2017年08月30日
「ワークショップ」ってなに?
「かかわり方の学び方」(西村佳哲 ちくま文庫)
何度読んでも、新鮮。
「鮮やか」という言葉がしっくりくる。
原典と呼べるような1冊。
「ワークショップ」という言葉について
考えてみる。
以前にも何度も考えているのだけど、
(昨日のブログの引用)
あらためて、いま、ワークショップを考えてみる。
都留文科大学の高田研さんに西村さんが聞くような
形で進む第2章「ワークショップとは何か?」
大量に廉価な商品を生み出すことを目指す「工場」(ファクトリー)に対して、
小さな空間で手作業で行われる「工房」(ワークショップ)
それはアメリカの工業化が始まり、
ヨーロッパに代わる世界の工場として繁栄した
19世紀後半に生まれてきた。
システムが中心で、それに人間が従って
生きてゆくような空間(典型的な工場)ではなく、
人間を中心とする場を社会の中で取り戻していきたいという期待。
ファクトリー(工場)の特性は、
「何をつくるか?」があらかじめ決まっている
そしてそれを効率よく、高精度に、間違いなく生産するための
ラインが設計され稼働する。
一方ワークショップ(工房)では、
「何をつくるか?」があらかじめ決まっていない
少なくとも設計図のたぐいはない。
そこには素材があり、道具があり、
「すこしでもいいものをつくりたい」意欲を持つ
職工が集まって、互いに影響を与えながら働く。
そしてつくり出すべき「なにか」が、
その場で模索されてゆく。
ファクトリーは量産するが、
ワークショップは量産のための空間ではない。
前者(ファクトリー)おいて失敗はあってはならないもので
決して望まれないが、後者(ワークショップ)では、
失敗はむしろ重要な手がかりで、いい失敗を
積極的に得るべく試作が重ねられる。
ファクトリーは、システムを所有し、管理する側が
大きな影響力と権限を持つ社会を象徴している。
その発展は、素人より専門家が、
生活者より消費材を供給する側が
よりパワフルな社会の深化でもあった。
一方ワークショップでは、一人ひとりの
個人が中心で、権限も分散している。
こうなると、
完成系が決まっているものは、
「ワークショップ」とは言わない。
手作りで何かをつくるだけでは、
それは「体験型セミナー」や「講習会」だ
資本主義を使い回してきた先進諸国は、
後者(ファクトリー)の最終段階にあると同時に、
前者(ワークショップ)の端緒についているように見える。
20‐80の法則(パレートの法則)
最初の2割の時間で成果の80%が出る。
しかし儲けが出るのは、
最後の20%を詰めていくことだ。
日本社会はそこに最適化してきた。
そしていま、人件費で
アジア諸国にその座を明け渡しつつある。
ワークショップの本懐は、
あらかじめ用意された答えはなく、
それを模索していくプロセスにあるのではないか。
なるほどね。
すべての場はワークショップになり得るな。
Posted by ニシダタクジ at 07:37│Comments(0)
│本
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