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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2019年06月28日

それ、「トロッコ」じゃないすか?

それ、「トロッコ」じゃないすか?
「仕事なんか生きがいにするな」(泉谷閑示 幻冬舎新書)

新津のあやさんに頂きました。
めちゃタイムリーでうれしかった!

冒頭で、
「ハングリー・モチベーション」の終焉が叫ばれる。

何らかのハングリーな状況に直面すると、
ひとはどうしても、まずはその解決を図ろうとし、
それさえ解決すれば幸せになれるのではないかと考えてしまう。

ところがその「ハングリー・モチベーション」によって駆動されてきた
時代は終わりを告げ、「なぜ生きるのか?」「なぜ働くのか?」といった
「実存的な問い」が近年増えてきているのだという。

さて。
まだ第1章しか読んでないのだけど、
エッセンスに詰まっていたので紹介します。

「活動的だな」と周りから思われている大学生は、読んでみるといいかもです。

~~~ここから引用

2,3歳の時に「イヤイヤ期」があるように、人はみな、「やりたくない」という意思表明から自我に目覚める。

「あなたのためよ」という名目の下、親の価値観に縛られて「ノー」を許されない状況で生き抜かなければならない子供たちは、主体性を放棄する以外に生き延びる道がありません。

つまり、こうして大切な自我の基本であるはずの「好き/嫌い」というものが封印されてしまうことになります。

彼らは大概、様々な事情により「自我」の芽を摘まれて育ってきた歴史を持っています。それゆえ、人生を順調に進んでいるように見えても、その内実においては「生きるモチベーション」という動力のない、言わばトロッコのような在り方だったのです。

順調に進んでいた時には、本人自身も周囲も、それが問題であるとは思いもしなかったわけですが、レール上の小石のような障害物によって、あっけなく進めなくなってしまいます。

つまり、そもそも他動的に押された慣性で走っていたため、「それぐらいの困難は乗り越えるべきものだ」といくら発破をかけられても、そもそも動力が見当たらないのです。

このように動けなくなり「うつ状態」に陥ったクライアントは、そこではたと「生きるモチベーション」の不在に気づくことになります。

このモチベーションの不在は、「自分がない」ことから生じた問題なのですが、その「自分」に対して唐突に「何がしたいのか」「何がイヤなのか」と問いかけてみても、「自分」は何も答えてくれません。長い間、「ノー」を禁じられて「自分」の声を聞かずに来たのですから、そのように扱われてきた「自分」の側ももはや主張することをあきらめてしまっていて、口をきかなくなっているのです。

このような背景があって生じた「うつ状態」なので、治療としては、深く丁寧に、実存の水準にまでアプローチしなければなりません。ですから、こうした病態にいくら薬物療法を行っても、動力のないトロッコに燃料を入れたり、燃焼賦活剤を入れたりするようなもので、原理的に効果が出るはずもないのです。

~~~ここまで引用

めちゃめちゃリアルだ。
「うつ」のリアル。

本来は実存的な課題なのに、
それを実利的なというか表面上のアプローチで
もとに戻す(また働ける)ようにするっていう方法は
はたしてどうなのか?と問いかける。

そして、エーリッヒ・フロムの「受動的人間」の定義をつづける

~~~ここから引用

刺激に対する単なる反作用としての「能動」、あるいは外観は情熱のようでも、実は外力に動かされている「能動」は、いかに大げさな身振りをしても、基本的には受動である。(「人生と愛」エーリッヒ・フロム)

外見上いかに「能動」に見える活動的な行為であっても、それが内面的空虚さを紛らすために消費社会によって生み出された、外から注入された欲求で動いているものは、その内実は「受動」でしかないのだ、と言っているのです。

「社交的にいろんな人たちと交流する」「日々を有意義に過ごす」「自分が成長するように時間を大切に使う」といった学校レベルでは大いに奨励されそうな行動も、「空虚」からの逃避がその隠された動機なのだとすれば、これもやはり「受動」の一種に過ぎないと言えるでしょう。

将来どんな仕事に就くべきかといった「社会的自己実現」について苦悩することよりも、もう一つ深い層の「生きることの意味を求める」という実存的な飢えの方が若い世代にとってはむしろ切実な問題になってきているわけです。

~~~ここまで引用

やばいっすね。
外観上の「能動」や「主体的」であることを
駆動している要因が他者だったり、恐怖だったりしている。

これは、あるあるですよね。
この本にも書いてあるけど、

・「休日を有意義に過ごした」と思いたいので、出来合いのレジャーや娯楽に時間を使う。
・通勤時間といえども時間を無駄にしたくないので、経済新聞を読んで経済情勢についてキャッチアップするか、語学学習にあててスキルアップする
・独りぼっちの感覚に陥らないように、LINEやツイッター、メールなどのネットツールで常に誰かとつながっていようとする。

これらはどれも、私たちが内面的な「空虚」との直面を避けるために、ついつい行っている「受動」的行動です。

活動的な大学生あるあるとしては、「不安」という外的要因に受動的に反応して、「何かしなきゃ」とインターンに行く、海外にボランティアに行く。

それをやっているときは、不安から逃れられるけど、終わるとまた不安が襲ってくる。
そういうの、起こってますよね?めちゃめちゃ起こってる。

じゃあ、どうしたらいいのか?
っていうのはこれから読み進めて書いてあるのかもしれませんが、

僕としては、やっぱり最初のトロッコの話が衝撃的で、「他者が(特に親や先生)が押してくれたトロッコが、慣性で走っているだけ」っていう表現は、そうかもって思いますね。

3年前にセンジュ出版の「夢のはいたつにん」(教来石小織著)を読んだときに、

ああ、夢ってのりものなんだって思った。
それはきっとエンジンのついている乗り物。
いろんな場所に連れて行ってくれる乗り物。

http://hero.niiblo.jp/e478586.html

でもさ、親や学校の先生に言われたり、不安によって動かされている
「トロッコ」は、一度とまってしまうと、もう、走れないし、上り坂でも止まってしまうんだよね。

だから、最初に動力(エンジン)のついた乗り物を作らないといけないんだ。

そのためには、自分の「好き」と「嫌い」を表明して、
「好き」や「好奇心」を駆動させて、上り坂を登ってみる、ってことを
はじめないといけないし、

もし、ひとりでそれが難しいのなら、
何人かで動力のある乗り物をつくって、
乗ってみればいいと思う。

その動力ってなんだろうね?

やっぱ、なぜ?
っていうか、ミッションっていうか、そういうことなのかな。

どうしてそこに行きたいんだ?

っていう問いに答える何か。
それが動力となって、進んでいけるのかもしれない。

あなたの乗ってる乗り物。

それ、「トロッコ」じゃないっすか?

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