隠しをしても当てられるんでしょうね」と言う。

そして、暗やみの中で・・・

ヘリゲルはヨーロッパに帰ってから、こう書いた
「西洋的な近代合理主義の考え方とまったく違う、まず効果が特定されない、トレーニングと成果の関係が説明されない、何かできるようになったときにはもうそれ以前に戻れないという、そういう世界がある」
~~~

まさにこれが「修行」の意味なのだろうな。
ゴールを設定してロジックで積み上げていくのではなく、センスを磨いていくこと。

「石の上にも三年」っていうのは、修業ではなく修行のことだったのだろうと思う。
スキルだけなら、Youtubeを見ながら実践した方が早いのだろうけど、センスを磨くにはまた違った方法が必要なのだろうと。  

Posted by ニシダタクジ at 08:01Comments(0)学び日記

2024年06月04日

「正しさ」という暴力


『インフォーマル・パブリック・ライフ』(飯田美樹 ミラツク)

第二部まで読み終わりました。
第四章から第六章のイギリス郊外の誕生の話は、
歴史的背景が詳しく書かれていてドキドキします。

以下メモ
~~~
十九世紀の産業革命が進むにつれ、分離・役割分担は拍車をかけて進んでいった。分離したのは大抵の場合、力があり、そこから離れることにした側が嫌悪感をもっていたからである。

ロンドンは産業革命が進むにつれて田舎や外国から都市へと流れ来る人の数は日増しに多くなり、人口増加に伴う問題も手がつけられなくなっていく。賭博、強盗、売春も日常茶飯事となった。そんなロンドンの様子に嫌気が差したロンドンのブルジョワたちは、郊外の住宅に理想のイメージを抱くようになっていく。

郊外の一軒家で利発な子どもたちに囲まれて、優雅にお茶を楽しみ、精神的に豊かな暮らしを送る。それがイギリスのブルジョワたちが描いた夢だった。
~~~

分離・分断の端緒はここにあったと著者は説明する。そして、フランスでも郊外は開発されたが、カトリック色の強いフランスにおいては、ブルジョワたちは都市の楽しみを諦めることができなかった。

カギを握るのは「福音主義」と「プロテスタンティズム」である。

~~~
中世のカトリック教会は、人間の性質はアダムの罪によって堕落したが、もともと善を求めており、また人間の意志は善を求める自由をもっている、というような人間の尊厳や人間の意志の自由やまた人間の努力が有効であることを強調した。

カトリックにおける神は、イエス・キリストのように分け隔てなく人々を愛し赦してくれる、あたたかい存在だった。罪を犯しても赦してもらえるからこそ、告解という仕組みや、ルターが非難した免罪符が誕生したともいえるだろう。

また、カトリックにおいて聖書だけでなく教会とそこで執り行われる伝統的儀式もかなりの重要性をもっていた。
~~~
腐敗したカトリックに対抗して生まれたプロテスタントは、聖書に記載されていない教会の儀式や伝統などは根拠がないとして否定した。プロテスタントでは、神の言葉が書かれた聖書に直接向き合う信徒という、神と人との一対一の直接的な構図が重要だった。

ここで重要なのは、これまでの「神と人間の間に教会というクッションがある構図」から「絶対的な権力をもつ神と小さな個人」というダイレクトな構図に変わったことである。

マルティン・ルターやジャン・カルヴァンが語る神の姿は、同じキリスト教かと疑いたくなるほどに厳しい、専制君主的な恐ろしさをもっている。

フロムは言う「ルッターはひとびとを教会の権威から解放したが、一方では、ひとびとをさらに専制的な権威に服従させた。すなわち神にである。神はその救済のための本質的条件として、人間の完全な服従と、自我の滅亡とを要求した。」(『自由からの逃走』)

「神のように絶対的な理想と無力な個人」という構図こそが、近代の資本主義社会の発展や二十世紀の郊外に残された人々の魅力感を理解するための鍵になる。
~~~

「宗教改革」っていいことだと思ってました。「改革」だからね。実際はなんて恐ろしいことなのでしょうか。
この前提を知っていることは、現在の社会の構造を理解する上でとても重要なことだと思った。

さらに恐ろしいのはカルヴァンの「予定説」。
「偉大なる神は、ある選ばれた人だけを永遠の生命に予定した。他の人々は永遠の死滅に予定されている。これは人の信仰によるものではなく、変えることのできない運命として神が事前に決定したものである。」というものだ。

フロムは言う
「予定説は個人の無力と無意味の感情を表現し、強めている。人間の意志と努力とが価値がないということを、これだけ強く表現したものはない。人間の運命についての決定権は、人間みずからの手からは完全にうばわれ、この決定を変化させるために、人間のなしうることはなに一つとして存在していない」

「個人がみずからの行為で、その運命を変えることができるというのではなく、努力することができるということそれ自体が、救われた人間に属する一つの証拠なのである。さらにカルヴァニズムが発展すると、道徳的生活とたえまない努力の意味とを強調することが重要になり、とくにそのような努力の結果として、世俗的な成功が救済の一つのしるしであるという考えが重要になってくる」
~~~

あーこわい。
「努力したから成功した=神に選ばれた」がいつのまにか、「成功したのは努力したからで、成功しないのは努力が足りないからだ=神に選ばれていない」に変わってしまった。

それを後押ししたのが「福音主義」であると著者は説く。背景は産業革命によるブルジョワの誕生である。

プロテスタントの教えの通りによく働き、豊かになった者たちを待っていたのは、キリスト教の宗教観にあった「金持ちは天国にいけない」というものだった。信仰心の強い者のなかには、富を築いたことを重荷に感じ、自分を罪深く感じてアイデンティティ・クライシスに陥る者もいた。

これを「事業によって獲得した資金を自分や家族の快楽のためではなく、事業の発展のために再投資するのであれば問題は解決する。それは天職の遂行であり、世界をよりよくすることに一層貢献するため、良心の呵責は生じない。」つまり、事業の成功を収めることは、神に選ばれた証であるという発想の大転換により当時の支配階級や多くのブルジョワたちの指示を得ていったのである。

そんなタイミングで、ロンドン南西部「クラッパム」で「初期郊外」が誕生した。そこに集ったものは「クラッパム派」と呼ばれた福音主義者で、地上に神の国を創ろうと様々な慈善事業やキャンペーンを手がけていた。

福音主義の家庭にとって、最大の敵は都市での玉石混淆の娯楽だった。

真のキリスト教徒として目覚めた両親が神が非難した世界から手を切ったとしても、世界は誘惑に満ちており、子どもたちがその誘惑を避けるのは難しい。誘惑に勝ち、悪い影響を受けないようにする手っ取り早い方法は、誘惑がありそうな場所に行かないことである。

その誘惑を断ち切るためには、物理的に遠く離れた場所に居続けるというのが一番効果的な方法なのだ。郊外に引っ越せば、都市の娯楽とは全く別の穏やかな家庭生活と、自然と調和のとれた美しい生活が手に入る。

ロバート・フィッシュマンは言う。
「都市と福音主義的家庭の理想とのこの矛盾が、郊外の理念となって核となる、都市と市民の住宅の前例のない分離に対する最終的な原動力となった。都市はただゴミゴミし、汚く、不健康なだけではない。都市はモラル違反だったのだ。救済の成功は、家庭という女性の神聖な世界と子どもたちを、大都会という神を冒瀆したような場所から切り離すことにかかっていた」

こうして「郊外」は「都市」から分離された。
そしてそのことにより、郊外に移り住んだブルジョワと、都市に住み続けるしか選択肢がない労働者は大きく分断された。

「郊外」が始まったのが、経済的理由だけでなく宗教的理由が非常に大きかった、いや根本的な原動力はそこにあったのだ、と実感させられた。

そして、それこそが「分離」「分断」の始まりだったのだと。
「(宗教的)正しさ」によって、「郊外」は誕生した。それによってブルジョワと労働者は、ますます分断された。
それをさかのぼると、「宗教改革」(と学校で習った)ことの残酷さが見えてくる。

格差の増大はもちろん、それだけでなく「アイデンティティ・クライシス」についても。

産業革命によって世の中が劇的に変わっていく中で、自らの「存在」の価値を信じられなくなったこと。カトリックからプロテスタントへの大きな流れの中にあったこと。お金持ちになることへの苦悩。スラム街を見て、目の前の格差に心痛めること。

その不安から救ってくれたのが「福音主義」という「正しさ」であった。
ブルジョワは郊外へと引っ越し、家庭を守りながら仕事へと邁進した。

そして何が起こったか。
都市生活から切り離され、たしかに危険なことや誘惑から解放された。
それと同時に何かを失ったのだ。
その「何か」は、ひとりひとりの「アイデンティティ」に関わることだった。

「正しさ」という暴力に、今もなお、僕たちはさらされているのだ、と感じた。  

Posted by ニシダタクジ at 07:36Comments(0)学び日記

2024年06月01日

経験に対する開放性


『インフォーマル・パブリック・ライフ』(飯田美樹 ミラツク)
この本、売りますね。僕から買いたい人はご一報ください。

本日は第2章から
キーワードは「経験に対する開放性」

以下メモ
~~~
『新・クリエイティブ資本論』を著したリチャード・フロリダは、「芸術家や科学者、起業家に見られる高度なクリエイティビティと、新しい経験に対する好奇心旺盛で開放的な性格との間に強い相関関係があることは、多くの文献も明らかにしている」と語る。

経験への開放性とは、自分の属してきた世界の価値観とは異なる新しい経験をしたときに、「そんなんありか!」と肯定的に捉える、または少なくとも否定的に捉えないということである。

メディアを通じて異なる価値観と出会った時、私たちは「それは想像上の世界」「特殊な成功例」としてシャットアウトする傾向がある。一方で自分の意思にかかわらずシャットアウトできないものが、肌感覚での経験だ。目の前で自分の想像を超える出来事が起こったとき、それを五感を通じて全身で知ってしまったとき、それを否定することは体験した自分自身を否定することになってしまう。

自分の属してきた世界の経験と全く異なる世界があると理解したとき、「ありえへん」「許さない」と思う人もいれば、「面白い」「どうしたら私にもできるだろう」と思う人もいる。フロリダの言葉を借りれば、後者がクリエイティブな人間であり、クリエイティブな人は経験に対する開放性を強く求めているのである。

経験に対する開放性が低い場所というのは、同質性を求められ、同調圧力が強く、閉鎖的になる。まさに「出る杭は打たれる」わけで、少しでも違っていたら「ありえへん」という扱いをされてしまう。

経験に対する開放性は、同調圧力を圧力と感じない者にとっては必要ないかもしれないが、同調圧力の中で死にかけている者にとっては生死を分けるほど重要である。

クリエイティブな人間や天才的才能をもった者には、豊富な材料や広いアトリエさえあればよいのではなく、自分のことを理解し、共感し、支え、応援し、切磋琢磨できる人たちと日常的に出会えることが非常に大切である。こうした場所があれば、彼らの才能は伸びていき、単なる夢見がちな若者ではなく、現実に何かを生み出す人となっていくだろう。

こうした場での出会いやカフェでの会話は五感を通じて肌感覚で行うため、情報の伝達スピードや理解の速度がオンラインに比べて大幅に速くなる。また、何気ない会話がヒントとなり、そこから予期せぬ対話やアイデアが生まれていく。これこそが、人が実際に集まり、出会うことの醍醐味である。一+一は五にもなり、凝縮した出会いが継続的に行われるほど、爆発的なスピードが生まれ、現実になっていく。
~~~

「経験に対する開放性」

まさにこのキーワード。
これこそが地方(都市)の移住者受け入れ数を決めているのだと思う。
予測不可能な未来を前提として、そこに開かれていられるかどうか。
それがクリエイティブな若者を受け入れ、彼らのクリエイティビティを発揮できる状態にするポイントなのだろうと思う。

その「場」は、プラットフォームは。地方の小さな家でもつくれるのだろうか?

そんな問いがある。
でも、それをつくってみないことには始まらないな、という気もする。

そうやって未来を拓く方法もあるのでは。  

Posted by ニシダタクジ at 08:33Comments(0)学び日記