2016年07月12日
哲学とは、永遠に歩き続けること
「幸せになる勇気」
(岸見一郎 古賀史健 ダイヤモンド社)
大ベストセラー「嫌われる勇気」の第2弾。
前から読みたかったのだけど、
満を持して(?)、このタイミングで。
「嫌われる勇気」も
「これからの成人式」必読の1冊です。
いきなりきます。
「宗教」と「哲学」は何が違うのか?
これ、結構考えている人がいるのではないかなあと。
~~~ここから一部引用・メモ
宗教も哲学も、そして科学も、出発点は同じです。
わたしたちはどこからきたのか。
わたしたちはどこにいるのか。
わたしたちはどう生きればいいのか。
これらの問いから出発したものが
宗教であり、哲学であり、科学です。
古代ギリシアにおいては、哲学と科学の区別は無く、
科学(science)の語源であるラテン語の
「scientia」は、単に知識という意味でしかありません。
客観的な事実認定にとどまる科学と違って、
哲学や宗教では、人間に
人間にとっての「真」「善」「美」まで取り扱う。
ここは非常に大きなポイントです。
宗教と哲学の最大の相違点は「物語」の有無でしょう。
宗教は物語によって世界を説明する。
言うなれば神は、世界を説明する大きな物語の主人公です。
それに対して哲学は、物語を退ける。
主人公のいない、抽象の概念によって世界を説明しようとする。
~~~ここまで一部引用・メモ
なるほどな~。
「科学」と「宗教」と「哲学」
の関係性について、よくまとまっているなあと。
いま、「科学」が揺らいでいるから
「宗教」や「哲学」へと、人は関心を持っているのかもしれない。
そして、この章のハイライトは以下
▽▽▽ここから引用
真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる
長い竿の上を歩いている。
常識を疑い、
自問と自答をくり返し、
どこまで続くかわからない竿の上を、
ひたすら歩いている。
するとときおり、
暗闇の中から内なる声が聞こえてくる。
「これ以上先に進んでもなにもない。ここが真理だ」と。
そしてある人は、
内なる声に従って歩むことをやめてしまう。
竿から飛び降りてしまう。
そこに真理があるのか?わたしにはわかりません。
あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
ただ、歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、
わたしは「宗教」と呼びます。
哲学とは、永遠に歩き続けることなのです。
そこに神がいるかどうかは、関係ありません。
△△△ここまで引用
そうそう。
そうだよね。
僕が大学生の時に学んだ「自然農」は、
きっとそういうことなのだろうなあと。
「その草を残すべきか、刈るべきか、畑に立つと
自然とわかるようになる。」
農業とは、
特にマニュアルに頼らない自然農は、
「哲学」なんだろうなあと。
そして僕の大学時代のテーマはまさにそこ。
自分は、どこからきて、どこへいくのか。
それを農業に見出したかったのだろうと思う。
答えなどない。
お前はお前の信じる農業をやればいい。
自然と対話し、自問自答しながら、農業をやればいい。
そんな原点。
歩き続けること。
そんなことを思い出させてくれる1冊です。
19歳におすすめです。
Posted by ニシダタクジ at 09:38│Comments(0)
│本
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