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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2016年10月14日

「株式会社」という仮説

「株式会社」という仮説
「街場の憂国会議」(内田樹編 晶文社)

2014年5月、
特定秘密保護法の成立を契機に出版された1冊。

いつも読むの遅くてすみません。
近くにいい本屋があれば。

って2014年5月はまだ現役の本屋だったか。
晶文社さん、ごめんなさい。

まずは内田さんの
「株式会社」化する国家について。

これ、面白いなあ。
某総理大臣や某市長が「株式会社」のように決断できる政治、
トップダウンな体制を目指しているのに対して、鋭く迫る。

まずは「株式会社」ってなに?
っていうところから。
これが意外とコワイ話。

~~~ここから一部引用

株式会社の原型は1602年の
オランダ東インド会社から始まる。

ほとんどが準国家組織であったが、
これが株式会社の原型とされるのは、
このとき歴史上初めて
「株主有限責任の法則」が確立したからである。

それまでの個人と個人の間では、
因習的に与えた損害に対する弁償は、
無限責任とされた。
いわゆる「目には目を、歯には歯を」である。

ところが株式会社では、
株主は、会社がどれほどの損害を出そうと、
どれほどの災厄を撒き散らそうと、
自分の出資分以上の責任を問われることがない。

このようなルールはそれまで人間社会には存在しなかった。

有限責任はいずれ支払い保証のない危険な信用を作り出し、
それが過剰取引や詐欺や賭博的投機を呼び込むのではないか、
そのような懸念は株式会社の黎明期からすでに多くの経済学者から
表明されていた。

しかし、産業革命とともに、
薄く広く多額の出資をかき集めなければならないという
資本の要請が生じ、それは株式会社という形態にみごとに適合した。

そのようにして、
詐欺と過剰な投機を抑制するために存在した
株式会社への法的規制が次々と廃止された結果、
株式会社は今日の隆盛を見るに至ったのである。

~~~

内田さんが、前提として確認したいことは二つだ。

1 株式会社は人類の歴史、経済史から見ても、
「ごく最近」になって登場してきたものであること。
そして、登場のとき「有限責任」という概念に強い違和感を
覚えた人たちがたくさんいたということ。

2 株式会社が一気に支配的な企業形態になったのは、
産業革命期に、「短期間に、巨額の資金を集める」
必要が生じたためである。

それまでは、「知っている人間」から「返済可能な額」の
出資を募っていたのが、「知らない人間」から
「破産しても返済できない額」の出資を募ることが
ビジネスのデフォルトになった。

だから株式会社という仕組みは、その成り立ちからして、
生身の人間の生活空間と生活時間の尺度となじまないのである。

なるほど。

そして、
奥村宏さんの言葉を借りて、
「有限責任とは、自らが負うべきリスクをほかの誰かに押しつけるもの」
なのだと。

このように出来上がった
「コスト外部化システム」が機能できたのは、
もちろん損失を「穢れ(けがれ)」として押し付けることができる
「外部」が存在したからである。

外部が存在する限り、コストの外部化は可能である。
かつては新世界が、続いて第三世界が、そして今は
地球の環境や資源が最後の「外部」となった。
それを蕩尽し尽くすまで株式会社は終わらない。

~~~ここまで一部引用

うんうん。たしかにそうだ。

そして内田さんは、
株式会社化する国家や、それを待望する人たちに対して警告する。

~~~ここからさらに引用

民主制というのは、「先のこと」を考えるための仕組みである。
人間の数だけ未来予測が違うから、あらゆる可能性を吟味する必要がある。
そして、もう論じることがない、といったときに、政策決定を行う。

その際に
「もしこの政策決定が間違っていても、それは議論に関わった
われわれ全員に多かれ少なかれ責任があり、それゆえ、
この失敗のもたらす災厄をそれぞれの割り前分だけ
引き受けなければならない」
と腹をくくるまで議論する。

民主制というのはそのための制度である。

もちろん、しばしば民主制は間違い、
不適切な統治者を選ぶ。
けれどその被害に対して、他責的になることは許されない。

民主制の成員たちは、
この災厄は「自分で招いたもの」だと
いうことを認めなければならない。
民主制はその点がすぐれている。

成功し続けるからではなく、やり直しが効くから
すぐれているのである。

かつての戦争で、大日本帝国は歴史的大敗を喫した。
けれどもその政策決定には、ほとんどの国民は関与できなかった。

国民の多くがその原因を「戦犯」に押し付け、
自らを被害者だと思った。
その大きな理由のひとつが
大日本帝国が民主制ではなかったからだ。

1945年まで日本が民主的な政体でなかったことの
最大の瑕疵は、非民主的な政体の下では、
政治的自由がなかったこととか、
言論の自由が抑圧されたことにあるのではない。

そうではなくて、
非民主的な政体が犯した政策上の失敗について
自分たちには責任がないと国民が思うことを
止められなかったことにある。

~~~ここまで引用

むむむ。
なるほど。

株式会社というのは、
ひとりひとりの「責任感」「当事者意識」を
無くしていく仕組みにそもそもなっているんだなあと。

そして、
国家の「株式会社」化とは、
戦争に突き進むことが危険なのではなくて、
(その可能性は増すのかもしれないが)

国民ひとりひとりが、
政策決定について、あるいは世の中についての
当事者意識を失うということを同時に意味しているのだろう。

400年の歴史でしかない、
「株式会社」の論理で、
国家が運営されていくことにも恐怖を感じるが、

何よりも、ひとりひとりが、
自らの生活を、人生を、人のせいにするような、
そんな世の中に生きたくはないな、と思った。

まだまだ読み進めます。

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Posted by ニシダタクジ at 08:05│Comments(0)
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