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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2020年12月28日

「存在」を揺るがすものとしての資本主義と身体性としてのセンスオブワンダー

「存在」を揺るがすものとしての資本主義と身体性としてのセンスオブワンダー
武器としての「資本論」(白井聡 東洋経済新報社)

就職活動の違和感、「存在」を考える上で、
構造的に考えるにはいい1冊。
前回の「はみだしの人類学」と一緒に読むことで
さらに就活の違和感について解読できるのかもしれません。

この本には端的にこう書いてあります。

「就職活動とは労働力商品の買い手を探すことです。」

いや、まあ、その通りなのです。

自らを「商品」として、買ってくれる人を探す。
一流企業総合職であれば、生涯賃金が〇億円とか、
そういう価格で自らを売れるかどうか、
それが就職活動というマーケットなのです。

「当たり前だろう」と思った人。

まさにこの本の帯にある、
「資本主義を内面化した人生」を生きているのでしょう。

いつのまにか私たちは、自分たちを幸せにするはずだった
「資本主義(資本制)」を内面化し、
私たちが幸せになるためにシステム(仕組み)ができたはずが、
(本書によれば、それもかなり疑わしいのですが)

いつのまにか、システムを内面化し、
システムjを維持するために苦しむようになっている、
それが現状の苦しさなのではないか?と著者は問いかけます。

おそらく、「就職活動」への違和感っていうのは、
まさにその「商品としての自分」というものに対しての違和感が
大きいのではないか、と感じます。

資本制は「存在」を揺るがしてきた。
それが本書を読んだ上での僕の感想です。

いつもながら、本を読んで響いたところをメモします。

~~~ここから引用

富はどの時代にも、どの社会にも存在するが、その富が主に商品の形で現れる社会は資本主義社会だけなのだ。

商品交換は、共同体の終わるところに、すなわち、共同体が他の共同体または他の共同体の成員と接触する点に始まる。しかしながら、物はひとたび共同体の対外生活において商品となると、ただちに、また反作用をおよぼして、共同体の内部生活においても商品となる。

人類史の大半で、生産的労働は共同体的に営まれてきました。働くとはつまり、人々が自分たちの生存を維持するための共同作業であったわけですし、資本制が発展したいまでも本当はそうなのです。

しかし、近代資本主義が始まったとき、途方もない変化が起こった。生産的労働が商品交換を介して行われるようになった。つまり、共同体の維持のために共同作業をするのではなく、商品の価値の実現のために労働力が売られたり買われたりされるようになるのです。

肉体を資本によって包摂されるうちに、やがて資本主義の価値観を内面化したような人間が出てくる。すなわち感性が資本によって包摂されてしまうのだ。

新自由主義が変えたのは、社会の仕組みだけではなかった。新自由主義は人間の魂を、あるいは感性、センスを変えてしまったのであり、ひょっとするとこのことの方が社会的制度の変化よりも重要なことだったのではないか、と私は感じています。

新自由主義、ネオリベラリズムの価値観とは、「人は資本にとって役に立つスキルや力を身につけて、はじめて価値が出てくる」という考え方です。人間のベーシックな価値、存在しているだけで持っている価値や必ずしもカネにならない価値というものをまったく認めない。

資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そっか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。

資本の側は新自由主義の価値観に立って、「何もスキルがなくて、他の人と違いがないんじゃ、賃金を引き下げられて当たり前でしょ。もっと頑張らなきゃ」と言ってきます。それを聞いて「そっか。そうだよな」と納得してしまう人は、ネオリベラリズムの価値観に支配されています。

人間は資本に奉仕する存在ではない。それは話が逆なはずだ。けれども多くの人がその倒錯した価値観に納得してしまう。それはすなわち資本による労働者の魂の「包摂」が広がっているということです。

労働者階級はいまや純然たる消費者であって、文化の創造者ではない、ということが暗黙の前提となっている。

資本制の特徴はこのように、必要労働と剰余労働が区別できないところにあるのです。そこから、資本のために生産性を上げているのに、自分のために生産性を上げているのだという錯覚も生じてきます。

資本が価値増殖をするときに、それは一般的に何に基づいているのか。先にそれは「差異」だと申し上げました。金融資本であれば時間的差異、商人資本であれは空間的差異が、剰余価値を生むベースになっていました。産業資本の場合は労働力の使用価値と交換価値の差異から、剰余価値を引き出していました。

特別剰余価値とは、「高まった生産力によって商品を廉売することによって得られる利益、イノベーションによって獲得された期限付きの剰余価値であり、ある商品の現在の社会的価値と未来の社会的価値との差異から生まれる」と定義できるでしょう。

~~~ここまで引用

さらに、僕がうなったのはこちら。
いわゆるフォーディズムの説明

~~~ここから引用

このように労働者を単に搾取の対象と見なすのではなく、消費者としても扱っていこうという発想が、20世紀後半の資本主義の特徴でした。この特徴を最も早く体現していたのがアメリカのフォード社による生産と労働の体制であったわけで、ゆえにこの体制がフォーディズムと呼ばれるわけです。

果たして生産力を際限なく上げていくことが、人間の幸福に結びつくのだろうか。

生産されたものの社会的価値が下がるということは、その生産に従事する労働者から見れば、労働の価値が低下するということです。

「生産力が上昇した」「生産性が向上した」とは、「その生産に従事する労働の価値が低下した」ことを意味しているのです。

1 貨幣・生産手段・生活手段の所有者
2 労働力の販売者である自由な労働者
が出会うことこそ、資本主義の始まる条件である、とマルクスは考えます。

ここで言う労働者とは、自分の労働力を売る以外に生計手段がない人たちということです。

そのような存在をマルクスは「二重の意味で自由な労働者」と呼んでいます。この場合の自由とは、

1 身分制から解放されている
2 生産手段を持たない
ということです。これが「はじまりの労働者」とされます。

~~~ここまで引用

この本には、日本で言えば「地租改正」など、いかにしてそのような「はじまりの労働者」が都市部に出てきたか。そして、そもそもの「価値」の源泉が差異、つまり「安い労働力」であることから、だんだん地方との賃金格差をなくなると共に、海外に生産拠点を求め、あるいは安い労働力を「輸入」して差異としての「価値」を生み続ける、あるいはそもそも「労働力」に頼らないソフトウェアやウェブ上のシステムを売っていくことで「価値」を生んでいくこと、これが資本主義のカラクリ。

いや、なんとなくは分かっていたのだけど、ここまで説明されるととてもスッキリします。

そして、すごかったのはやはり「フォーディズム」。

そもそも、工業生産において、労働者は搾取されるだけの存在であっては、成長し続けることができない。つまり、生産したモノを買い続ける「消費者」を同時に生んでいく必要がある。こうして「労働者」は同時に「消費者」としてふるまうようになっていきます。

それは、資本主義の発展、つまり「経済成長」という側面では大成功だったのでしょう。
一億総中流と呼ばれ、マイカー・マイホームを持ち、購買意欲の高い都市生活者をたくさん生みだしました。

ところが、もはや「差異」の源泉がなくなってしまった。「グローバル化」とはそういうことです。
社会は再び、自国の労働者からの搾取を必要とした。それがいま現在進行形で世の中で起こっている。

「誇りの空洞化」。
明治大学の小田切先生は、もっとも大きな課題として、それを指摘しました。

参考:誇りという観光資源(2015.7.10)
http://hero.niiblo.jp/e470410.html

「誇り」が失われた。資本主義とシステムによって。
人々は数値化された。「労働者」であり「消費者」であるということによって。

システムによって「存在」が揺るがされている。
「就職活動」への違和感は究極、そういうことなのだろうと思います。

「就活」というシステムに適応することは、
自分たちを本当に幸せにするのだろうか?
極端に言えば、それで「生きられる」のだろうか?という疑問。

本書の最後に、白井さんは語りかけます。

「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったらおしまいです。それはネオリベラズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない。

意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか、そのためにはベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。だから、食べ物の話は、代表的事例であると同時に比喩でもあります。私たちの生活の全領域で、どういう感性を持つのかが問われている。

いやあ、ホントそう。
「感性」に戻ること。自分自身の身体性としての「センスオブワンダー」を見つけ、感じること。

そこからしか始まらない。
いま、自分が、そしてあなたが何を感じているのか?
「場」として何に「価値」をおき、何を創っていくのか?

そんな根源的な問いを見つめていくことから始めていこうと僕も思っています。

「存在」を揺るがすものとしての資本主義と身体性としてのセンスオブワンダー

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