2020年11月10日
「存在」は創造のエッジにある
「自分とは何か?」という永遠の課題。
課題発見⇒調査検証⇒整理分析⇒まとめ表現⇒課題発見
という探究サイクル。
「問い」⇒「実験」⇒「ふりかえり」⇒「発見」⇒「さらなる問い」
というように言い換えてもいいだろう。
問題は、最初のドミノを倒す、
つまり、最初の「課題発見」のフェーズだ。
学びの動機付け(=学びの意欲)と言ってもいいだろう。
「課題発見/問いを立てる」には、
「違和感の言語化」が必要で。
「違和感のキャッチ」には心を開いていることが必要で
「言語化」は普段から思ったことを言葉や文字にしていくことが必要で。
「違和感」を感じるためには
自分の「快・不快」を知ることと「他者との違い」を理解することが大切で。
っていうように、つながっている。
「主体性」という言葉はよく叫ばれるけれども、
「指導」によってそれを生むことは原理的に不可能で、
「対話」によって課題(問い)を発見することで生まれてくるのだと思う。
「好奇心」とは、面白がることと疑問を持つことで
それってスキル(技術)だよね、って友人が言っていた。
「場」においてそのスキルを磨いていくこと。
「主体性」さえ、見つけ合うことが可能なのではないかと僕は思っている。
かつて、ツルハシブックスで表現したかったのは「偶然性」という価値だし「機会提供」という美学だ。
三重県の飯南高校美術部のラテアートには、「一回性」の美学を感じた。
目の前の人のために一生に一度しかないラテアートを描く。
それは、お客さんとの協働作業だ。小さな劇場だ。
「場」にフォーカスすること。
誰と、いつ、どこでやるか?を大切にすること。
それは場の一回性を高めると同時に、
「全体性」を感じさせてくれる。
特に「どこで」の部分において。
ここで言う「全体性」とは、
いわゆる「営み」のことでもある。
自分が、脈々と受け継がれるタテのライン「営み」と
一体化しているような感覚のことだ。
「偶然性」と「一回性」と「全体性」。
その3つの交点に、「創造」が、あるいは「美」があるのではないか。
人は、「場」と共に、その創造のエッジに立つ。
もしかすると、そこに人の「存在(承認)」があるのかもしれない。
川喜田二郎がかつて言った、
「創造的行為を繰り返した場所を、人はふるさとだと認識する」
「ふるさと」があるかどうか。
それはアイデンティティ問題に直結していると僕は思う。
「存在(承認)」とは、「偶然性」と「一回性」と「全体性」の交点にある
個人が「場」と一体化した創造のエッジに生み出される何かの中に、
現れるものであるのかもしれない。
課題発見⇒調査検証⇒整理分析⇒まとめ表現⇒課題発見
という探究サイクル。
「問い」⇒「実験」⇒「ふりかえり」⇒「発見」⇒「さらなる問い」
というように言い換えてもいいだろう。
問題は、最初のドミノを倒す、
つまり、最初の「課題発見」のフェーズだ。
学びの動機付け(=学びの意欲)と言ってもいいだろう。
「課題発見/問いを立てる」には、
「違和感の言語化」が必要で。
「違和感のキャッチ」には心を開いていることが必要で
「言語化」は普段から思ったことを言葉や文字にしていくことが必要で。
「違和感」を感じるためには
自分の「快・不快」を知ることと「他者との違い」を理解することが大切で。
っていうように、つながっている。
「主体性」という言葉はよく叫ばれるけれども、
「指導」によってそれを生むことは原理的に不可能で、
「対話」によって課題(問い)を発見することで生まれてくるのだと思う。
「好奇心」とは、面白がることと疑問を持つことで
それってスキル(技術)だよね、って友人が言っていた。
「場」においてそのスキルを磨いていくこと。
「主体性」さえ、見つけ合うことが可能なのではないかと僕は思っている。
かつて、ツルハシブックスで表現したかったのは「偶然性」という価値だし「機会提供」という美学だ。
三重県の飯南高校美術部のラテアートには、「一回性」の美学を感じた。
目の前の人のために一生に一度しかないラテアートを描く。
それは、お客さんとの協働作業だ。小さな劇場だ。
「場」にフォーカスすること。
誰と、いつ、どこでやるか?を大切にすること。
それは場の一回性を高めると同時に、
「全体性」を感じさせてくれる。
特に「どこで」の部分において。
ここで言う「全体性」とは、
いわゆる「営み」のことでもある。
自分が、脈々と受け継がれるタテのライン「営み」と
一体化しているような感覚のことだ。
「偶然性」と「一回性」と「全体性」。
その3つの交点に、「創造」が、あるいは「美」があるのではないか。
人は、「場」と共に、その創造のエッジに立つ。
もしかすると、そこに人の「存在(承認)」があるのかもしれない。
川喜田二郎がかつて言った、
「創造的行為を繰り返した場所を、人はふるさとだと認識する」
「ふるさと」があるかどうか。
それはアイデンティティ問題に直結していると僕は思う。
「存在(承認)」とは、「偶然性」と「一回性」と「全体性」の交点にある
個人が「場」と一体化した創造のエッジに生み出される何かの中に、
現れるものであるのかもしれない。
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