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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2017年04月19日

ソフトとハードが未分化だった時代のLife

ソフトとハードが未分化だった時代のLife
「日本のカタチ2050~こうなったらいい未来の描き方」
(竹内昌義、馬場正尊、マエキタミヤコ、 山崎亮 晶文社)

読み始めたばかりだが、
山崎亮さんが書いた章が面白かったので、メモ。

~~~以下メモ

山崎さんは「豊かさとはそもそも何か?」
というアプローチの中で、
働くことと宗教観の日本と西洋の違いを見出す。

日本書紀の「日神尊、天垣田を以て御田としたまふ」とあり、
天照大御神は、御自ら天垣田で稲をお育てになっている。
つまり、日本の神様は田植えをしていた。

つまり「働く」ということは、
自らを高める修業的な要素があり、
働くことによって神様のように
崇高な存在になることができるという感覚がある。

一方で、西洋で描かれる神様は、
基本的には働かなくても良い暮らしができる
素晴らしい世界に住んでいる。
果実がなり、鳥がさえずり、風景は絶景。

罪を犯すと、罰として地上で働かされる。

だから、西洋の人たちは、
労働から解放されるために機械をつくり、
オートメーション化をはかっていった。

すべてを機械化し、
人間の労働を無くし、
地上に天国をつくろう。

そういう意思があったからこそ、
欧米の産業革命はどんどん進んだのだろう。

そんな中で、デザイナー
ジョン・ラスキンやウィリアム・モリスは、
ライフの大事さを説き、
アーツ・アンド・クラフト運動などを展開する。

山崎さんの主宰する
studio-LのLの字は、
この「ライフ」の頭文字をとっているのだという。

ラスキンの本「この最後の者にも」の第77節に、
「Lifeこそが最も大切である」と書いてある。

Lifeは日本語でいう「生活」というよりは、
愛も喜びも全部含まれた意味での「生」
つまり生きることそのものと訳されるべきであろう。

ラスキンが定義する
豊かな人生を生きた人々とは、

「その人格、あるいは所有物を使い、
他人に対してとてもいい影響を与え続ける生き方をした人」

なのだという。
そんな人々がたくさんいる国はラスキンは裕福な国と呼んだ。

だからこそ、
山崎さんは、新しいソフトとハードのバランスを
考えながらビジョンを示す人が必要になるのではないか、と説明する。

フランスの哲学者
シャルル・フーリエ(1772~1837)が提唱した「ファランスティール」という共同体
家族の延長上として住むのに最適な集落の形をデザインした。

なにより大切なのは、
フーリエが「人々の暮らしとコミュニティはどうあるべきか」
ということと空間の形態がぴったり一致していたことだという。

また、エベネザー・ハワード(1850~1928)は
「田園都市」を提唱し、街の真ん中に広場をつくり、その回りに商店街を、
さらに外側に住宅地を、そしてその外側に鉄道がまわされ、
鉄道の外側を農地という風に働く場所と住む場所が明確に決められている。

しかし、ル・コルビュジエ(1887~1965)になると、
空間の形態と人々の生活は一体としては提示されていない。

つまり「Life=生」が抜け落ちた計画となり、
1920年代以降の建築家や都市計画家の空間に対する提案には、
「生(=Life)」という重要な部分はほとんど見えなくなる。

~~~ここまでメモ

山崎さんは、
これからの建築家には

我々はどう生きたいのか、どう働きたいのか、さらにどう生きるべきなのか。
こうした「生=(Life)」の全体性と空間形態を
同時に提案することが求められるようになるだろうという。
ソフトとハードを統合して組み立てていく
アーキテクトの役割が求められるだろうと。

この章は、
ソフトとハードが未分化だった時代に学ばないといけないのだと締めくくられる。

なるほど。
Lifeという出発点と、
かつて未分化だったソフトとハード。

そういう意味では、
かつて、労働と芸術は未分化であった。

そしてそこにこそ
ラスキンのいう「生(=Life)」があったのではないか。

そんな古いようで新しい社会に向かって、本屋は何ができるだろうか?
という実験を武蔵新城駅前ではやっているのだろうと思った。

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Posted by ニシダタクジ at 08:15│Comments(0)
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