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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2014年04月09日

東京への人材供給システムとしての教育

東京への人材供給システムとしての教育
「新しい広場をつくる 市民芸術概論綱要」(平田オリザ 岩波書店)

3日連続投稿。
面白いほど早く読める。
昨日に引き続き、教育を斬る。

~~~ここから引用

今回の震災であらためて明らかになったことのひとつは、
いかに東北が東京の、あるいは京浜工業地帯の下支えをしてきたかという事実だった。
それは電力やサプライチェーンだけのことではない。

東北は長く、東京に対して、中央政府に対して、
主要な人材の供給源だった。
日清日露の戦場ではまさに一兵卒として、
大正、昭和期には満蒙開拓の先兵として、
そして戦後は集団就職、出稼ぎの発進地として。

この人材供給のシステムは、
高校の学校教育レベルから始まっており、
偏差値の序列に従って中央へ中央へと
人材が吸い上げられる仕組みとなっている。

久慈でも釜石でも、優秀な生徒は、
高校段階で盛岡一高へと進学する。
そして、岩手大学へ、東北大学へ、東京大学へ、
進学は常に上り列車に乗って進んでいく。

ではこの三陸の地の復興は誰が担うのか?
まだ、この期に及んで、国家のための教育を続けるのか?

私たちは高度消費社会に生きている。
どんなに学校の成績がいい男の子でも、
料理が好きならばフランス料理のシェフになったほうが生涯賃金は
高いはずなのだ。

しかし、地方ほど、「普通科信仰」のもと、
子供たちは偏差値という尺度だけで輪切りにされ、
選抜されていく。

しかも、その選抜は決して地域のための選抜ではない。
子どもたちの未来のための選抜ですらない。
地域はすでに教育の段階から付加価値を生みにくい構造になっている。

私たちが作ってきたのは、東京に、
優秀な人材を供給するためのシステムに過ぎない。
そしていまは、「東京」から「グローバル社会」へと言葉がすり替えられた。

(中略)

いま被災地にとって大事なことは、
「グローバル人材」でなく、地域に貢献できる人材を、
一人でも多く作っていくことなのではないか。
「グローバル」はその一手段であり、材料に過ぎないはずなのだが、
これがあたかも最終目標になっている。

(中略)

宮沢賢治は、農学校の教師として、
当時の最先端の農業技術を
岩手・花巻の農民たち、その子孫たちに伝授しようとした。
しかし、やはりそれだけでは、農民の本当の幸福は得られないと彼は感じたのではなかったか。

宮沢賢治が花巻農学校を退職して、
羅須地人協会を作ったのは、その限界を超えて、
農民たち一人ひとりの感性を磨き、「文化の自己決定能力」を
身につけさせるためだった。

誰人もみな芸術家たる感受をなせ
個性の優れる方面に於て各々止むなき表現をなせ
然もめいめいそのときどきの芸術家である

それは決して、理想論でも夢物語でもない。

(中略)

賢治は以下のようにも書いている

曾つてわれらの師父たちは乏しいながら可成楽しく生きてゐた
そこには芸術も宗教もあった
いまわれらにはただ労働が 生存があるばかりである
宗教は疲れて近代科学に置換され然も化学は冷く暗い
(「農民芸術概論綱要」より)

東北には、それだけの潜在能力があったはずなのだ。
しかし、幾百年の歴史の積み重ねの中で、
東北は東京に、中央政権に奉仕するシステムが組みあがってしまった。
そこに、このたびの東日本大震災が起きた。

東北、被災地が真の自立を目指すならば、
そこに暮らす民草の一人ひとりが芸術家となって感性を磨き、
文化の自己決定能力をつけ、地域の付加価値を高めていく以外に近道はない。

明治三陸大津波の年に生まれ、
昭和三陸大津波の年に死んでいった宮沢賢治の祈りが、
いま、何より切実なものとなっている。

~~~ここまで引用

長文にわたる引用になっていたが、
時代にマッチした熱い文章だなあと思う。

ひとりひとりが芸術家となって感性を磨き、
文化の自己決定能力をつけて、
地域の付加価値を高めていく。

東北ばかりではない。
地方都市すべてに、もちろん新潟にも当てはまることだ。

「文化の自己決定力」とは、私なりに考えると、
「豊かさ」とか「幸せ」を自分なりに定義し、
それを表現する機会をつくっていく、
またそれを他者と共感しあいながら、
そのコミュニティの文化としていくことなのかなと思う。

先日行われた
「アートミックスジャパン」のようなイベントは
まさにそのような芸術家としての民を育てていく
機会になっていくのだろうと思う。

幸いにもいま、
劇場と呼べるような拠点を2つも近くにある。
ひとつは、まきどき村の「人生最高の朝ごはん」の舞台である旧庄屋佐藤家
もうひとつは、若者が集まる不思議な書店「ツルハシブックス」だ。

東京への人材供給システムとしての教育ではなく、
地域にとっても、本人たちにとっても、
「幸せ」で「豊かな」将来のために、(そこに答えはないのだが)
私たち自身が、彼らと双方向のコミュニケーションをとりながら、
新しい社会を、新しい時代を作っていかなくてはならない。

そして、それは今、まさにそのタイミングなのだ。

賢治先生の意志を継ぐものたちの挑戦を
新潟からも始めてみませんか?

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Posted by ニシダタクジ at 07:37│Comments(0)
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