2018年11月19日
アイデンティティとコミュニティ
「レイヤー化する世界~テクノロジーとの共犯関係が始まる」
(佐々木俊尚 NHK出版新書)
2012年4月10日のブログと同タイトル。
http://hero.niiblo.jp/e165439.html
同年7月7日にも
「アイデンティティの半分はコミュニティでできている」
http://hero.niiblo.jp/e182795.html
で書いていて、
そのあいだの5月11日にも
「生きる力とはアイデンティティを再構築する力」
http://hero.niiblo.jp/e171388.html
というタイトルで書いている。
2012年のテーマは「アイデンティティ」だった。
そこに帰ってきたのかもしれない。
「やりたいことがわからない」
「自分に自信がない」
「就職したいけど就活したくない」
この謎を解くには、
「アイデンティティ」というテーマに行き当たる。
冒頭の本は、2013年の本なのだけど、
ここには歴史的視座から、「場」についての興味深い考察がある。
中世から近代へ
帝国から国民国家へ
そして、国民国家というシステムの限界と
「場」による支配へ。
と乱暴に要約するとこういう感じになるのだけど。
昨日も書いたけど、
国民国家の神髄は、
「ウチとソトに分ける」
ということだという。
たしかに、
ヨーロッパと「そのソト」を分けて、植民地を作っていった。
国内と「そのソト」を分けて、戦争を仕掛けていった。
企業内と「そのソト」を分けて、競争を勝ち抜いていった。
「コミュニティ」っていうのはウチ(内側)のことだ。
実はそれと「アイデンティティ」は密接にかかわっている。
「ふるさと難民」という言葉がある。
東京出身でふるさとがない大学生が
地域に出て行って、そこを「第二のふるさと」にする。
それって
まさに「コミュニティによってアイデンティティを再構築」しているんじゃないか。
しかし。
根本的には、その手法は使えなくなる。
国民国家、資本主義という現在のシステムのベースにある
「ウチとソトに分ける」という
方法論自体がすでに限界に達しているからだ。
収奪すべきソトはもう存在しない。
だからこそ、ブラック企業の問題などが
起こっているのだ。
もう、ウチもソトも存在しない。
権力構造でも力関係でもなく、
テクノロジーという「場」に下から支配されている。
だから、所属すべきコミュニティを失い、
人はアイデンティティ不安を抱えているのではないか。
アイデンティティ不安。
それは自分という存在への不安だ。
だからこそ、
個人レベルでこそ、リアルな「場」を必要としているのだと
僕は思う。
それは「コミュニティ」というウチを作ることではないのでは、というのが
現時点での仮説である。
Posted by ニシダタクジ at 10:41│Comments(0)
│本
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