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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月08日

二元論でも第三の道でもなく「あいだ」がある

2020年4月
学校始まったばかりでふたたび休校措置になった4月。
取り憑かれたように本を読みながら、
いまやれることを考えていました。
ここからは1か月単位でいきます。

宇野常寛さんの「遅いインターネット」から

~~~
かつて、インターネットが代表する情報技術が人類に与えていた「夢」とは、「ここではない、どこか」を仮構することだった。この世界とは異なるもうひとつの世界を構築すること。それが前世紀の末にコンピューターが担った最大の気体であり、そして当時の若者たちが虚構に求めたものだった。

だからこそ僕たちはそこで本名ではなくハンドルを用い、もうひとつの自分を演出した。そしてそこには現実とは切り離されたもうひとつの世界を作り上げ、そこでもうひとつのルール、もうひとつの秩序、もうひとつの社会を築き上げようとした。まだインターネットがソーシャルネットワークに飲み込まれる前の話だ。

だが、現在は違う。僕たちは情報技術を「ここ」を、この場所を、この世界を豊かにするために、多重化するために用いている。多くの人たちが実社会の人間関係の効率化とメンテナンスのためにfacebookを使い、夜の会食の店を食べログで検索して予約し、移動中はApple musicでヒットチャートをチェックする。退屈な会議中は、海外出張中の友人にメッセンジャーで愚痴をこぼす。

21世紀の今日、僕たちは情報技術を「ここではない、どこか」つまり仮想現実を作り上げるためではなく「ここ」を豊かにするために、つまり拡張現実的に使用している。

(中略)

20世紀の最後の四半世紀のあいだ、虚構とは、革命の可能性を失った消費社会において、「ここではない、どこか」を仮構することが役割だった。これが仮想現実的な虚構だ。しかし、超国家的に拡大した市場を通じて世界を変える回路が常態化した今日において、外部を失ったグローバル化以降の世界において虚構が果たすべき役割は「ここ」を重層化し、世界変革のビジョンをこの現実において示すことなのだ。拡張現実(AR)的な虚構がいま、求められているのだ。

~~~

「外部」を失ったグローバル化以降の世界のために「ここ」を重層化する必要がある。
これ、たぶん「探究」にも言えるなあと。
津和野高校の探究って意図せずして「高校生活」の重層化を可能にしているのではないか。

「ここ」「この町」の暮らしの重層化のために、観光を強化し、外国人観光客を呼び、テレワーク拠点をつくり、IT企業と連携し、まちをつくっていくこと。それがこの町で暮らす意味になると思う。

十数年前、「課題先進地」というフロンティアを求め、海士町に、西粟倉村に、神山町へと志ある若者が移住した。

それはきっと、アメリカ西海岸でインターネット産業を興した若者たちの「世界に素手で触れている」という感覚に似たようなもの。

「未来に素手で触れている」というような感覚なのではないか。それがフロンティアなのではないか。

~~~
緊急事態宣言まであと少しのところで、
「心の時代にモノを売る方法」と「武器になる哲学」の合わせ技

「心の豊かさと毎日の精神的充足感」への希求が主流をなしてくると共に、長らく―おそらく産業革命以来200年以上も―「生産と分配の経済」の陰に隠れていたもうひとつの系統、「贈与と交換」そして「社交と商業」の経済が、再び表舞台に出てきたのである。
(中略)
もうひとつの経済(贈与と交換の経済)の決定的な原則は
1 1回ごとの試みによって(お客さんに喜ばれるかどうか)が模索される
2 常に需要のないところに新しく需要を作り出す
3 あらかじめ需要は予測され得ない

とダーウィンのこれ。
もっとも強い者が生き残るのではなく
もっとも賢い者が生き延びるのではもない。
唯一生き残るのは、変化できる者である。
って、僕も言ってました。だから、変化しなきゃいけないんだよ、お前(オレ)って。

誤解していました。僕は、ダーウィンを誤解していました。この本を読んで、突然変異は「意志」ではなく「偶然」に起こり、生き延びるのは、「個人」ではなく「集団」なのだ、と。

この町が生き延びるために、異質な他者(エラー)を組み込んでいくことが必要なのだと。
そのエラーを得るために「学ぶ環境」を売り込むキリギリスになろうじゃないか。
エラー求む、だよ。

~~~
これ、いいな。高校魅力化の基本姿勢かも。

からの平田オリザ「22世紀を生きる君たちへ」

現在、ハーバード大学やMITあるいは日本でも京都大学などが、講義内容のインターネットでの公開を始めている。これは一見、不思議な事象だ。学生は厳しい受験戦争を勝ち抜き、また高い授業料を払っているのに、そこでの授業はインターネットでも見られるのだ。

インターネットの時代には、単純な知識や情報は世界共有の財産となる。ネット社会は情報を囲い込むシステムではない。情報をできるだけオープンにして、そこに集まってきた人たちに広告を見せることで、ほとんどのネット産業は成り立っている。

もはや情報を囲い込むことはできない。知識や情報を得るコストは、時間的にも経済的にも急速に低減した。そのようなネット時代を前提にして、ハーバードで一緒に議論することに意義がある。MITで、ともに学ぶことに意義がある。いや、もはや、そこにしか大学の意義はないと、世界のトップエリート校ほど考えている。

だからそこでは、「何を学ぶか?」よりも「誰と学ぶか?」が重要になる。それは学生の質の問題だけではない。教職員を含めて、どのような「学びの共同体」を創るかが、大学側に問われているのだ。

~~~
これもめちゃめちゃ本質的。大学は1年間もオンラインになっているけど、そもそも「授業料」って言ってるけど、それは授業に対して払っているのではなくて、「学びの共同体」に入る「会費」のようなものになっていくのだと。

高校魅力化も同じだろうな。学びの「コンテンツ」というよりは「学びの共同体」「学びの土壌」に対して対価を払うのだろうなと。「何を学ぶか」から「誰と学ぶか」へ、さらには「どこで学ぶか?」がとても大切になっていく。

~~~

そしてウィークリーオチアイをこの頃見始めてますね。
シン・ニホンの安宅さんから。
http://hero.niiblo.jp/e490580.html

コロナショックで起こっていることは、クローズで密な空間からオープンで疎な空間へと距離をとるところが標準になる。

それっていうのは、City(都市)への挑戦、つまり「文明なるもの」への挑戦なのだと。都市に人が集まり、交わることで人類は文明をつくってきた。2000年以上続いた転換点にいるのだという。

そういう意味では、いま、多くの人が当たり前のように使っているzoomのようなテレビ電話システムを使えば、開疎化されても、価値を生むことができるような世の中にはなっている。つまりデジタルテクノロジーやネットワークがそれを可能にしている。

「都市」「高密度」「効率性」「弱者切り捨て」といった社会モデルそのものが変わらなければいけないのだと。

開疎化された世界では
・土地が余っている
・職住隣接
・食べものがおいしくて安い

また、起業家、ベンチャー企業にとっても東京のイベントがぜんぶzoomでオンライン配信となったことで、地方にいても東京と同じ情報が手に入る。ベンチャー企業にとっては大きなビジネスチャンスが生まれているかもしれない。建築やオフィスのリノベーションなど。と同時に地方も企業誘致のチャンスがきている。

~~~
さらに「シン・ニホン」から。

マネジメントとは
0 あるべき姿を見極め、設定する
1 いい仕事をする(顧客を生み出す、価値を提供する、低廉に回す、リスクを回避する他)
2 いい人を採って、いい人を育て、維持する
3 以上の実現のためにリソースを適切に配分し運用する

価値創出の3つの型
1 N倍化(大量生産)
2 刷新(A→B)
3 創造(0→1)

複素数平面的なゲームに入る前の実数空間ゲームのときは、ご存知のとおりとにもかくにも「N倍化」、大量生産でボリュームを生み出すことが何よりも大きな価値の源泉だった。トップに立つことはトップシェアをとることと同義だった。

次の強かったのが「刷新」だ。なんらかの分野に知恵を絞ってアップデートすることである。この実数軸の時代、日の目を見なかったのが今風に言えば0to1の「創造」だ。

ところが今はどうか。「N倍化」はすでにシェアを握りスケール(規模)をとってしまった大企業にとっては、長期的な人口調整局面については先細りのトレンドだ。一方の「刷新」は今や「N倍化」よりも遥かに価値を生む力がある。0to1の聖地のように言われるシリコンバレーで行われている大半の取り組みも実際にはこの刷新モデルが中心だ。

そして、今の時代において明らかにもっとも力強いのは0to1「創造」だ。妄想を形に変える力を持つコミュニティ、人、企業が、もっとも影響力が強く、その結果、富も握る。
だから、「異人」の時代なのだと安宅さんは言う。「異人」からイノベーションを生むのだと。

~~~
からの共同体の基礎理論(内山節)
これもウィークリーオチアイで紹介されてて、買ってみましたがタイムリーでしたね。

特にこの「コミュニティ」の定義と「多層性」のところ。

マッキーヴァーのコミュニティとアソシエーション
コミュニティ:共同的な生活が営まれている場であり、社会のあり方や文化などが共有されている結合体
アソシエーション:コミュニティの内部にある、ある目的を達成するための組織

「コミュニティは、社会生活の、つまり社会的存在の共同生活の焦点であるが、アソシエーションは、ある共同の関心または諸関心の追求のために明確に設立された社会生活の組織体である。アソシエーションは部分的であり、コミュニティは統合的である。」(「コミュニティ」(中久郎・松本通晴監訳 ミネルヴァ書房)

真理は1つではなく、多層的である。なぜなら真理はある磁場のなかに成立しているのだから、磁場が異なれば真理も異なる。真理はそれを切り取った断面のなかにあるのであり、切り取られた断面が異なれば真理も異なってくる。

それは共同体を生きた人々が自然とともに存在していたからであろう。

共同体とは共有された世界をもっている結合であり、存在のあり方だと思っている。共有されたものをもっているから理由を問うことなく守ろうとする。あるいは持続させようとする。こういう理由があるから持続させるのではなく、当然のように持続の意志が働くのである。

この共同体のなかにいると、自分の存在に納得できる。諒解できるからである。自分の存在と共同体が一体になっているから、共同体への諒解と自己の存在への諒解が同じこととして感じられる。共同体とはそういうものである。

とすれば共同体の中にいくつもの共同体があっても何の問題もない。自己の存在を小さな共同体の中で諒解し、同時に大きな共同体の中で諒解する。さらにはそれらが組み合わさって、自己の存在が諒解されるのである。しかもその共同体はひとつだけでは成り立たない。いくつもの共同体があるからこそ、ひとつひとつも共同体の性格をもち、全体としても共同体でありうるからである。

故に共同体は多層的共同体なのである。おそらく「アソシエーション」を積み上げても共同体は生まれないだろう。理由のある組織を積み上げても、理由がある社会がつくられるだけだ。それはそれでよいかもしれないが、私はそれを共同体とは呼ばない。

トクヴィルにとって健全な社会とはさまざまな精神の習慣が併存している社会だった。逆に述べれば、ひとつの精神の習慣が覆っているような社会を、トクヴィルは危険な社会とみなした。ひとつの理念が支配するような社会をよい社会だと考えてはいなかったのである。なぜならひとつの理念が支配すれば、その理念だけが正義になり、それとは異なる精神の習慣を圧迫する抑圧的な社会が生まれてしまうからである。

いくら制度が民主的でも、圧倒的な多数派が同一の精神の習慣をもっていれば、それが当たり前のように正義になり、それと異なる意見をもっている人は葬り去られる。ここに制度は民主的でも、実態は強権的、抑圧的、全体主義的な社会が生まれる。それがトクヴィルのみたアメリカだった。

では多様な精神の習慣はどうしたら生まれるのか。小さな集団が多様に存在することだと彼は考える。人間の精神の習慣は自分でつくっているように見えるかもしれないがじつはそうではない。そのグループに加わっていることによって、そのグループの精神を身につけるのだと。

いくつかの精神の習慣を1人の人間が身につけるようになると、どれかひとつの精神の習慣に絶対的な真理があるわけではないことに、人々は気づくようになる。

~~~

「多様性」っていうのは、本当はこういうことなのだろうな、と。
もともと日本の共同体には「自治」があったのだと。

からの、内田樹×えらいてんちょう「しょぼい生活革命」

~~~ここから引用
学校教育は戦後のある時点から「工業製品を作る」という産業形態に準じて、制度設計されるようになりました。それは適切に管理された工程をたどって、仕様書どおりの「製品」ができていくプロセスを教育についても理想とする考え方です。

その前の時代、学校教育は農業のメタファーで語られていました。種子を蒔き、肥料や水をやって、あとは太陽と土壌に任せておくと収穫期になると「何か」が採れる。

「工場での工業製品を製造する」というのは第二次産業が支配的な業態だった前期産業社会に固有のメタファーです。「教育の質管理」とか「PDCAサイクルを回す」とか「シラバスによる工程管理」とか、そういうのは全部「工場でものを作る」ための作業なんです。

「私はこれこれこういう人間ですと自己規定して、それを言葉にしてずっと維持してゆく」というアイデンティティ圧力というのは、工業製品に固有のものなんです。缶詰や乾電池だったら、規格化しないと使えない。だから、つよい同質化圧が学校教育で働く。

一度仕様書に組成や使途を定められた製品は、途中で仕様を変更することが許されない。いまの日本社会では、その「仕様変更の禁止」のことを「アイデンティティー」と呼んでいるんです。

~~~ここまで引用

いやあ、これはそのとおり。「自分らしさ」とは「自分のやりたいことは?」とかアイデンティティへの違和感って、これが原因だろうなあと。

いまの社会に合ってない。複雑化し、予測不可能化している社会に、価値を生むためにはそもそも「アイデンティティ」の確立は必要なのか?っていう。

~~~
そして「共感資本社会を生きる」。
やっぱ高橋さんいいなあと。

印象的だったのは「間」の話。

「間」っていう概念も大事ですよね。どっちかを取るってことではない。西洋って「間」がないので、あなたか私か、自然か人間か、みたいなどっちかを取るってなりがちです。だけど日本の面白いところは、間があるんですね。どっちかを取るということをしない。

間にフォーカスすれば、基本的に対立構造っていうのは生まれないんですよ。なぜかと言ったら、そこの間に存在しているのはあなたでもなく自分でもないものだから。でも、自分とあなたってなった瞬間に、壁をつくり対立が生まれるんですよ。

これからは共同体感覚の時代なので、お互いが交わる場所があって、お互いが当事者になれる場所が必要になる。その場所が、僕は「間」だと思っていて、あなたもこの間の当事者だし、自分も当事者であるっていう、お互いが当事者になったときには争いなんて起こらないんです。

この間にフォーカスするっていうことがすごく重要で、これが関係性の再構築なのかなと思っています。

「間」にできあがるものってお互いでつくるものだから、自分自身じゃない部分がある。そうしたときに自分という器の中ではできないことが、この「間」ではできるし、存在しうるわけですよ。

「間」を育むための必要な時間とか環境とかって、僕は地域にすごく存在していると見ている。

働きかけ、働きかけられる、動き、動かされるっていう、この相互作用の複雑系がまるっと「生きる」っていうことだとしたら、地域にはこれを感じやすい環境がありますよね。

人と人との関係性だけじゃなくて、人と自然との関係性もそこには存在していて、その「間」には対話があるじゃないですか。

~~~

4月のラストは、「13歳からのアート思考」から

「表現の花」にとらわれるのではなく、興味のタネを蒔き、探究の根を伸ばし、アートという植物を育てていくこと。その植物は、作品でもあり、高校生自身、つまりアイデンティティでもあるんだと。

そんな場づくり。そして地域の環境づくり。

アートって自由だと思った。いつのまにか収容されていた(あるいは自ら築いてきた)檻をぶっ壊すのは「問い」というベクトルだった。
自由とは「自ら定義すること」だと思った。誰かの設定した枠組みで誰かの設定した答えに向かっていくことは不自由だと思った。

~~~

「間(あいだ)」っていうコンセプト。
二元論ではなく第三の道でもなく、「あいだ」っていうのがあるんだよな。
しかも「あいだ」には無数のグラデーションがあるんだ。

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Posted by ニシダタクジ at 08:07│Comments(0)日記学び足跡
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