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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月01日

全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じる

全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じる
「おやときどきこども」(鳥羽和久 ナナロク社)

新年1冊目はこの本。
12月30日に新津・英進堂で購入しました。
英進堂で買いたい本ですね。

思春期の若者、そしてその親と対話してきた塾の先生の記録なのだけど、
一言一言が美しくて、胸に来るものがあります。

詳しくは本書を読んでいただくとして、
(僕もまだ読み終わってないのだけど)
一節だけ紹介します。

~~~ここから引用

「遊びと企て」
企てと遊びとは、人間の日常生活における、二つの基本的なありかたであり、ひととひとの関係のとりかたと、その関係のもとでのふるまいかたの二つの基本様式である。(西村清和「電脳遊戯の少年少女たち」)

この場合の「企て」とは、その都度ある目的や意図をもってその実現に向かっていく行動全般のことで、一方で「遊び」というのは、例えば母親と赤ん坊の間の「いない、いない、ばあ」のような、私と他者との同調関係のなかで軽やかに世界に包まれる実感を得るような、それ自体は目的を伴わない所為を指しています。

私たちは「企て」と「遊び」の両方を享受しなければ満たされません。日々の生活にメリハリをつける目標や動機付けは欠かせませんし、勉強や仕事などの生活のために必要な行為は、広い意味ではすべてが「企て」と言えるものものです。一方で精神の緊張が伴う「企て」の狭間には、心をほどく「遊び」の時間が必要になるでしょう。「遊び」はいま生きているという実感に直結するものなので、それを通して初めて私たちは誰のためでもなく自分のために生きるという喜びを知ることになるのです。

(中略)

親は子どものことを思って何かやろうとすると、いつの間にか子どものあらゆる可能性を自分の「企て」の中に回収してしまいます。

子どもの「遊び」にかまっていられない親が、その代理物としてすがるのが「企て」です。中でも、塾や習い事は、「やってる感」が得られやすいので、安心したい親としては便利なツールです。子どもが手から離れる上に、将来のために目的を見つけて成長していく子どもの姿を見ることができるわけですから、親にとってこれ以上のことはありません。こうして「遊び」を侵食する形で、ある目的を達成するための「企て」が子どもの生活の大半を占めていくことになります。

こうした「企て」には本来的に転倒が潜んでいます。私たちはある目的を達成したいから「企て」が生じると考えますが、そうではなく「企て」という欲求によって、事後的に「ある目的」が召喚されるのです。目的というのは初めから素朴にあるのではなく、目的的に動きたい私たちが目的的に動くために自らの手で立てるフラグの一種です。

こうして目的の達成を目指すというふるまいを手に入れたあとには、私たちが抱えていたもともとの不安の中身は忘れ去られ、目的の達成という情熱がそれに取って替わります。こうして急場をしのぐためのプロジェクトが成立します。

~~~ここまで引用

昨日のブログで書いた「副業をつくること」。
70%-30%くらいのバランスで自分のリソースを振り分けておくこと。
もちろんそのパーセンテージは個人の性格や人生ステージ、タイミングによるのだけど。

高校生活、大学生活で言えば、
70%を「達成・成長」のパラダイムへ
30%を「発見・変化」のパラダイムへ
と力を注いでいくこと。

これは、この本で言えば、「企て」の部分を70%-30%に配分していくこと。
さらに、その上で生活の時間の中で「企て」と「遊び」を70%-30%で配分していくこと。

「土日でストレス解消」という言葉は、
仕事でたまったストレスを、土日の何らかの活動で「解消」し、
また月曜日に仕事場へ向かうことを意味する。
それって、「遊び」じゃなくて「企て」だよね、ってこの本は問いかけてくる。

本書にあるように、
★「遊び」はいま生きているという実感に直結するものなので、それを通して初めて私たちは誰のためでもなく自分のために生きるという喜びを知ることになるのです。

そういう「遊び」が必要なのだと。
いま、おれは生きているという「快」、「生」の実感が。

そんな「遊び」を人は根源的に必要としているのだと。
その「環境」を用意すること。
目的に取り込まれない「生」をともに生きること。

全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じる
もうひとつ。100分de名著の「カール・マルクス 資本論」(2021年1月放送)から

これは昨日31日に読み始めてさきほど読み終わりました。

~~~ここから引用

かつては誰もがアクセスできるコモン(みんなの共有財産)だった「富」が、資本によって独占され、貨幣を介した交換の対象、「商品」になる。例えば飲料メーカーが、ミネラル豊富な水が湧く一帯の土地を買い占め、汲み上げた水をペットボトルに詰めて、「商品」として売ってしまう。それまで地域の人々が共同利用していた水汲み場は立ち入り禁止となり、水を飲みたければ、スーパーやコンビニで買うほかない。これが商品化です。

二重の意味の「自由」。ひとつは、強制労働ではないという自由。もうひとつは、生産手段を持たないという自由。普通の人が生活のために売ることができるのは、唯一、自分自身の労働力だけなのです。

資本主義は、共同体という「富」を解体し、人々を旧来の封建的な主従関係や共同体のしがらみから解放しました。共同体から「自由」になるということは、そこにあった相互扶助、助け合いの関係からもフリーになる、つまり切り離されてしまうということです。

しかも、責任の感情をもって仕事に取り組む労働者は、無理やり働かされている奴隷よりも良く働くし、いい仕事をします。そして、ミスをしたら自分を責める。理不尽なことさえも受け入れて、自分を追い詰めてしまうのです。これは、資本家にとって、願ってもないことでしょう。資本家にとって都合のいいメンタリティを、労働者自ら内面化することで、資本の論理に取り込まれていく。

資本主義社会では、労働者の自発的な責任感や向上心、主体性といったものが、資本の論理に「包摂」されていくことをマルクスは指摘し、警告していたのです。

マルクスが労働日の短縮を重視したのは、それが「富」を取り戻すことに直結するからです。日々の豊かな暮らしという富を守るには、自分たちの労働力を「商品」にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち「商品」として売る領域を制限していかなければいけない。

~~~ここまで引用

この話、つながっているんじゃないかと。
「主体性」が、「企て」に取り込まれていないだろうか?

私たちが高校生、大学生に身につけてほしいと思っている「主体性」は、
会社や社会が求める、「企業人として求められる主体性」なのではないか。

それは果たして、本人たちを、本質的な意味で「豊か」にするのだろうか?

カギは「演じること」だと僕は思っている。
「演じること」が人生を経営することの始まりだと思っている。
場面場面で、複数の自分を使い分けていくこと。
1つのことに全力投球するのではなく、「全力投球する自分」を演じること。

「企て」と「遊び」を自ら配分していくこと。
「企て」の中身も、「達成」パラダイムと「発見」パラダイムに自らのリソースを振り分けること。
限られた資源をバランスし、理解も共感もできないかもしれない他者とチューニングし、協働していくこと。

予測不可能な、未来が分からない時代・社会で、どのようにふるまうべきか、大人たちも迷っている。
そんな不安に、一筋の仮説をもらった2冊の本でした。

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Posted by ニシダタクジ at 10:39│Comments(0)学び
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