2017年02月07日
グローバルだからこそローカル。
「キュレーションの時代」(佐々木俊尚 ちくま新書)
グローバルとローカルの関係を
情報、ソーシャルメディアの観点から切りとった1冊。
僕は2011年にこの本を1度読んでいるのだけど、
6年たってから読み直すと、まったく違う世界がそこに広がっていた。
茨城大学でやっている「茨城学」でも、
グローバルとローカルについて、
言及されているけど、
この本のラストの章を読むと、
グローバルだからこそ、ローカルなんだな、と実感できる。
~~~以下一部引用
広告のクリエイティブディレクターとして
世界的に有名なアレクサンダー・ゲルマンは、
「ポストグローバル(グローバル以後)」
というコンセプトを提唱しています。
ゲルマンはもの凄くシンプルでミニマル(最小限)
なデザインのスタイルを1990年代に確立し、
そのシンプルな表現は国境を越えて、
多くの国の人に受け入れられてきたことから、
グローバリゼーション時代を象徴するデザインとして評価されてきました。
どの国の人にとっても、ゲルマンのデザインは
まるで自分の国の民族性を体現しているように受け止められたのです。
スウェーデン人はゲルマンのシンプルですっきりとした手法を北欧的と考え、(中略)
日本は繊細に洗練されて「間」の美学があるゲルマンは日本そのものだと考えました。
彼は、「魂に響くものなら、どんな文化とも共鳴し合える。
本当のグローバルとは画一化されて巨大化することではなく、
人間の根源的な部分で相通じることができるようになることだ」
と言っています。
グローバリゼーションの嫡子として新たなデザインを切りひらいたゲルマンは、
グローバル化された文化の突端まで行き着いたからこそ、
その先の「反転」を予測したということなのでしょう。
つまり、グローバル化したシステムでは、
情報の伝達は今までよりもずっと容易になる。
だからこそローカルカルチャーの重要性がいっそう高まっていくのだ、と。
~~~ここまで一部引用
このあと、この本は、
そんなことが本当に可能か?
文化の多様性が無くなって、
みんな単一の文化に飲み込まれるだけのではないか?
とマクドナルドを引き合いに出して、論じられます。
マクドナルドは高度なマニュアル化によって
世界中のどこにいても同じ味、同じ接客を受ける(理論上)ことができます。
しかし、日本の「身土不二」やイタリアの「スローフード」のように、
その土地で旬にとれた食材はその時間と空間の中でしか生まれない
唯一のものであって、それを消費する側の人たちがきちんと評価してこそ
食と人の良い関係が成り立つという考え方。つまりそこには「一回性」が
存在するわけです。
旬の食材を「いまこの瞬間にしか出会えない」と感謝しながらいただく。
それは日本の食文化の根幹にひそんでいる美学でもあります。
マクドナルドは、昨日も今日も明日も、
ここにくれば同じ味のハンバーガーが食べられるんだと再現性を信じている。
店の側もそれを保証している。
しかし、
「グローバリゼーション=一回性を否定したファストフード文化」
という考え方ではあまりにもステレオタイプで、
それを
SNSのような文化のグローバルプラットフォームが
文化の多様性をさらに高めてくれるだろうと佐々木さんは
モンゴル帝国時代を引き合いに出して、説明します。
白磁器に、青い染付。
中国では青花と呼ばれていて、それはモンゴル帝国時代にさかのぼり、
モンゴル帝国がつくりあげた文化的プラットフォームの賜物だと言います。
フェイスブックなどの「プラットフォーム」の定義は
1 圧倒的な市場支配力
2 つかいやすいインターフェイス
3 プラットフォーム上でプレイヤーが自由に活動できる許容力
の3つをモンゴル帝国も有していたそうです。
グローバリゼーションと画一化はイコールではないと
佐々木さんは言います。
多様性を許容するプラットフォームが確立していけば、
私たちの文化は多様性を保ったまま、
他の文化と融合して新たな文化を生み出すことができる。
その世界で新たなまだ見ぬ文化はキュレーションによって、
つねに再発見され続けていく。
こうして、これからの「文化」は生まれていく。
そうそう。
これ、そうだわ。
本とソーシャルメディア、
そしてプレイヤーのプラットフォーム
としての「本屋」っていうのが
文化発信の可能性に満ちていると
僕は感じました。
ツルハシブックス「劇団員」必読の1冊です。
Posted by ニシダタクジ at 08:23│Comments(0)
│本
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