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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2017年06月30日

アンサング・ヒーロー

ああ、読み終わってしまう・・・

と読み進めていきなら、悲しくなる本に出会うことがある。
「もったいないから一章ずつ読もう」とか

アサダワタルさんの
「コミュニティ難民のススメ」以来のドキドキ。


「街場の憂国論」(内田樹 晶文社)

うわー、うわーって
何度もうなっていた。

もっともこころ揺さぶられたのは、

第5章 「次世代にパスを送る」の「教育の奇跡」のところ。

またしても興奮状態でツイートしすぎた。

さて、ちょっと引用させてください。

~~~ここから引用

人間は知っている者の立場に立たされている間は
つねに十分に知っている。

「教卓のこちら側」にいる人間は、
「教卓のこちら側にいる」という事実だけによって、
すでに「教師」としての条件を満たしている。

教師は別にとりわけ有用な、
実利的な知識や情報や技能を持っており、
それを生徒や弟子に伝えることができるから
教師であるわけではない。
これが教えることの逆説である。

教師は「この人は私たちが何を学ぶべきか知っている」
という確信を持っている人々の前に立つ限り、
すでに十分に教師として機能する。
彼に就いて学ぶ人たちは、
「彼が教えた以上のこと、彼が教えなかったこと」
を彼から学ぶ

誰だって教師になれる。
そうでなければ困る。

人間たちが集団的に生き延びてゆくために
ほんとうに重要な社会制度は、
「誰でもできるように」設計されている。
そうでなければ困る。

例外的に卓越した資質を持っている
人間にしか社会制度の枢要な機能を
担い得ないという方針で社会制度が
設計されていたら、とっくの昔に
人類は滅亡していただろう。

学校における知の非対称性とは
「あなたたちはなぜ学ばなければならないのかその理由を知らないが、
私はあなたたちが学ばなければならない理由を知っている」という一言に尽くされる。

私たちは「教卓の向こう側にいる人」はすでにそのことだけで
すでに教える資格があるというルールを身体化していたからである。

「教師はただ教卓の向こう側にいるだけで、
少しも人間的に卓越しているわけではない」
という事実を意地悪く暴露して、
教育制度に回復不能の深い傷を与えてしまった。

私たちが指摘したのは「ほんとうのこと」だったのだが、
「言うべきではなかったこと」だった。
それに気づくほど私たちは大人ではなかった。

教師は自分の知らないことを教えることができ、
自分ができないことをさせることができる」という
「出力過剰」のメカニズムが教育制度の根幹にあるということである。
それが教育制度の本質的豊穣性を担保している。

教師であり続けるためには、一つだけ条件がある。
一つだけで十分だと私は思う。
それは教育制度のこの豊穣性を信じているということである。

自分は自分がよく知らないことを教えることができる。
なぜか、教えることができる。
生徒たちは教師が教えてくれないことを学ぶことができる。
なぜか、学ぶことができる。
この不条理のうちに教育の卓越性は存する。
それを知って「感動する」というのが教師の唯一の条件だと私は思う。

もし、生徒たちが学んだことは、どれも教師がすでに知っていることの
一部を移転したにすぎないと思っている教師がいたとしたら、私は
「そのような教師は教卓に立つべきではない」と思うし、当人にはっきりとそう告げるだろう。

その人には「教育制度に対する敬意がかけている」からである。
教育制度に敬意を持てないものは教師になるべきではない。

教育の奇跡とは、「教わるもの」が「教えるもの」を
知識において技芸において凌駕することが
日常的に起きるという事実のうちにある。
「出力が入力を超える」という事実のうちにある。

「教室とはそこに存在しないものが生成する奇跡的な場だ」
という信念を持たない教師は
長期にわたって(生徒たちが卒業した後になっても)
彼らの成熟を支援するというような仕事はできない。

今日の「教育危機」なるものは、世上言われるように、
教師に教科に知識が不足しているからでも、
専門職大学院を出ていないからでもない。
そうではなくて、教師たちが教育の信じるのを止めてしまったからである。

教師が教育を信じることを止めて、いったい誰が教育を信じるのか。

~~~ここまで引用

教育の奇跡。
なるほど。

それは「場」にあるのだと。
教師と生徒が教卓を挟んで、向かい合う。
その「場」に「奇跡」が生成するのだ。

教師とは、
その構成員のひとりにすぎないのだ。

この本を読んでいて、つぶやいた。
(というかいつも、最近、主語を「本屋」に置き換えてしまうのだけど)

「教育」を「本屋」あるいは「本屋という場」に置き換えてみる。
わくわくする。
本屋が、「出力が入力を上回る」という
「本屋の奇跡」を信じることを止めて、いったい誰が本屋を信じるのか。

「劇団員」とか「サムライ」とか「ヤクシャ」
ってきっとそういうこと。

学びあいの場をつくる、
本屋を学びあいの場にする、
ってきっとそういうこと。

そこに師匠はいないかもしれないけど、
本の中に師匠がいるかもしれない。
いや、今日やったイベントの中に、
師匠がいるのかもしれない。

そこから何を学ぶか。
その入力から何を出力するか。
それが入力を上回るという点において、
本屋は本屋である意味がある。

この本のあとがきに
「アンサング・ヒーロー」のことが書いてある。

事故を未然に防いだ人たちの功績は
決して顕彰されることがありません。

そういう顕彰されることのない英雄のことを
「アンサング・ヒーロー(unsung hero)」
と呼びます。「歌われざる英雄」です。

このアンサング・ヒーローたちの
報われない努力によって
僕たちの社会はかろうじて成立している。

なるほど。

教師も、本屋も、
目指していくところは、
「アンサング・ヒーロー」なのかもしれない。

僕が高校生の時に通っていたたこ焼き屋のおばちゃんのことだ。
店内でヤンキー高校生にタバコを吸わせながら
たこ焼きやカップラーメンを食べさせて、話を聞いてあげていた。
あのおばちゃんのおかげで悪さをしなかった高校生はひとりふたりじゃないだろう。

思えばあれが僕の原点になっているのかもしれない。

教育の奇跡を、本屋の奇跡を信じ、

周りの大人を、先輩を、地域の人たちを
「アンサング・ヒーロー」にしていくような学びの場や本屋を
いま、作らなければならないのではないか。

100年先の日本のために。

今一度、日本を小さく洗濯しようか。
小さな本屋で。
ねえ、龍馬さん。


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Posted by ニシダタクジ at 10:37│Comments(0)
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