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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年08月25日

見つけ合う「場」をつくる

取材型インターン「ひきだし」の事前研修でした。

他者の意見に「乗っかる」練習として
オンライン・マジカルバナナに初挑戦。
めちゃ使える。
またひとつ、技が増えた。(♪ドラクエの効果音)

ここ1週間で大学生との対話の機会が何度かあり、
そこで感じたことも含めて、メモにまとめておきます。
(ツイートメモを含む)

~~~

「手段として学ぶ」⇒「機会として学ぶ」へのシフト
目標⇒ベクトル
個人⇒場
評価⇒承認
達成⇒発見
学び合い⇒見つけ合い
アイデンティティ、予測不可能性、今を生きる、という側面から見れば、このシフトのほうが現実的だなあと。

「プロジェクト」を褒めることで間接的に承認になる。承認は与えられるものじゃないから、直接褒められても得られないのかもしれない。

「感動を売る」仕事と「必要を満たす」仕事。
スポーツでも芸能でも「感動を売る」エンターテイメントビジネスは、その仕事に必要な技能を習得するには、バックキャスティング的なアプローチが必要になってくる。一方で「必要を満たす」仕事に対して、そのアプローチは必要なのか?

プロジェクトという場に自分を溶かして、一体化すること。
そうすればプロジェクトによって承認される、というか自分を承認することができるのかも。
それが自らの在り方生き方と一体的で不可分のプロジェクト。
一体的というより、一体化してしまうの。それがいい。

誰かに決められた人生を生きるか? 自分で決めた人生を生きるか? みたいな2択じゃないよ。
そのあいだに無限にグラデーションが広がっているし、誰と一緒に決めて動くか?生きるか?を考えること。

気づきや学びではなく、発見と変容。でも、発見と変容を目的にしてはいけない。
結果に過ぎない。そのへんのデザイン。

自分は変われる、と思っているか、自分は変わらないと思っているか。

自分の感情を確認し表現しながら、参画したいと思える仲間を見つけ、参画してわたしを拡張し「わたしたち」になる。
わたしたちが決めた今を生きること。

通知表、成績表によって、人生が個人戦であり、その戦いの勝ち負けを決めるのは先生や上司や世間からの評価であるかのような錯覚に陥っているのではないか。それはもはや「学び」と呼べるのか。

「見つける楽しさ」にフォーカスすれば、「学び」は遊びを超える遊びになる。

そもそも資本主義が、とかいっているのに、自分の壁を超えるために、スキルアップが必要で、その講座を受講しないと壁は越えられないという矛盾。資本主義とは、ゴールに向かっていくことだし、二元論だし、手段として今を生きることなのに、な。

教育とか学びとかの観点からすれば、問うべきは就職や資本主義じゃなくて、「近代」というシステムそのもののような気がします。

今日のゴールは?って確認するのをできればやめたいです。
幅が狭くなる気がする。

承認を直接的に得るのか、間接的に得るのか。
間接的に得るほうが健全な気がする。
人に与えてもらうものじゃないからね。
コーチングとか、対話系イベントの危うさ。

「親和的承認」が不十分な人に、「承認」を与えてはいけないんだよ。
それは「評価」であっても同じだ。
そんな「人」や「場」が人を依存させるのかもしれない。
「承認」依存症になっちゃうぜ。

企業の寿命が30年とか20年とかどんどん短くなっていると言われている中で、「就職」はかつてのように企業との「結婚」ではなくなっている。「就活」は「お見合い結婚」システムで、インターンシップが「恋愛」で、インターンシップ就職は「恋愛結婚」だと茨城でお世話になった社長は言っていた。

ところが。もう「就職」そのものが「恋愛」になっているのではないだろうか?
つまり。別れを前提に付き合ってみる、ということ。

「恋愛」上手になるには?
恋愛の経験値を積んでいく。
だとみんな言いますよね。

あと「どんな恋愛がしたいか?」
って言われたらどう答えますか?
もしくは「どんな恋愛の始まり方が理想ですか?」
って聞かれたら?

ブレストのルールでみんなが一番最初に思いつくのは、「否定しない」っていうルールだろうけど、
それってそれだけが否定語だから頭に残っちゃうんだな、きっと。
本当は、「否定しない」じゃなく、「判断遅延」、つまり、判断を遅らせる、その場では判断しないっていうこと。

やりたいことは何か?という呪い。
職業と自分らしさと自己実現をイコールで結ぶことでどんどん辛くなるよ。
そんな呪いを解いていく呪術師にもなるしかないか。
カギを握るのは場のチカラ、だと思います。あとは読書で俯瞰することか。

「自分を知る」ために、中に向かうのではなく、むしろ、外の「場」へ自らを投げ出して、溶け出した後に、ふりかえりをしてみること。
そのほうが結果、自分が分かるような気がします。「わたし」と「わたしたち」を行き来すること

二元論と、目標に向かっていくことと、量的に測るということ。
それこそが資本主義の本質じゃないか。
資本主義に違和感、といいながら、アプローチが資本主義的すぎるよ。

13歳のハローワークで語られた「あなたにも向いている仕事がある」っていう適職幻想が大多数であるサラリーマンの労働意欲を著しく下げた。
それが決定的になるのが、2005年プロジェクトXから2006年プロフェッショナルへの移行という社会学的な仮説。
向上しなかった生産性の原因はどこにあるか。

身体性と、方向性と、偶然性の共有。オンラインだからこそ。

人材マーケットのために人は人材となり、量的に測られるようになった。
量的に測られること、それはすなわち、交換可能になるということと同義だ。
資格試験を頑張るという矛盾はそこにある。
役所などの巨大な組織は、交換可能であることを前提としている。

「認められる」ために資格を取ったり、試験勉強したり、スキルを上げたりしているのに、
それを「量的」に測ると、「交換可能」な人材となってしまう。
これを「承認のジレンマ」と呼ぼうか。

そもそも「競争に強くなる」とは「評価される」ということで、評価とは、「比較」であり、「比較」とは、同一の量的な指標で測るということ。
「あなたはあなたのままでいい」という「存在の承認」はそこには存在しない。

12歳時点で、親和的承認が満たされてないにもかかわらず、量的な評価という世界に投げ込まれるのが中学校という空間なのかもしれない。

インターンからの就職は「恋愛結婚」だと、とある社長が言っていたが、もはや就職そのものが「恋愛」に替わっていくいくのではないか。
だけど恋愛マッチングサイトと違って就活マッチングサイトが暴力的なのは、圧倒的に立場の差があるということだ。
フラットじゃないコミュニケーションつらい

取材型インターン「ひきだし」は、まさに就職を、就活を「恋愛」的にしたいということだ。
お互いにフラットなコミュニケーションで相手を知り、何かを生み出すこと。
愛はお互いを見つめ合うことではなく、ともに同じ方向を見つめることである。(サン=テグジュペリ)

「就職」「就活」を「お見合い結婚」から「恋愛」に、って言っているけど、よくよく考えてみたら、
「恋愛」よりも「就活」のほうがずっと楽だよね。
「恋愛」が一番むずかしい。

「否定された」と思うのは、自分が発言者や場と分けられているから。
発言者の「否定」ではなく場のメンバーとしての「違和感の表明」だと感じられる「場」を構築できるか。
そこには「承認」されているという実感が必要になるのかもしれない。
そして「違和感の表明」こそがアイデアをドライブする

共感しながらも違和感をキャッチし、それを質問すること。
インタビューのコツってそういうことか。

仕事っていうのは、チームでやる「恋愛」なのかもしれない。
エンゲージするのは、わたしと会社じゃなくて、会社とお客様だ。

~~~とまあ、こんな感じ。

「場」「承認」「見つける」
とか、このあたりがキーワード。

ひきだし研修での一番の気づきは

人材マーケットのために人は人材となり、量的に測られるようになった。量的に測られること、それはすなわち、交換可能になるということと同義だ。資格試験を頑張るという矛盾はそこにある。役所などの巨大な組織は、交換可能であることを前提としている。

「認められる」ために資格を取ったり、試験勉強したり、スキルを上げたりしているのに、それを「量的」に測ると、「交換可能」な人材となってしまう。これを「承認のジレンマ」と呼ぼうか。

そもそも「競争に強くなる」とは「評価される」ということで、評価とは、「比較」であり、「比較」とは、同一の量的な指標で測るということ。「あなたはあなたのままでいい」という「存在の承認」はそこには存在しない。

たぶんこの矛盾。
そしてその出発点は多くの人の場合、中学校入学時点にある。

目標を設定するということ、量的に測るということ、二元論で見ること
そんな「近代」パラダイムそのものを生きるようになる。

その時点で「親和的承認」が満たされていないにも関わらず。

人はみな「承認されたい」
しかし、「親和的承認」(存在の承認)は原理的には他者から与えてもらうことができない。
自らが感じるしかない。

「近代」というシステムの上に載っている「学校」というシステムは、
それを「評価」によって満たそうとした。あるいは巧みにすり替えようとした。
中学高校と、先生や親の言うことを聞いて、
5教科7科目の学習を頑張り、望みどおりに地元国立大学へ進学する。

そのころにはもう「評価」中毒になっている。

地元国立大学に入学して親戚一同からすごいね、と言われる本人たちは、
一方で何も持っていない自分に気がつき、不安になる。

「次は誰の評価を得るために頑張ればいいのか?」

しかし、大学には、以前のように「頑張ったあなた」を
評価してくれる「誰か」はいない。

そして就職活動。
「自分は何者なのか?」という問いに悩みながら、スタートする。

ところが、何をやったらいいのかわからない。
どうすれば評価されるのか、わからない。
自分の経験を掘り下げても、人事担当者にアピールできるようなものではない。

仕方なく、資格やスキルを身につける。
しかし、資格やスキルを身につけるということは、交換可能な人材になるというのと同義だ。

そこで行き詰まる。

がんばっても評価されない。
そもそも何をがんばればいいのか分からない。
それが就職活動だ。

「量的に測れない。」
これは、これまでの学校生活の中では経験したことがない世界だ。

でも、自分は量的なアプローチしか知らない。
「就活の不安」のおおもとはそこにあるのかもしれない。

時計の針を巻き戻す。
中学入学時点まで。

本当に欲しかったのは、「評価」ではなく「承認」だったのではないか。
しかも「承認」は誰かに与えてもらうものではないということではないか。

本来であれば、それは家族や地域コミュニティの仕事だ。
「生まれてきてくれありがとう。あなたが生きているだけで私は幸せだ」
というメッセージを伝え続けること。

しかし、このような家族の形、地域コミュニティの分断の時代になって、
家庭や地域にその役割を負わせることは不可能となっている。

だからこそ、「場」をつくらないといけない。
「承認」を感じられる「場」を。

その「場」は、「見つけ合う」場なのではないか。

思ったこと、感じたことを出し合い、企画をつくり、実践する。
実践したあと、ふりかえりで再び思ったこと感じたことを話す。
「場」に一体化していれば、厳しいコメントは「否定」ではなく、
「違和感の表明」になり、それはアイデアをドライブさせる。

そうやって、見つける、発見する。
この「場」でしか生まれないものを生み出す。

それを繰り返し繰り返しすることで、人はようやく「承認」を手に入れる。

だからこそ、いま「場」をつくらないといけない。

見つけ合う場を、そしてはじまる場を。

見つけ合う「場」をつくる

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Posted by ニシダタクジ at 07:25│Comments(0)日記
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