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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2014年04月08日

地方は無駄を許容できない

地方は無駄を許容できない
「新しい広場をつくる 市民芸術概論綱要」(平田オリザ 岩波書店)

2日連続。
電車の中の往復50分でスイスイと読み進める。
難しいテーマだが文章は平易。
読みやすい。

そして恐怖。

「地方は無駄を許容できない」
という一節。

~~~ここから一部引用

郊外ショッピングセンターの大規模書店の話。
どこの書店も同じような品ぞろえ、同じ本の並び。
POSシステムによって全国の売れ筋書籍が
即座にわかり、そのデータに応じて本を並べ替えていく。

すでに私たちは
「市場原理によって思想統制されているのだ」と言えば言い過ぎだろうか。

かつて街の本屋は
雑誌を売って生計を立て、
あとは好きな本だけを商っていられた。

しかし、雑誌はコンビニで買い
ネット上でほしい本を手に入れられるようになった今、
この手の経済原理に抗おうとするマニアックな本屋が生き延びられるのは
東京や大阪といった大都市圏のみということになる。

地方ほど無駄が許容できなくなっているのだ。

かつての小さな書店は、
立ち読みをしている青年に、
「お前もそろそろいい歳なんだからツルゲーネフでも読めよ」と勧める。
「次はドストエフスキーか」と売れるあてのない岩波文庫を仕入れておく。

こんなふうに街の書店や古本屋さん、
ジャズ喫茶、ライブハウス、画廊が
地域の文化の重層性を支えてきたのではないか。

それら地域の文化を下支えしてきた小さな空間が
根こそぎなくなっていく。

「市場原理は、辺境ほど、末端ほど、荒々しく働く。」

~~~ここまで一部引用

この次の章には、
東大生の文化格差の問題提起がされている。

---さらに一部引用

東京近郊の中高一貫校は
東大への進学数だけを競うようなことはもうしていない。
多くの学校は
「大学に入ってからも学びのモチベーションが持続するような教育」を標榜している。

そこではいずれも、
クリティカルシンキング、ロジカルシンキング、クリエイティビティなどが
授業のキーワードになっており、アクティブラーニングと呼ばれる
様々な新しいタイプの授業が工夫されている。

生徒の創造性やコミュニケーション能力を伸ばすための
双方向型、参加型、ワークショップ型の授業である。

たとえば、演出家を呼び、演劇をつくっていく国語の授業が
各校で競うようにして行われている。

首都圏では同じレベルの中高一貫校の受験日が重なっているので
保護者はオープンスクールなどで受験校を厳選しなければならない。
当然、各校は目玉となるような創造型の授業を開発することになる。

このようにユニークな授業を受けて、
東大、京大、阪大に入ってきた学生と
地方のいわゆる進学校を経て大学に来た学生が机を並べると
文字通りの「カルチャーショック」を受けて、不登校になってしまう学生が一定数いるのだという。

地方の「学歴偏重」の価値観はいまだに根強く
進学者の数だけを競う風土が残っている地域(おそらく新潟もそうだ)では、
単位未履修だろうが、受験科目に特化した教育、受験勉強に照準を合わせた授業をしていかざるを得ない。
双方向型参加型の授業などは、いかに将来、その生徒のためになることがわかっていても、
それを実施する余裕がない。

不登校になってしまう東大生のケースは
特に女子に多いという。

「とにかくお前は勉強ができるから、この科目とこの科目をやっていれば、
東大でも京大でも入れるぞ」
と言われて念願かなって入った大学では、しかし誰とも話が合わない。
東京の中高一貫校出身者は親が富裕層だったりすることもあり、

幼いころからミュージカルを見たり、
短期留学に行っていたり、受験勉強だけをしてきたわけではない。

これは、在学中のことだけではない。
就職活動でも、企業はセンスのいい人間から採用を決めていく。

個人の持つ「文化資本」の差が
将来に影響していくのである。

---ここまで一部引用

そこで、著者はいう。
「文化の自己決定能力」を持ち、
付加価値を生んでいかなければ、
地域は簡単に東京資本(あるいはグローバル資本)に収奪されていく。

では、そのセンスはどのように身につくのか。
「文化資本」を地道に蓄積していくしかない。

この本にも書いてあるが、
金沢にある市民芸術村は、
年中無休24時間、アーティストたちが
表現活動をしていて、真ん中が公園になっているので、
幼い子がそこに遊びに来ることができるようになっている。

また21世紀美術館も地域に愛される施策によって、
小学生のリピーターを生み、
金沢の観光スポットとしてだけではなく、
地域の文化度を高めることにつながっている。

この差が、将来の金沢と新潟の差となっていくように思えてならない。
芸術祭のようなイベントだけではなく日常的な文化資本形成の場が必要であると感じる。

「地方は無駄が許容できない」
これはシステム的な問題である。

だとしたら、小さな単位で
「無駄を許容できる」コミュニティをつくっていくしかない。

日曜日に小学生がツルハシブックスの中で屋台を出していた。
地方は無駄を許容できない
出店料は5円。
そこで過ごす時間はどんなにクリエイティブだろう。

大資本のビジネスはどんどん効率化され、
コストパフォーマンスに特化していくが、

個人商店のような
小さなビジネスとアートの境はなくなっていく。
そして、それこそが、
これからの求められるビジネスのカタチなのだとしたら、

小学校から高校までにやっておくべきことは、
暗記力や情報処理力を高める学習や
理不尽や体力的限界に耐えうる体と精神をつくる部活動だけではなく、

小さなお店をやってみるような、
アート作品を自分で作ってみるような、
そんな表現活動と双方向コミュニケーションなのではないだろうか。

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Posted by ニシダタクジ at 07:02│Comments(0)
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