2020年07月26日
開かれ続けているということ
新潟県立阿賀黎明高等学校×阿賀町
阿賀町教育留学制度のパンフレットができました。
関係者のみなさま、たいへんお世話になりました。
ウェブはこちらから。
https://reimei-gakusya.localinfo.jp/pages/1427137/page_201711151839
昨日は「地域みらい留学フェスタ」(オンライン開催)の初日でした。
「地域みらい留学」
https://c-mirai.jp/
「新潟県立阿賀黎明高等学校」
https://c-mirai.jp/school/agareimei/
ZOOMウェビナーでの合同説明会と、ZOOMj会議を使った個別説明会。
黎明学舎スタッフの及川さんが慣れていて心強い。
校長先生が最後にいい言葉で締めてくれたり、
教育長が随所に登場してくれたりするので、
「オール阿賀町」感が出ているような気がする。
さて。
今日の1冊。
「14歳の教室~どう読み、どう生きるか」(若松英輔 NHK出版)
筑波大学付属中学校で行われた7回の授業をもとにまとめられた1冊。
新津・英進堂にありましたので思わず購入。
いきなり。
「動的に考える」から始まります。
鴨長明「方丈記」の冒頭の一節。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。」
河の流れは止まることなく、動いていて、いつも異なる水が流れている。同じ水などというものはない、というのです。
そうだなあと。
まさに人生というか、学びってそういうことなのではないかと。
川のまち阿賀町での学びも、そんな精神でいきたいですね。
この本で!!と思ったのは、
「第6章 対話するⅠ」のところ。
友と問いについて。
~~~ここから引用
たしかに、友とは、広い意味で人生の問いを共有している人かもしれません。そうした人とは対話が深まるのは当然です。
古人は歌には歌で返していました。返歌という文化がありました。そこには、目に見えない、耳にも聞こえない「対話」が成立していたのです。
私たちは歴史という豊かさな資産がある。歴史のなかに自分の対話の相手を見つけていかなければいけない場合がある。別な言い方をすれば、自分はひとりだと思う前に、皆さんは歴史の中に友を探すことができるのです。
「対話」とは、他者に向かって自分を開こうとする営みです。ジブンだけで問題を解決しようとする、そうした場所から離れることでもある。自分の問題を自分だけで解決しようとするとき、私たちは自分の可能性をどんんどん小さくしているかもしれないのです。
そして、他者に、世界に、あるいは歴史に向かって開かれていくということと、自己において深まっていくことが同時に起こり得る。むしろ、開かれていないとき、深まりもまた限定的だと言えると思います。
気を付けないと、私たちは、自分を深めていこうと思うときに、だんだん自分の世界に閉じこもってしまう。
プラトンが重んじた対話の「場」とは、目に見える空間ではありますが、目に見えない地平のようなものであることが分かります。「場」は目の前にもありますが、「眼」で「観る」世界、リルケのいう「内界」にも広がっています。だからこそ、「内なる対話」という言葉が生まれてきたのだと思います。
~~~ここまで引用
冒頭のパンフレットにあるように、
温泉と森のシェアレジデンスの意味とは、
地域に「開かれている」場であるということ。
別棟にある日帰り温泉には、
暮らしの一部として、そこに通うお年寄りを含め、地域の人たちがいます。
そこで「対話」するまでの関係性になるのはハードルが高いけれど、
人生の問いを共有できるような誰かに出会えるといいなあと思います。
一方でひとりひとりはその人なりの探究を深く掘っていくこと。
「対話」と「探究」を繰り返し、その人なりの「道」が見えてくる、
阿賀町の教育留学とは、そういうことなのかもしれません。
歴史や地域に開かれている「場」、開かれ続けている「自分」
そこで対話を繰り返し、「わたしたち」と「わたし」を行き来することが
できる場所。
そんな学びの空間を一緒につくっていきたいと思っています。
阿賀町教育留学制度のパンフレットができました。
関係者のみなさま、たいへんお世話になりました。
ウェブはこちらから。
https://reimei-gakusya.localinfo.jp/pages/1427137/page_201711151839
昨日は「地域みらい留学フェスタ」(オンライン開催)の初日でした。
「地域みらい留学」
https://c-mirai.jp/
「新潟県立阿賀黎明高等学校」
https://c-mirai.jp/school/agareimei/
ZOOMウェビナーでの合同説明会と、ZOOMj会議を使った個別説明会。
黎明学舎スタッフの及川さんが慣れていて心強い。
校長先生が最後にいい言葉で締めてくれたり、
教育長が随所に登場してくれたりするので、
「オール阿賀町」感が出ているような気がする。
さて。
今日の1冊。
「14歳の教室~どう読み、どう生きるか」(若松英輔 NHK出版)
筑波大学付属中学校で行われた7回の授業をもとにまとめられた1冊。
新津・英進堂にありましたので思わず購入。
いきなり。
「動的に考える」から始まります。
鴨長明「方丈記」の冒頭の一節。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつむすびて、久しくとどまりたるためしなし。」
河の流れは止まることなく、動いていて、いつも異なる水が流れている。同じ水などというものはない、というのです。
そうだなあと。
まさに人生というか、学びってそういうことなのではないかと。
川のまち阿賀町での学びも、そんな精神でいきたいですね。
この本で!!と思ったのは、
「第6章 対話するⅠ」のところ。
友と問いについて。
~~~ここから引用
たしかに、友とは、広い意味で人生の問いを共有している人かもしれません。そうした人とは対話が深まるのは当然です。
古人は歌には歌で返していました。返歌という文化がありました。そこには、目に見えない、耳にも聞こえない「対話」が成立していたのです。
私たちは歴史という豊かさな資産がある。歴史のなかに自分の対話の相手を見つけていかなければいけない場合がある。別な言い方をすれば、自分はひとりだと思う前に、皆さんは歴史の中に友を探すことができるのです。
「対話」とは、他者に向かって自分を開こうとする営みです。ジブンだけで問題を解決しようとする、そうした場所から離れることでもある。自分の問題を自分だけで解決しようとするとき、私たちは自分の可能性をどんんどん小さくしているかもしれないのです。
そして、他者に、世界に、あるいは歴史に向かって開かれていくということと、自己において深まっていくことが同時に起こり得る。むしろ、開かれていないとき、深まりもまた限定的だと言えると思います。
気を付けないと、私たちは、自分を深めていこうと思うときに、だんだん自分の世界に閉じこもってしまう。
プラトンが重んじた対話の「場」とは、目に見える空間ではありますが、目に見えない地平のようなものであることが分かります。「場」は目の前にもありますが、「眼」で「観る」世界、リルケのいう「内界」にも広がっています。だからこそ、「内なる対話」という言葉が生まれてきたのだと思います。
~~~ここまで引用
冒頭のパンフレットにあるように、
温泉と森のシェアレジデンスの意味とは、
地域に「開かれている」場であるということ。
別棟にある日帰り温泉には、
暮らしの一部として、そこに通うお年寄りを含め、地域の人たちがいます。
そこで「対話」するまでの関係性になるのはハードルが高いけれど、
人生の問いを共有できるような誰かに出会えるといいなあと思います。
一方でひとりひとりはその人なりの探究を深く掘っていくこと。
「対話」と「探究」を繰り返し、その人なりの「道」が見えてくる、
阿賀町の教育留学とは、そういうことなのかもしれません。
歴史や地域に開かれている「場」、開かれ続けている「自分」
そこで対話を繰り返し、「わたしたち」と「わたし」を行き来することが
できる場所。
そんな学びの空間を一緒につくっていきたいと思っています。
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