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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2019年11月25日

二元論という禁断の実

二元論という禁断の実
「普通がいい」という病(泉谷閑示 講談社現代新書)

この春、衝撃を受けた
「仕事なんか生きがいにするな」(幻冬舎新書)の著者、泉谷さんの2006年の著作です。
http://hero.niiblo.jp/e489521.html
(貨幣経済が「質」を「量」に還元した 19.7.4)

今回取り上げるのは 第3講:失楽園です。
「頭」と「心」の話が分かりやすく解説されています。

人はなぜ思い悩むのか?
「頭」と「心」と「体」はどう関係しているのか?

そんな問い。

~~~ここから抜粋して引用

二元論という禁断の実
図3-1で「頭」と「心」と「身体」の関係が描かれています。

「頭」とは理性の場であり一方「心」は感情や欲求の場で、「身体」と一心同体につながっています。

「心」の上に「頭」がついていますが、そこにはフタがついていて、これは頭によって開閉されます。ですから、このフタが閉まっているときは、「頭」VS「心」=「身体」という内部対立というか、自己矛盾が起こります。しかし一心同体である「心」と「身体」は、決して食い違いを生じません。

「頭」は理性の場所で、理性とはコンピューターのような働きをするもので、1/0という二進法を基礎に動いています。

ここでは、計算や情報の蓄積、それを基にした情報処理つまり推測・分析・計画・反省などを行います。使う言葉としては、「頭」は「~すべき」「~してはいけない」といった言い方をする。英語で話すとmust やshouldという系列になります。論理的であること、因果関係を考える働きがありますので、必ず理由がくっついているという特徴もあります。

また、時間・空間の認識では、過去を分析し、未来やここ以外の場所をシュミレートするのが得意です。過去の「後悔」未来への「不安」などはここで生み出されます。逆に「今・ここ」については苦手で、正しくとらえることができません。

また重要な特性としては、「頭」は、とにかく何でもコントロールしたがるという傾向を持っています。自分の「心」や「身体」に対して、まはは降りかかる運命に対して、自然に対して、といった具合に、その対象は際限ありません。間違ってはならないのは、いわゆる「欲望」というものは、「欲求」と違って、「心」からではなく、この「頭」のコントロール志向から生じてくるものだということです。

一方、「心」は「~したい」「~したくない」「好き」「嫌い」等々の言葉を使います。英語で言えば、want toやlikeの系列です。理由や意味・意義などは一切くっついてきません。いきなり判断だけを言ってくるのです。

時間・空間の認識では、「頭」と違って、「今・ここ」に対して焦点を当て、シャープに反応します。ですから非常に即興的で、「前はこうだったから、今度もそうだろう」といったような過去の情報に基づいた反応はしません。それをするのは記憶やシュミレートをつかさどる「頭」の方です。

またオリジナルな感情、つまり喜怒哀楽は「心」から生まれますが、期待をかけて叶わなかった時に起こってくるような感情は「頭」から生まれます。なぜならば期待というものは、未来をシュミレートし、こうあって欲しいとコントロール志向を向ける「頭」由来のものだからです。

「身体」は「心」と直結していますので、密接に連動しています。欲求や感覚などは、この両者によって生み出されるものです。また「身体」と「心」は一心同体ですから、「心」に元気がなければ「身体」も元気がないということになります。

他の動物と人間が決定的に異なっているのが「頭」という部分であり、この「頭」が人間にまつわる様々な現象の鍵を握っているわけです。

「頭」は、二元論が基礎になっている理性の場ですが、これを仏教の言葉で言うと、分別ということになります。善/悪、正/誤などなど、この分別の働きが人間の文明をつくってくれてきたのですが、しかし、この働きが同時に人間の不幸を生み出す源にもなっているのだということを、キリスト教・イスラム教・ユダヤ教共通の聖典である「旧約聖書」や、また仏典でも、口を揃えて言っているのです。

旧約聖書・創世記の中の「失楽園」の話では、アダムとイブが神の禁を破って禁断の果実を食べてしまいます。すると途端に、自分たちが男/女の違いがあることに気づき、恥ずかしくなってイチジクの葉で陰部を覆うことにしました。これが羞恥心の始まりというわけです。

一般的に考えて、人間が善悪の判断ができるようになることはむしろ望ましいことなのではないか、それなのに、なぜ神はこれほどまでに厳しく禁じたのか?

「善悪の智慧の実」は、つまり、物事を善/悪に判断する二元論の実であったのです。ですから二人とも同じ人間であったのに、男/女という区別が生まれた。そのために性差の象徴である陰部を覆わざるをえなくなったのです。

それでは、神はなぜ、二元論の獲得を人間に厳しく禁じたのでしょうか。二元論を獲得した後、アダムとイブは神に対して、責任転嫁という悪知恵を使って言い逃れしようとしましたが、これが神の怒りをかってしまいました。

キリスト教において、人間はあらかじめ「原罪」を負っているという考え方がありますが、その「原罪」とは、神の禁を破って「善悪の智慧の実」を食べてしまったことを指します。よくある解釈では「神の禁を破ったこと」に重点を置いたものが多いようですが、私はこの「二元論の獲得」にこそ、人間の「原罪」を見るべきではないかと考えるのです。

~~~ここまで抜粋して引用

「二元論の獲得」こそが「原罪」である。

これはなんか、すごいことです。
「頭」と「心」と「身体」の関係。

そう考えると、近現代は、「頭」が「心」と「身体」を支配しようとしてきた時代なのかもしれません。「宗教」は「科学」へと取って代わられ、そしていま「科学」の価値が揺らいでいます。

その認識を持つこと。

本書はこの後、「科学」と「頭」による支配について言及しています。

「二元論的理性に基づく科学は、形あるもの・数量化や計量ができるもの・再現可能なもの・必然性の明らかなものについて、しかも観察行為が対象に影響を与えない場合しか扱えないという大きな限界があります。しかし、その限界の外にあるような、形なきもの・質的なもの・一回性のもの・変化し続けるもの・偶然性に支配されているものなどの方が、私たちにとってはむしろ重要です。なぜなら、それらの性質とは、「生きているもの」や「大自然」の特性そのものだからです。」

「人間をひとつの国家にたとえてみると、現代人の多くは、「頭」が独裁者としてふるまう専制国家のようになっています。」「心」=「身体」は、常に「頭」に監視され奴隷のように統制されていて、ある程度のところまでは我慢して動いてはくれますけど、その我慢が限界に来ると、何がしかの反乱を起こしてきます。それがうつ状態や幻覚、妄想、そして摂食障害などです。いわば「心」=「身体」という先住民族の国に、「頭」という移民がやってきて、いつの間にか先住民を支配するようになった状態、これが現代人の状態です。別のたとえをすれば、社長である「心」=「身体」が、「頭」という簿記や計算の特異な秘書を雇ったのだけど、いつの間にかその秘書が社長を仕切り始めた、そんなイメージです。」

そして、こうまとめます。

本来、人間の中心は「心」=「身体」の方なのだということを「頭」はわきまえる必要があります。「心」=「身体」は「頭」などが及びもつかない深い知恵を備えているものです。しかし、それがあまりにも桁外れに凄い能力であるために、「頭」にはその凄さが分からない。単にきまぐれ、デタラメとしか理解できない。それで「頭」は、「心」=「身体」を劣ったものだと誤解している。その結果「頭」が思い上がってしまって、「心」=「身体」をコントロールすべきものだと考え、このような独裁状態になってしまったのです。」

という感じで引用しまくってしまいましたが、この「頭」と「心」=「身体」の関係は、知っておいたほうがいい話だなと思いました。

教師と生徒の関係にも似ているなと。「心」=「身体」とは、内なる自然である、と出てきます。

木曜日に高知・嶺北で見た瀬戸さんによる「嶺北探究」の授業。
そこには「自然」があった。「心」に耳を傾けていました。

「二元論の獲得」という原罪。
「頭」の限界。「心」=「身体」へのシフト。
これがいま、起こっていることなのではないかと思います。

ますます、ここ200年の近現代社会が特殊の状況にあったのだなあと思いました。

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Posted by ニシダタクジ at 08:47│Comments(0)
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