2020年04月09日
「何を学ぶか」から「誰と学ぶか」へ
22世紀を見る君たちへ~これからを生きるための「練習問題」(平田オリザ 講談社現代新書)
読み始めました。
第2章 未来の大学入試(二)まできました。
いちばん刺さったのはこれ。
「何を学ぶか」から「誰と学ぶか」へ
~~~以下一部引用
現在、ハーバード大学やMITあるいは日本でも京都大学などが、講義内容のインターネットでの公開を始めている。これは一見、不思議な事象だ。学生は厳しい受験戦争を勝ち抜き、また高い授業料を払っているのに、そこでの授業はインターネットでも見られるのだ。
インターネットの時代には、単純な知識や情報は世界共有の財産となる。ネット社会は情報を囲い込むシステムではない。情報をできるだけオープンにして、そこに集まってきた人たちに広告を見せることで、ほとんどのネット産業は成り立っている。
もはや情報を囲い込むことはできない。知識や情報を得るコストは、時間的にも経済的にも急速に低減した。そのようなネット時代を前提にして、ハーバードで一緒に議論することに意義がある。MITで、ともに学ぶことに意義がある。いや、もはや、そこにしか大学の意義はないと、世界のトップエリート校ほど考えている。
だからそこでは、「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要になる。それは学生の質の問題だけではない。教職員を含めて、どのような「学びの共同体」を創るかが、大学側に問われているのだ。
反改革派の方々は口々に「受験勉強にもいい点がある」と言う。それらはいろいろと理由はつけても結局のところ、「達成感が得られる」「根性がつく」「集中力が養われる」といった、「それは部活でも、他の場所でも養えるんじゃないかな?」と思えるものが多い。
たしかに従来型の受験勉強で救われる人もいるのだろう。だがそれは改革自体を阻む理由にはならない。
「努力」や「根性」「従順さ」も大事なのだろうが、それそのものが、もはや人生の中で優先順位が低くなってしまっている。先に掲げた「主体性」「多様性」「協働性」などの方が、21世紀の日本社会と国際社会を生きる上では、少なくとも同等か、それ以上に必要なものとなっている。人生にとって必要な能力自体が変化しているのに、受験がそのままでいいわけがない。
~~~ここまで一部引用
大学入試は近いうちに変わる。
求められる能力も変わっていくる。
いや、そもそも。
新型コロナウイルス感染防止のための一斉休校を受け、
オンライン上での授業が行われたり、
ウェブで学べる様々な学習コンテンツを、
ほとんどが無料で利用できることがわかった。
この本に書いてあるように、
「コンテンツ」(知識や情報)そのものは共有物となって、いつでも誰でも取り出せるものとなっている。
学びが「コンテンツ(知識や情報)の移転」である時代は終わりつつあるのだ。
大学だけではない。高校もそうだ。
「何を学ぶか」から「誰と学ぶか」へ、さらには「どこで学ぶか?」
がとても大切になっていく。
キーワードはこの本で言えば、「学びの共同体」だ。
SCHシンポジウム的に言えば、「学びの土壌」だ。
「誰と」
「どこで」
「何を」
学ぶのか。
「何を」のところ入るのは、単にコンテンツではない。
地域にある題材・課題を探究し、創造する学びになる。
その学びが、この町でしかできない理由。
ここにある「学びの共同体」「学びの土壌」でしかできない理由。
この状況の中で、その問いに答えていくこと。
僕だけでなく、共同体として答えていくこと。
そんな学びの場をつくっていく。
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