2018年08月03日
「少数派である」ということ
少数派であるということ。
それは多数派ではないということ。
その意味でしかない。
少数派は、異常ではない。
多数派が正常ではないように。
でも、不安になるんだよ、少数派は。
多数派はなぜか自分たちが正しいと思っちゃうんだよ。
「学校」っていうシステムは、
「多数派」を作ってきたのではないか。
「少数派」もしくは「ひとり」にとっては
生きづらいシステムを作ってきたのではないか。
「社会」の中においていつも人は、
「アイデンティティ」(自分らしさ)不安にさらされている。
それを、
「多数派」が支配する社会は、
マズローの欲求5段階説が説明するように、
生理的欲求⇒安全欲求⇒所属と愛の欲求⇒承認欲求⇒自己実現欲求
「所属と愛」を会社と家庭で満たし、
(満たすようなシステムをつくり)
人を「多数派」にしてきた。
しかし、いま、その前提が崩れているのだ。
人口が増え続けること。
地方や他国から搾取し続けること。
そのような条件下にのみ、
そのシステムの維持は可能であったのではないか。
だから、
会社や地域といったコミュニティは溶解した今。
承認不安と同時に、所属の不安を感じている。
つまり、マズローの3段階目以降が溶け出している、
とも言えるだろう。
自己実現と、承認と所属が
それぞれを前提とせずに絡み合っている。
この春から自由の身となって、
自分とは何か?という問いを
大学生並みに問いかけている。
過去を振り返ったりしている。
昨日も金沢で20年ぶりに再会した谷内くんと
地域のプラットフォームについて話していて
なんか、1週間ぶりにあったかのような会話で
なんだかうれしかった。
僕は「畑は人と人をつなぐ」と直感して畑をやり、
不登校の中学生シンタロウに出会って問いをもらい、
小学生と神社で遊んだり、大学生の挑戦の舞台をつくったり、
試行錯誤の結果、本屋になった。
やってくる大学生の悩みを聞いて、
また問いをもらい、
その問いを解き明かしたいと大学職員をやってみた。
「やりたいことがわからない」の社会学
がテーマだ。
思想的には、
大学時代に出会った宮澤賢治先生の「芸術家であれ」
というメッセージと
自然農実践家の沖津一陽さんの
「ダイコンがダイコンを全うするように私は私を全うする」と
「小説吉田松陰」に書かれていた野山獄のエピソードでの
「学びあいで希望が生まれる」
が僕の中で大きい。
今回の旅は、
七尾で行われた高校生と大学生の座談会的なものの見学でした。
振り返りの時間も担当させてもらいました。
「予想できた」「予想できなかった」
「よかったこと」「わるかったこと」
マトリクスの振り返りをした。
大切なのは
「予想できなかったよかったこと」で
その人しか知らない(気づかない)具体的なエピソードが
出るということ。
参加者のこの人に、こんなことを言われた。
とか
あの時間にあの子、いい顔してた。
とか
そういうことが出てくること。
それこそがイベントの「価値」なのだ。
そしてそれを出すためには、
ひとりひとりの「顧客」にもっとフォーカスしなければならない。
僕は本屋(本を売っている)であり、
現代美術家として、「本屋のような劇場」をつくっていて、
高校生、大学生、20代社会人といったキーワードでの
場の設計者であったりファシリテーターであったりする。
キーワードは、
「少数派」であり、「ひとり」かもしれないと思った。
多くの人が「ひとり」であり、「少数派」である。
しかし社会システム、学校システムは「多数派」を要求してくる。
そのほうが効率的だからだ。
でもそれって、
「効率的」が価値を持つ時代、社会にのみ有効なのではないのか。
所属の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求が溶け出しているいま、
僕は本屋として、現代美術家として、場の設計者・ファシリテーターとして、
「機会提供」を続けていこうと思った。
ある人に、「機会提供」の結果に責任を持たないのことは無責任じゃないのか?
という問われた。
それは少数派だから、そう言われるのではないか。
多数派な学校教育であれ、その機会提供の責任は同程度にある、つまりいずれも責任はあまりないのではないか。
と僕は思っている。
そんな誕生日の朝です。
新しい1年もよろしくお願いします。
それは多数派ではないということ。
その意味でしかない。
少数派は、異常ではない。
多数派が正常ではないように。
でも、不安になるんだよ、少数派は。
多数派はなぜか自分たちが正しいと思っちゃうんだよ。
「学校」っていうシステムは、
「多数派」を作ってきたのではないか。
「少数派」もしくは「ひとり」にとっては
生きづらいシステムを作ってきたのではないか。
「社会」の中においていつも人は、
「アイデンティティ」(自分らしさ)不安にさらされている。
それを、
「多数派」が支配する社会は、
マズローの欲求5段階説が説明するように、
生理的欲求⇒安全欲求⇒所属と愛の欲求⇒承認欲求⇒自己実現欲求
「所属と愛」を会社と家庭で満たし、
(満たすようなシステムをつくり)
人を「多数派」にしてきた。
しかし、いま、その前提が崩れているのだ。
人口が増え続けること。
地方や他国から搾取し続けること。
そのような条件下にのみ、
そのシステムの維持は可能であったのではないか。
だから、
会社や地域といったコミュニティは溶解した今。
承認不安と同時に、所属の不安を感じている。
つまり、マズローの3段階目以降が溶け出している、
とも言えるだろう。
自己実現と、承認と所属が
それぞれを前提とせずに絡み合っている。
この春から自由の身となって、
自分とは何か?という問いを
大学生並みに問いかけている。
過去を振り返ったりしている。
昨日も金沢で20年ぶりに再会した谷内くんと
地域のプラットフォームについて話していて
なんか、1週間ぶりにあったかのような会話で
なんだかうれしかった。
僕は「畑は人と人をつなぐ」と直感して畑をやり、
不登校の中学生シンタロウに出会って問いをもらい、
小学生と神社で遊んだり、大学生の挑戦の舞台をつくったり、
試行錯誤の結果、本屋になった。
やってくる大学生の悩みを聞いて、
また問いをもらい、
その問いを解き明かしたいと大学職員をやってみた。
「やりたいことがわからない」の社会学
がテーマだ。
思想的には、
大学時代に出会った宮澤賢治先生の「芸術家であれ」
というメッセージと
自然農実践家の沖津一陽さんの
「ダイコンがダイコンを全うするように私は私を全うする」と
「小説吉田松陰」に書かれていた野山獄のエピソードでの
「学びあいで希望が生まれる」
が僕の中で大きい。
今回の旅は、
七尾で行われた高校生と大学生の座談会的なものの見学でした。
振り返りの時間も担当させてもらいました。
「予想できた」「予想できなかった」
「よかったこと」「わるかったこと」
マトリクスの振り返りをした。
大切なのは
「予想できなかったよかったこと」で
その人しか知らない(気づかない)具体的なエピソードが
出るということ。
参加者のこの人に、こんなことを言われた。
とか
あの時間にあの子、いい顔してた。
とか
そういうことが出てくること。
それこそがイベントの「価値」なのだ。
そしてそれを出すためには、
ひとりひとりの「顧客」にもっとフォーカスしなければならない。
僕は本屋(本を売っている)であり、
現代美術家として、「本屋のような劇場」をつくっていて、
高校生、大学生、20代社会人といったキーワードでの
場の設計者であったりファシリテーターであったりする。
キーワードは、
「少数派」であり、「ひとり」かもしれないと思った。
多くの人が「ひとり」であり、「少数派」である。
しかし社会システム、学校システムは「多数派」を要求してくる。
そのほうが効率的だからだ。
でもそれって、
「効率的」が価値を持つ時代、社会にのみ有効なのではないのか。
所属の欲求、承認の欲求、自己実現の欲求が溶け出しているいま、
僕は本屋として、現代美術家として、場の設計者・ファシリテーターとして、
「機会提供」を続けていこうと思った。
ある人に、「機会提供」の結果に責任を持たないのことは無責任じゃないのか?
という問われた。
それは少数派だから、そう言われるのではないか。
多数派な学校教育であれ、その機会提供の責任は同程度にある、つまりいずれも責任はあまりないのではないか。
と僕は思っている。
そんな誕生日の朝です。
新しい1年もよろしくお願いします。
Posted by ニシダタクジ at 05:44│Comments(0)
│日記
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