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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年04月28日

「風の通り道」のような本屋

「風の通り道」のような本屋
「しょぼい生活革命」(内田樹×えらいてんちょう 晶文社)

いやあ。
いい本読んだなあって。

僕にとって文句なくいい本っていうのは、
「やっぱ俺が本屋やらなきゃいけないんじゃないか?」
って思い出させてくれる1冊。
そんな1冊になりました。

「共同体の基礎理論」の直後に読んだという奇跡も
本文中に見受けられて読書運の強さを感じました。

さて。
大学生のみなさんにお届けしたい部分は
「第4章 教育、福祉制度を考える」より。

~~~ここから引用

学校教育は戦後のある時点から「工業製品を作る」という産業形態に準じて、制度設計されるようになりました。それは適切に管理された工程をたどって、仕様書どおりの「製品」ができていくプロセスを教育についても理想とする考え方です。

その前の時代、学校教育は農業のメタファーで語られていました。種子を蒔き、肥料や水をやって、あとは太陽と土壌に任せておくと収穫期になると「何か」が採れる。

「工場での工業製品を製造する」というのは第二次産業が支配的な業態だった前期産業社会に固有のメタファーです。「教育の質管理」とか「PDCAサイクルを回す」とか「シラバスによる工程管理」とか、そういうのは全部「工場でものを作る」ための作業なんです。

「私はこれこれこういう人間ですと自己規定して、それを言葉にしてずっと維持してゆく」というアイデンティティ圧力というのは、工業製品に固有のものなんです。缶詰や乾電池だったら、規格化しないと使えない。だから、つよい同質化圧が学校教育で働く。

一度仕様書に組成や使途を定められた製品は、途中で仕様を変更することが許されない。いまの日本社会では、その「仕様変更の禁止」のことを「アイデンティティー」と呼んでいるんです。

~~~ここまで引用

うわー。
学校教育(のキャリア教育的文脈)で語られるアイデンティティってそういうことだわ。
それだよね、違和感の正体。

工業中心の社会・時代は終わったんです。
だいぶ前に。

~~~ここからさらに引用

もし、現代において支配的な産業構造のメタファーを適用するとしたら、「離散的なネットワークの中で、さまざまなアクターが自由に出会うことでそのつど一回的に価値物が創造される」というイメージになるはずなんです。

だから、教育も遠からず、工業製品だけではなく、機能とか情報とか生命力とか、そういう「かたちのないもの」を原イメージとして組織化されるようになります。

だとしたら、これからの教育は学校で斉一的に教育されるのではなく、むしろ自己教育というものになると思います。自分のための教育環境を自分で手作りして、自己教育する。そういうかたちのものになると思います。必ず、なる。

その場合の自己教育の目標は一言で言えば、複雑化ということです、教育環境を選ぶ場合に、子どもたちは「自分がそのプロセスを経由することで、どれだけ複雑になれるか」、それを問う。

いまのこの社会の犯している最大の誤謬は「単純であるのはいいことだ」という信憑です。どんな場合でも、同じように考え、同じようなことを言い、同じようにふるまう首尾一貫したアイデンティティを持った人間でなければならないという強い自己同一化圧がかけられている。

~~~ここまでさらに引用

なっていきます。
そういうのを創りたいと願ってもいます。

あと、
「共同体の基礎理論」(内山節 農文協)で読んだばかりの宗教の話からも一節だけ。

「明治政府は宗教の近代化、宗教の国家統制をめざしたわけですけれど、そのときまず標的にされたのが、神仏習合という数理、もう一つは遊行の宗教者という生き方でした。神仏習合のという数理と、宗教者は旅をするという生活形態は実際には不即不離のもので、それこそが日本人にとって一番ベーシックな宗教生活だった。それを支えていた人たちが最初に弾圧されて、神道と仏教という体系化されたものだけが残り、次に仏教が弾圧されて、さらに神道のなかで国家管理になじまないものが廃された。」

これもすごいね。

「効率化」のために、「暮らし」と「宗教」をまず分離したのだと。
そして、「工業化」のために均一化された製品を生み出すための「教育」
が始まったのだ。

でも、世の中はすでに変わっていて。
ただ、「効率化」によって金銭的価値を生み出せる会社というか仕組みは
まだ残っているから、そのハザマで学ぶ大学生にとっては非常にもやもやしたものがあるのだろうと。

「にいがたイナカレッジ」が取り組んでいる地域の集落に入り込んで1か月生活する、
みたいなのは、そういう「身体性」を伴う何かを必要としているからなのではないか?
言語化できない何かをつかみたいからなのではないか?
そうやって自らの「アイデンティティ」そのものを複雑化していく実践なのではないか?
と思った。

あとがきでこの本の対談の司会を務めた中田考さんが引用している内田さんのブログの文面にシビれた。

師弟関係における「外部への回路」は、「師の師への欲望」を「パスする」ことによって担保される。

真の師弟関係には必ず外部へ吹き抜ける「風の通り道」が確保されている。あらゆる欲望はその「通り道」を吹き抜けて、外へ、未知なるものへ、終わりなく、滔々と流れていく。

師弟関係とはなによりこの「風の通り道」を穿つことである。この「欲望の流れ」を方向付けるのが師の仕事である。
師はまず先に「贈り物」をする。
その贈り物とは「師の師への欲望」である。

うわー。
それです。

僕が実現したい本屋はそういう本屋です。
「風の通り道」的な本屋を、ぼくは創ります。

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Posted by ニシダタクジ at 09:04│Comments(0)
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