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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2018年08月16日

「人」にフォーカスする本屋


「日本文化の論点」(宇野常寛 ちくま新書)

お盆読書。
宇野さんの本。
スラスラ読めた。
「メディア」屋の人は必読だと思った。
本屋もそう。

インターネットとはなんだったのか?
AKB現象とは何なのか?
「文化」の役割とは何か?
そんな問いを持っている人に読んでほしい1冊。

キーワードは「想像力」かなあ。

~~~以下一部引用

かつては、宗教がこの想像力の増幅器として機能して、「個」と「公」、「一」と「多」を結びつけていました(祭政一致)。しかし時代が下り、人々が精神の自由を求めるようになると宗教という装置は機能しなくなった。

その代わりに台頭したのが物語(イデオロギー)です。民族や国家の歴史を、個人の人生を意味づける「物語」として機能させることで国民統合を計る、という社会的回路がやがてヨーロッパを中心に標準的になります(国民国家)。

「自分は~民族である/~国民である/~党員である」という物語で、個人の人生の価値を保証することで、「個」と「公」、「一」と「多」を結ぶわけです。このとき大きな役割を果たしたのが新聞やラジオといったマスメディアの存在です。

とくに、すべての国民が同時に同じ番組に耳を傾けることのできるラジオの登場は決定的でした。20世紀前半はこのラジオの威力を用いて、国民の熱狂的な支持を集めることで急進的な独裁政権がいくつか生まれています。ナチス・ドイツやイタリアのファシズム政権がその代表です。

言ってみれば20世紀前半はマスメディアの進化が災いして、それが政治利用されファシズムが台頭し、世界大戦が二度も起こって危うく人生が滅びかけた時代です。

その反省から、20世紀後半の西側諸国では、マスメディアがいかに政治から距離を取るか、政治からの独立性を保つか、が大きな課題になりました。しかしその結果、今度はマスメディアの力が大きくなりすぎて国によっては民主主義が立ち行かなくなっています。

ではどうするか。答えは明白です。
マスメディア「ではない」装置によって「個」と「公」、「一」と「多」を結ぶ以外にありません。ソーシャルメディアがその役割を果たすのです。

これまでのメディアについての議論では、情報化の進行は主に誰もが発信者にも受信者にもなれること、つまり双方向性に力点が置かれていた。

たとえば映画というのは、実際には非常に能動的な観客を対象にしているメディアです。(中略)それに対して、テレビはかなり受動的な視聴者を想定したメディアと言える。より正確に言えば、ダラダラ見たいと考えている視聴者に対応できる番組構成が要求されている。

では、能動性/受動性という観点から考えたとき、インターネットはいかなるメディアだと言えるのか。いや、いかなるユーザーを想定したメディアだといえるのか。それはずばり、その中間です。より正確には、インターネットは映画よりも能動的に扱えるし、テレビよりも受動的に消費できる。

「ここで重要なのは、人間というのはそもそも映画が想定するほど能動的でもなければ、テレビが想定するほど受動的な生き物でもないという点です。」

仮に映画が想定している人間の能動性を100、テレビが想定している能動性を0として考えた場合、人間は0から100のあいだを常に揺れ動いている(あるいは100以上や0以下にもなる)存在です。僕の考えでは、ここにインターネットというメディアの本質があります。

これまで(20世紀)のあいだは情報技術が未発達だったために、人間本来の姿、つまり常にその能動性が変化する主体としての性質に対応することができずに、(能動的な)「観客」や(受動的な)「視聴者」といった固定的な人間像を「想定するしかなかった」と考えるべきでしょう。

人間を二元論的に捉えることが困難になっている。20世紀後半の人間観というのは「能動的かつ理性的な主体=市民」と「受動的かつ感情的な主体=動物」というふたつの側面から人間を捉えようとするもので、前者に対しては規律訓練によって、後者に対しては環境管理によって対応しようとしてきた。

これまでは技術の問題で、人間を中動態として考えることが非常に困難だった。しかし、テクノロジーの発展によってインターネットが登場したことで、僕たちは中動態としての(本来の)人間を可視化することができるようになったわけです。

だからこそ、インターネットについて考えるということは、単にメディアの変化を考えるということに留まらず、「人間という存在をどのようなものとしてイメージしていくことが可能か」という非常に巨大な問いにつながっていくのです。

「若者の街」渋谷から「埼玉の首都」池袋、「サブカルの聖地」下北沢、「オタクの聖地」秋葉原、など特定の都市が若者文化を代表することがなくなり、それぞれのトライブごとに街々がすみ分けるようになってきた。

「秋葉原」という街は若者たちが自分たちの力でー「~が好き」という気持ちで、そこを自分たちの場所に変えていく空間として機能していたからです。

アニメの「聖地」。普通の人にはなんでもない場所が、そのアニメのファンにとっては特別な場所になる。ここではオタクたちがその想像力でなんでもない場所を「意味」と「歴史」を与えている。

かつては「地理」が「文化」を生んでいた。「この町には~な産業が発達した歴史があって、そのために・・・系な施設や商店が多い」云々、といった形式で地理が文化を規定していた。しかし、現代は逆です。文化が地理を規定している、と言えます。

今もオタクたちは郊外のショッピングモールや、ありふれた田舎の駅前の「風景」を自分たちの力で着々と「聖地」に変えていっているのです。

サブカルチャーの歴史とは、半ば創作者であり、半ば消費者である人簿とのコミュニティーたとえばインディーズ作家たちとそのファンたちのコミュニティから文化運動が発生していく、という現象の反復です。

情報化が進行するとコンテンツ(情報)自体でなく、それを媒介としたコミュニケーションこそが価値を帯びる。これはコンテンツビジネスのあり方を根本から書き換えかねない、極めて大きく本質的な変化ななずです。

ゲームというのは、究極的には手段と目的のバランスに介入して、イコールに近づけることで快楽を生むものです。つまり、ゲームを攻略することは手段であると同時に目的でもある。RPGをプレイするとき、レベル上げやアイテムの探索自体が面白くなければならない。

すべてが自己決定=実力で決定されてしまうゲームは攻略の方法が明確に存在するため、人はすぐ飽きてしまう。対してすべてが運で決定されてしまうゲームもまた、人は攻略(介入)の余地がなくおもしろみを感じないのです。

徹底してフェアでオープンな自己決定と、徹底して偶然性に左右される運命。このともに現代社会において信頼を失って久しいもの(そして一見相容れないもの)を奇跡的に両立させている。それが、AKB48の本質なのだと思います。

AKB48も若手芸人たちのM-1グランプリなどの番組も「ゲーミフィケーション」(ゲーム化)の流れの中で、「大きなゲーム」として機能している。
1 個性的なシステムを持つ番組(ゲーム)をプレイすることで魅力が引き出される
2 ゲームの中にいる複数のプレイヤーのうち誰を応援するかは自由

「政治と文学」つまり、「社会と文化」「世界と個人」「システムと内面」がうまく結びついていない。
近代的な(大きな)「物語」が機能しなくなったときの、その代替物としての大きな「ゲーム」の可能性。

<昼の世界>からは見向きもされない<夜の世界>で培われた思想と技術ーここにこの国を変えていく可能性が詰まっている。

<昼の世界>と<夜の世界>のパワーバランスは圧倒的に<昼の世界>。
<夜の世界>が勝っているのは、目に見えない力、つまり「想像力」。<昼の世界>の住人達が思いつかないアイデアやビジョンを見せることで彼らを魅惑して、ワクワクさせて、味方になってもらう、「推して」もらうしかない。

~~~ここまで一部引用

と、またしても引用しすぎ。
ホント、買ってください。笑

AKBとアマゾンが「ロングテール戦略」を取っているという点で
似ていること。

変革を起こすときは、
平氏的アプローチじゃなくて、源氏的アプローチで。

みたいな。
エッセンスの詰まった1冊でした。

序章を読むだけでも、
メディアの変化と歴史について、
なかなか大きな示唆があります。

僕が感じたのは、
「本屋」という「場」、
あるいは小売業という「場」がこれから
どうなっていくのか、っていうこと。

お店が「メディア」であるとすれば、
(僕はそう思っているのだけど)

「ここで重要なのは、人間というのはそもそも映画が想定するほど能動的でもなければ、テレビが想定するほど受動的な生き物でもないという点です。」

たぶんココ。
ここに対応できるツールがインターネットであると
宇野さんは言う。

だから、たぶん、ここの部分を
SNSなどのツールを使って、
本屋というか「お店」がデザインできればいいのだろうと。

おそらくはこれが
今流行っている「ファンクラブ」的なビジネス
になっていくのだ。

ツルハシブックスの「サムライ」制度は、
まさにそのあたりをついていたのだなあと。

この本を読んで、
AKB48的なビジネスの「仕組み」が
やっと読み解けた。
そう読めばいいのか、って思った。

だから、AKBを「総選挙」だと思って、
その手法だけ真似する「総選挙」的なものが世の中にあふれているのだけど。
それは、消費者という主体としてのあなた(の1票)に
フォーカスしているという点では同じだ。

AKBの神髄は、「会いに行けるアイドル」、つまり、
秋葉原の専用劇場に行けば、毎日公演をやっていて、
そこで見れるばかりか、CDについている「握手会参加権」を
行使すれば推しメンと握手ができることだ。

それは、AKBというゲームに自分自身が
「参加」「登場」し、かつゲームの行方に
影響を与えられる、ということである。

そこの意味を理解せず、
「総選挙」という手法だけを真似しても、
AKBほどのビジネスにはならない。

僕は、これからの小さな小売業は
「参加」だけではなく、「ケア」が必要になると思っている。

たとえば、古本屋さんにいて、
「この本はあの人が必要としそうだ」
と思い、購入して店頭に並べる、とか。

この商品は仕事で疲れて
1人暮らしの部屋に帰ってきたときの
こういうシーンで飲んでほしいとか。

それを参加者と一緒に考えていくような、
そんなビジネスになっていく。

そもそも「本屋」っていうのは
そういうビジネスだったのではないか。

本を見ていて、誰かの顔が浮かぶ。
誰かの生活シーンが浮かぶ。
その先の未来を想像する。

宇野さんが最後に

<夜の世界>が勝っているのは、目に見えない力、つまり「想像力」。<昼の世界>の住人達が思いつかないアイデアやビジョンを見せることで彼らを魅惑して、ワクワクさせて、味方になってもらう、「推して」もらうしかない。

こう書いているように、
キーワードは「想像力」だ。目に見えないものに思いを馳せること。

これからの本屋は、そんな想像力を持って、
「人」にフォーカスして、本を並べていくこと。
お客さんが「参加」できる仕組みをつくること。

たぶんそんな感じ。

サムライ制度とか
暗やみ本屋ハックツとか
いい線いってるわ、と改めて思った読書でした。

宇野さん、素敵な本をありがとうございます。

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Posted by ニシダタクジ at 08:01│Comments(0)
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