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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年06月22日

帰ることができる場所をともにつくる

帰ることができる場所をともにつくる
「就活原論」(宮台真司 太田出版)

「就活への違和感」とか言っている人、
社会学的に就活をとらえ直したい人にとって面白い1冊。

ただ、入門編としては
「14歳からの社会学」をお勧めします。
「就活原論」は用語がちょっと難しいです。

参考:「自由」と「承認」と「尊厳」(16.11.18)
http://hero.niiblo.jp/e482857.html
参考:「生きがい」と「仕事」の逆転(16.11.21)
http://hero.niiblo.jp/e482895.html

エッセンスは上記の本に書かれているのだけど、この「就活原論」では、「就活」にテーマを絞って書かれている。

この本のハイライトというか、刺さるところは、やはりこの一節。

仕事での自己実現機会は希少ですが、これを煽ることで、低成長時代の高付加価値化市場に相応しい人材の「動機付けと選別」を行います。そして「仕事での自己実現」競争に敗れた大半の成員には、代わりに「消費での自己実現」を提案するわけです。

うわ。これが欠乏時代から消費社会にシフトした後のシステムなんだなあと。これと「承認」(欲求)が絡んでくるから大変なことになるのではないかと。

~~~以下読書メモ1

前近代     ⇒近代
属性主義    ⇒業績主義
生得的地位で評価⇒能力と努力の結果で評価

大卒者さえ必要なスペシャルな能力を試験で試されることなく採用されるのは、「小⇒中⇒高⇒大」という学校教育のシリーズにおいて「学歴競争に勝ち上がってきた」という事実が保証する、ある種の事務能力だけが評価されたから。

企業も、企業文化も、企業存続のために変わるかもしれない、だから「適応」ではなく「適応力」を求めざるを得ないのです。

社会システム理論では「区別」と「観察」を分けます。「区別」とは差異の線を引くことです。「観察」とは差異の線を引いた上で線の両側のどちらか一方を「指示」することです。適切な「区別」が極めて重要だということです。

70年代には、「成長の限界=環境の限界+資源の限界」が露わになる動きがあり、他方で「福祉の限界=財政破綻+共同体空洞化」が露わになる動きがありました。これに対応して80年代、先進各国で共同体自立化運動が同時多発します。北イタリア発で欧州に拡がったスローフード運動ないしスローライフ運動然り。カナダ発で大英帝国圏に拡がったメディアリテラシーないしメディアエデュケーション運動然り、米国に拡がったアンチ巨大マーケット運動然り。日本は・・・全くありませんでした。
(中略)
これらの運動の共通性は、共同体が、市場に依存しすぎても、国家(行政官僚制)に依存しすぎても危ないとして、市場や国家からの、共同体の相対的な自立を目指すところにありました。ところが、それを理解していなかった日本国民が、90年代に経済がうまく回らなくなって、ふと見回してみると、感情的安全を確保してくれるがゆえに帰還場所にもなれば出撃基地にもなるような家族親族ユニットや地域ユニットはすでに消滅していたというわけです。

要は「仕事での自己実現」などにかまけている暇があったら、市場や国家(行政官僚制)への過剰依存によって風前の灯となった共同体の、自己決定を通じた自立へ向けて、力を振り絞っていなければならないはずなのです。でも日本にはそれがありませんでした。そして気がついてみると、帰還場所も出撃基地も失っている。つまり本拠地を失っている。これを失った状態で「仕事での自己実現」に向けたリスキーなチャレンジができるはずもない。

帰還場所があれば君は言葉通りに振舞えるだろうが、帰還場所がなければ、口で何を言おうが、君には頑張りが利かない。

追い込まれた末の自発性を、内発性と取り違える愚を避けてほしい。

必要なのは、仲間の存在と、あとは泡盛とつまみを買うためのわずかなカネだけ。これといって消費しているモノもサービスもないので、「消費を通じた自己実現」じゃない。強いて言えば、コミュニケーションだけを消費している。それで十分ではないですか。共同体の空洞化ゆえに、こうした「コミュニケーションの消費」が難しくなったから、「仕事での自己実現」や「消費での自己実現」が、埋め合わせとして要求されているのではありませんか。とすれば、それは内発性というより、追い込まれた末の自発性です。

古来、人は、昨日あるように今日あり、今日あるように明日もある、というような生活をしてきました。

「任せて文句垂れる社会」から「引き受けて考える社会」へ
「空気に縛られる社会」から「知識を尊重する社会」へ
「行政に従って褒美をもらう社会」から「善いことをすると儲かる社会」へ
「国家と市場に依存する社会」から「共同体自治で自立する社会」へ
「便利と快適を追求する社会」から「幸福と尊厳を追求する社会」へ

「社会」を「個人」に置き換えてみる。

ホームベースが昔ながらの家族や地域でなければならないということは決してありません。ホームベースは今後、さまざまな形を取るしかないと予想しています。ただ、人間は、埋め込まれ、背負い、貢献し、帰還できる「我々」なくして、雨にも負けず風にも負けず前へは進めません。その「我々」は「長らく近しくあり続ける」近接的な範囲です。

この近接性は、血縁の結びつきで与えられる場合もあれば(血縁共同体)、宗教の結びつきで与えられる場合もあれば(信仰共同体)、日本のように労働集約的な共同作業を通じて物理的にトゥギャザであり続けることで与えられる場合もあります(職場共同体)

絆を与える共同体は、多かれ少なかれ、何かをシェアしているという感覚に支えられます。シェアされるものは、血縁的儀礼だったり、宗教的戒律だったり、職場の時間と空間だったりします。シェアしているという感覚が情緒的アタッチメントを与えます。

何かをシェアしているという感覚なくして「お先にどうぞ」とは言えないのです。

一見したところ典型家族とかけ離れていても、長らく近しくあり続ける近接共同体のうち、とりわけ「成人の感情的回復」機能と「子供の一次的社会化」機能を担うユニットなら、家族と見做すことが大切です。今後は変形家族こそが大切になります。

~~~ここまで読書メモ1

いやあ、すごい。そういうことか、と。
シェアハウスで子育てするとか、山倉さんのやってる拡張家族「Cift」の実験とか。
そして、これからの阿賀町の暮らしにも魅力化にもエッセンスを投入できるような気がします。
高校生を核にして、ふたたび自立的な「共同体」を構築していくこと。

ということで、次に「就職」とか「就活」についていきます。

▼▼▼ここから読書メモ2

「適職幻想」の定義:「自分はこういう人間だから、こういう仕事が向き、別の仕事には向かない」という思い込み。

選択肢が多すぎるという未規定性が人を混乱させて選択不能に陥らせる。
「ニーズに応じて選択肢が提示されるから、学生の適職幻想が煽られる」

最終目的&優先順位を巡る試行錯誤は、「スゴイ奴」と出会って感染(ミメーシス)しては卒業する経験が、最も効果的です。

「仕事の中身」より「周囲の承認」

趣味の時間や家族の時間を楽しむための食い扶持だと割り切っていれば、安全牌狙いの大企業への就職で良いでしょう。でも「仕事での自己実現」を目指している場合は、こうした「全体性からの疎外」は良くありません。全体性が見える中小企業がお勧めです。

その「社会的正しさ」は古くてダサい、これからのこの「社会的正しさ」がカッコイイという訴求を、マーケティング戦略として利用できるはずなのです。

自分にコレが向いてるとかアレがやりたいとか言わず、自分はなんでもやれます、という構えであること。次に、実際自分はなんでもやってきました、という実績を示せるということ。

内定する「他者性」
1 ビビらずに限界ギリギリまで挑戦でき、
2 限界を知るがゆえに高望みせず、
3 様々な社会的手順に通暁し、
4 コミュニケーションにおいて相手が何を求めているかを的確に把握して動ける。
内定が出ない
1 限界を試したことがないのでビビりがち
2 同じ理由でお門違いの自己実現欲求を抱いていたり、
3 どんなボタンを押すとどんな社会過程が動くのか知らなかったり
4 他者の構えに鈍感

「教育意図の失敗」による有効な社会化をいかに設計するか、という「計算不可能性の設計」の可能性が問われています。

共同体の存在が自明だった頃は、グループワーク能力の欠落は珍しいことでした。郊外化に従って共同体が空洞化してくると、グループワーク能力の欠落が珍しくなくなります。

▲▲▲ここまで読書メモ2

「適職幻想」まさにそれだなあと。
そして、この本のあとがきの書き出しが、この本からのメッセージになっている。

デタラメな社会を放置したまま、個人を癒して適応させるだけでいいのか。

就職がどうなろうと揺るぎない帰還場所=出撃基地(ホームベース)を作り、不安ベースより内発性ベースで進むほうが良いです。そうすれば、本文の言葉で言えば「適応」よりも「適応力」ということで、過剰適応せずに相手の要求に応じて「仮の姿」を適当に演じることが可能になります。
「依存」せずに「自立」するための帰還場所=出撃基地が必要です。

そういうホームベースを自らも一緒になってつくること。
これが地域(共同体)にとっても、若者自身にとっても必要なことなのだろうなあと思った。

何かをシェアする(感覚を持つ)共同体をつくっていくこと。
それこそがいまを生きるために必要なことなのだろうと考えさせられる1冊となりました。

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Posted by ニシダタクジ at 09:04│Comments(0)
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