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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年07月06日

「達成感」の使い方

「達成感」の使い方
「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(内田樹 文春文庫)

僕が読んでいるのは文藝春秋の単行本のほうですが。
08年の本ですので、古本屋でも見つけられます。

第2章の「働くということ」がタイムリーだったのでメモします。

~~~

労働について考えるときには、「どうしたら能力や成果に応じた適正な資金を保証するか?」ではなく、「どういう条件のときに個人はその能力の限界を超えるのか?」というふうに問題を立てなければならない。

実際に人間の労働パフォーマンスが上がるのは、自分の労働を通じて社会的な「フェアネス」が達成できるという希望が持てる場合と、与えられた「信頼」に応えねばという責務の感覚に支えられている場合だけである。

「適性に合った仕事をどうやって見つけるか」という問いを立てたことがそもそもボタンの掛け違え」だったのである。問いはそのようにではなく、「適性のない仕事に対するモチベーションをどうやって維持するか」というふうに立てられなければならない。

残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。とりあえず労働は義務である。

「いいから、まずなんか仕事をしてみなよ」と私たちは若者たちに告げねばならない。

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことや「そうであるはずだ」と信じることによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定されるのである。

能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見される。ある仕事が「できた」という事実が、自分にはその仕事を行う能力が備わっていたことをはじめて本人に教えてくれるのである。

能力があるかどうかはご本人が判断するのではなく、ふつうはまわりの人間が判断するからであり、たいていの場合、外部の能力評価のほうが本人の自己評価よりも客観性が高いのである。

「受験=就活のモチベーション」と「労働のモチベーション」は別種のものである。前者は個人のためのものであり、後者は集団のためのもの。

労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。

社会活動としては消費しか経験がなく、「努力」ということについては受験と就活しか経験がない若い人にはこの理路がうまく理解できない。

~~~ここまでメモ

人間という集団が生き延びるために「労働」があり、「労働」の受益者は基本的に集団である。おそらくはこのリアリティがない。

この章の後半、著者は「スイスのロビンソン」を題材に「無人島のルール」を説明する。集団で生きるとき、個人の利益を最大化するという行為はルールに反するのだと。

そして社会のルールは、「複数の人間が無人島で暮らせる」ことを基準に作られていて、そのルールでやったら「無人島では生きられない」ようなルールは「例外的な状況でだけ許される特例」なのである。

「個人の努力の成果は個人が占有してよい」というのは生存競争がほとんどない時代、リソースの分配競争に負けても餓死することのない安全な時代にだけ適用できる「特別ルール」である。いわば「温室」ルールである。敗者になっても命までは取られるわけではないという「お気楽」な社会でのみ「自己利益の追求を最優先する」という生き方は許される。

「キャリア教育」の名の下に、何をしてきたのだろうか。
3年で会社を辞める若者は、「適職ではなかった」からなのだろうか?

そもそも労働とは何か?
という問いが必要だったのではないか。

「ふるさと教育が叫ばれ、地域を愛する子どもを育てたい。」と多くの人が願っている。
わが町も例外ではない。

先週のプロジェクト打ち合わせで出てきた「早く大人にしたい。」その言葉に込められた思い。
集団の成員として学校改革の、まちづくりの、パートナーになってほしい。

名作マンガ「SLAMDUNK」で桜木花道が5人いたとしても山王工業には決して勝てない。
「地域の役に立つ」前に「集団の役に立つ」という経験が必要なのかもしれない。

そしてそれは目に見える「報酬」がある役に立つではない。
集団の成員として、責任を果たした。そんな「達成感」。

そんな達成感を報酬だと感じられるような、
一緒にいると楽しくなるような、そんなパートナーを育む学びができるのではないか?

そしてそれこそが、若者自身が「アイデンティティ危機」と付き合っていく有効な方法なのだと僕は思っている。

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Posted by ニシダタクジ at 08:48│Comments(0)日記
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