2012年10月29日
まち全体がカフェになる
昨日の
「カフェという場のつくり方」に
いくつか反響があった。
喫茶店=カフェがいつの間にか
「コーヒー販売業」に特化され、
ドトールコーヒーのような格安のチェーン店、
あるいは缶コーヒーに取って代わられた。
それが
「あらゆるところで起こった」と
書き込まれたのを見て、まさにそうだと思った。
日本のあらゆるところで、その現象が起こった。
喫茶店に行くのはなぜか?
→コーヒーを飲みに行くため
→400円も出してコーヒー1杯飲むよりも、
200円でサッと飲んで、仕事に戻った方がいいだろう。
もっと行くと
→コーヒーではなくて、カフェインを摂取するため
→200円でわざわざドリップされたのを飲むより、
100円缶コーヒーでカフェインだけ注入すれば、そのほうが効率的だろう。
これだ。
これが世の中の縮図だ。
「効率化」「費用対効果」
これが工業社会、経済至上主義社会の生んだ、絶対の真理だ。
それは、三浦展著「第四の消費」に言葉を借りれば、
数値化できるものに特化したということ。
居心地がいい。とか
ゆったりできる。とか
マスターと話ができる。とか
っていう価値は数値化ができない。
これが、日本のあらゆるところで起こった。
八百屋、魚屋、肉屋、酒屋、金物屋、履物屋で
1軒ずつ買い物に行っていたら、文字通り「日が暮れてしまう」から
仕事帰りにスーパーマーケットへサッと寄って、
夕飯の支度をしてほうが効率的だ。
いや。
もっと効率的なのは、お惣菜を買ってくることだ。
いや、出前をとったほうが、
いや、ホカ弁にしたほうが、
と「効率化」と「費用対効果」の名の下に、過ごしてきた。
そして、商店街は廃れていった。
しかし、人はいつか、かならず、年を取る。
車に乗れなくなる。
そのときに、パソコンをカチカチやって
食品を手にするのか。
商店街に買い物に行くという
コミュニケーションを維持するのか。
これは、個人の生活の質(Quality of life)にとって
どちらがいいのだろうか?
という問いを持たずにひた走ってきた。
そういえば、ツルハシブックスのすぐ近くにある
純喫茶「カポネ」は、午前9時くらいになると、
近所の60歳前後の男性陣が集まっていて、世間話をするのだという。
それこそがカフェじゃないのか。
いや。
商店街というのは、もしかしたら、
巨大なカフェだったのではないか。
大学生がMAPづくりのために取材に行くと、
お茶を出してくれ、話が弾む。
そんな場が、履物屋さんやお菓子屋さんや銭湯で起こっている。
かつて、まちにはカフェがあった。
それは、コーヒーを出す喫茶店だけではなく、
銭湯も、履物屋さんも、酒屋さんも
全てがカフェ的な機能を持ち、営まれていた。
まち全体がカフェになる。
内野のまちなら、それができそうな気がする。
「カフェという場のつくり方」に
いくつか反響があった。
喫茶店=カフェがいつの間にか
「コーヒー販売業」に特化され、
ドトールコーヒーのような格安のチェーン店、
あるいは缶コーヒーに取って代わられた。
それが
「あらゆるところで起こった」と
書き込まれたのを見て、まさにそうだと思った。
日本のあらゆるところで、その現象が起こった。
喫茶店に行くのはなぜか?
→コーヒーを飲みに行くため
→400円も出してコーヒー1杯飲むよりも、
200円でサッと飲んで、仕事に戻った方がいいだろう。
もっと行くと
→コーヒーではなくて、カフェインを摂取するため
→200円でわざわざドリップされたのを飲むより、
100円缶コーヒーでカフェインだけ注入すれば、そのほうが効率的だろう。
これだ。
これが世の中の縮図だ。
「効率化」「費用対効果」
これが工業社会、経済至上主義社会の生んだ、絶対の真理だ。
それは、三浦展著「第四の消費」に言葉を借りれば、
数値化できるものに特化したということ。
居心地がいい。とか
ゆったりできる。とか
マスターと話ができる。とか
っていう価値は数値化ができない。
これが、日本のあらゆるところで起こった。
八百屋、魚屋、肉屋、酒屋、金物屋、履物屋で
1軒ずつ買い物に行っていたら、文字通り「日が暮れてしまう」から
仕事帰りにスーパーマーケットへサッと寄って、
夕飯の支度をしてほうが効率的だ。
いや。
もっと効率的なのは、お惣菜を買ってくることだ。
いや、出前をとったほうが、
いや、ホカ弁にしたほうが、
と「効率化」と「費用対効果」の名の下に、過ごしてきた。
そして、商店街は廃れていった。
しかし、人はいつか、かならず、年を取る。
車に乗れなくなる。
そのときに、パソコンをカチカチやって
食品を手にするのか。
商店街に買い物に行くという
コミュニケーションを維持するのか。
これは、個人の生活の質(Quality of life)にとって
どちらがいいのだろうか?
という問いを持たずにひた走ってきた。
そういえば、ツルハシブックスのすぐ近くにある
純喫茶「カポネ」は、午前9時くらいになると、
近所の60歳前後の男性陣が集まっていて、世間話をするのだという。
それこそがカフェじゃないのか。
いや。
商店街というのは、もしかしたら、
巨大なカフェだったのではないか。
大学生がMAPづくりのために取材に行くと、
お茶を出してくれ、話が弾む。
そんな場が、履物屋さんやお菓子屋さんや銭湯で起こっている。
かつて、まちにはカフェがあった。
それは、コーヒーを出す喫茶店だけではなく、
銭湯も、履物屋さんも、酒屋さんも
全てがカフェ的な機能を持ち、営まれていた。
まち全体がカフェになる。
内野のまちなら、それができそうな気がする。
Posted by ニシダタクジ at 06:48│Comments(0)
│本
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