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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年10月15日

ベクトルとして存在を許されるカフェという場

ベクトルとして存在を許されるカフェという場
「カフェから時代は創られる」(飯田美樹 クルミド出版)

来週10月24日(土)に
オンライン劇場ツルハシブックスに登壇いただきます飯田美樹さん。
実は20年前に、開村当初のまきどき村に遊びに来たことがあり。
彼女はその後の大学院時代にカフェの研究をすることになる。

その博士論文が書籍化され、当時も読んでいたのだけど、
今年、クルミド出版から再販。問いの刺さるリリースとなった。
このタイミングで読めることはなんとも言えない感慨がある。
いろいろ話してみたい、聞いてみたいことはあるのだけど。

読み直していて、
ツルハシブックスってやっぱりカフェなんじゃないか?
って思った。

「中学生高校生のための入場料無料のカフェ。」
まあ、それは本屋であり、劇場であったわけだけど。
中学生高校生に「カフェ」的な空間を提供したかったのだろう。

本書のラストに、クルミドコーヒー影山さんが解説をしているのだけど、
その中に、こんな一節が。

カフェは、飲食店であるとともに一つの「場」でもある。場とは、「参加者相互に影響を与え合う空間」と定義できる。
カフェが場としてその参加者と絶妙な相互作用を起こしたとき、それはきわめて大きな力を持つという。
そこから人が育ち、文化が生まれ、時代が創られる舞台になることがあるという。
偉大な人がカフェに集うのではなく、そこにカフェがあることで、そこに集う人々が後の時代に名を残すことになるというのだ。

おおお。
まさにそれがカフェ的空間の魅力だなあと。
僕的に言えば、「劇場のような本屋」「本屋のような劇場」なのだけど。
そういう「場」ですね。

では、そうした「場」がカフェではどのように形成されるのか?を本書から。

~~~第4章「カフェという避難所」から引用

第一にカフェにある自由、それは居続けられる自由である。
第二に挙げられるのは、思想の自由であり、
第三に、時間的束縛からの自由、
最後に、振る舞いの自由が挙げられる。

カフェは必ずしもコーヒーを飲みに行く場所ではない。
カフェという場は他の公共的な施設と異なり、合目的性がほとんど追求されない不思議な空間なのである。

飲み物を頼むというのはカフェという空間に入るためのルールであって、必ずしもそれを目的に客はカフェに来ているわけではない。

劇場やレストランに行くにはかなりのお金もかかれば、それなりのドレスコードや振る舞い方も要求される。それに対してカフェでは安い値段で誰でも入れるどころか、社会的地位も要求されない。

カフェという空間内ではカフェの主人に入場料であるドリンク代を支払うことで、社会的身分がなくても一人の客という立場を手に入れることが可能である。

通常、社会の中では属性が重視され、「自分がどこに所属する誰か」がものをいう。ところが属すべき場を失い、いまだに到達しえない「何者か」になろうとしている者には、その属性が存在しない。

特定の個人が開催する夕食会やサロンとカフェが違うのは、カフェでは誰もあえて「社会的地位を無視しましょう」と言ってはおらず、客たち全員がカフェの飲食代を支払うというこのシステム自体が自然に平等性をつくっているということである。

カフェでは主人という場所の所有者兼管理者に客が平等にお金を払うことで、空間に参与している客たちの平等性が保証されている。つまり、主人のもとで客は平等になるわけである。

~~~ここまで引用

まだまだ、時間的束縛からの自由とか振る舞いの自由とかに言及されていくわけですけど、今日はここまで。

僕は、「フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザイン」を志向し、

まきどき村という畑をやり、ツルハシブックスという本屋空間をやり。
場づくり(ワークショップ含む)を行ったりしてきて、

今年はオンライン上にも「場」をつくれるのではないか?と直感し、
取材型インターン「ひきだし」の完全オンラインでの実施や
にいがたイナカレッジの「イナカレッジ・ラボ」のオンライン化、
月1回の「オンライン劇場ツルハシブックス」をやっている。

本書を読んで、
ああ、それって「カフェ」をやりたかったのかもしれない、と思った。
しかもそれは、本書に登場する画家の藤田嗣治がかつてそうだったように
「何者でもない誰か」として、存在を許されるような場としてのカフェだ。

「何者でもない誰か」を言い換えれば、
名も無き「ベクトル」だけがそこにある状態としての人だろうか。
スピノザ的に言えば「コナトゥス」(自分らしくあろうとする力)だろうか。

実は、カフェ(的空間)の居心地の良さというのは、
「ベクトル多様性」を感じられるから、なのかもしれない。

東京で朝活をしようと、恵比寿駅にほど近いスタバに入ったら、
全員が一人残らず集中して勉強していて、
スマホをいじったり友達と談笑してる人はひとりもおらず、
私語さえ許されない状況に耐えられずに30分で脱出して
別のカフェに入ったことがある。

あのスタバには、「ベクトル多様性」が存在しなかったのだ。

「何者でもない自分」への不安。
朝井リョウの小説じゃないけど、10代や大学生の多くが持っているだろう不安。
いや、40代になってもあるけども。(笑)

その不安を否定しなくてもいいってことだ。
何者かになろうとしているベクトルとしての自分を楽しむことだ。

そのためには、ベクトルとしての存在を許される「場」が必要なのかもしれない。
飯田さんや影山さんによれば、それは「カフェ」として表現されているのだと。

僕がツルハシブックスをカフェだと思ったのは、
中学生高校生、大学生がベクトルとして存在できる場をつくりたかったからかもしれない。

そして、これから高校生やまちの人達と共に創る場も、
きっとそういうカフェ的な空間なのだろうとイメージ出来た、すてきな読書時間でした。

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Posted by ニシダタクジ at 06:21│Comments(0)日記学び
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