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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月10日

経験をデザインするために「動詞」として捉える

2020年7月

いよいよ、寮を設定して「地域みらい留学フェスタ(オンライン)」に向けて急ピッチで準備しているところ。

宇野常寛さんの「遅いインターネット」に刺激を受けて、買ってみたのがこの本。「若い読者のためのサブカルチャー論講義録」(宇野常寛 朝日新聞出版)
これ、面白かったなあ。

人々が音楽に求めるものが変わってきている。「情報」から「体験」「コミュニケーション」へと音楽消費の重心は変化している。

この数十年間が例外的にサブカルチャーの時代だった。60年代に革命を掲げたマルクス主義や学生運動が敗北していくと「世界を変えるのではなく自分の意識を変えよう」という考え方が世界的にも主流になっていく。そのための手段としてサブカルチャーが浮上していった。

この「自分の意識を変える」という思想が西海岸でカウンターカルチャーからコンピューターカルチャーへと受け継がれていくなかで、「サイバースペース」という新たなフロンティアが発見される。サイバースペースによって「自分の意識を変える」ことをしなくても世界そのものを変えることができるようになった。

虚構の2つ目の役割「いつかは存在・実現できるかもしれない可能性」を探り出すこと。

「コロナの時代」が問いかけているのは、「東京」、もしくは「都市」の価値とはなにか?なのかもしれない。

かつて「都市」には、「情報」があり、「体験」があり、「コミュニケーション」があった。突然訪れたZOOM(オンライン)時代において、「体験」や「コミュニケーション」、もっと言えば実現できるかもしれない「虚構」を創造・構築できるのは、「機会」のたくさんある地方なのではないかと。

かつて友人が「東京には類トモしかいないからつまらない」と言っていた。人が多すぎて、同じジャンル(興味関心)の人にしか会えないのだと。それがつまらなくて東京で働きながら地方でプロジェクトを起こすのだ、と。

「創造力」を伸ばすまち。そんなまちが若者や前向きな人たちを集めるのだとあらためて実感した1冊だった。

~~~

このころ、タイミングよく「ウィークリーオチアイ」の「ギグワークは仕事の未来なのか?」を見る。

http://hero.niiblo.jp/e490845.html
キーワードは「響き合わせる」

まずは本「ギグワーク」からメモ

生まれた時からデフレであったら、金融戦略としては、お金をお金としてずっと持っていたほうがいい、つまり、新しいことを始めないほうがいいってことになるよね。たしかに。「挑戦しろ」っていうのはインフレ時代の価値観なんだ。

そもそも正規雇用っていうシステムは何のために生まれたのか?「同じことを繰り返してくれ。ただし、生活は保証する。」そうして均質な工業製品を量産したかったのではないか。

製品からコンテンツへ。本屋が売っているのは製品ではなくコンテンツ。昨日の「サブカルチャー論講義録」文脈で言えば、「情報」はもはやコンテンツではなく、「体験」や「コミュニケーション」がコンテンツになる。文喫とか箱根本箱とかってそういうことかな。

「勉強は嫌いだ」という自己洗脳をかけさせられてるのではないか。それこそが奴隷づくりの方法なのに。「選択肢を増やす」という文脈において、東京よりも地方が有利になる時代なのかもしれない。高校の3年間をどこで過ごすか?

ストーリーの一員になるという所属。フェスで若者たちが求めているのはそういうことなのか。まさにアイデンティティ・クライシスだなあ

「ウィークリーオチアイ」からまとめ
ギグ=ジャズ的な音楽のセッションのこと(その場限り)
ギグワーク=雇用されない人がアドホック(限定的)に集まって仕事をすること。
ギグエコノミー:プラットフォームを介して仕事をつくるマッチングエコノミーのこと。タレント(技能)マネジメント。

宮田さんのこれがアツかった。

働くを響き合わせる。与えられた役割を果たすピースとしての役割⇒体験的価値の中からお互いに成長していく。
ギグ:どういう音を鳴らしたいんだ?=ジャズ
都市や会社=お金のためだった。自分の奏でた音に価値を感じられる。仕事の体験そのものを変えていこうじゃないか。主客が逆転する。

仕事っていうのは、やったりやらされたりするものじゃなくて、シェアするものなんだって。

たぶんそれって「学び」も同じで、やったりやらされたりするものではなくて、ともにつくるもの。お互いがそのプロジェクトで、「機会」を「経験」に変えること。

それは今までもそうだと思ってきたのだけど。

ギグワークが「はたらく」の意味の大転換点に立っているとしたら、「まなぶ」も根本的に変わらざるを得ないよなと思った。

発注者(命令者)-受注者(実行者)みたいな構図ではなくて、まさに主客が逆転というか、フラットになってきているんだって。

ともに自らを「まなび」に差し出しているんだって。

さて。僕たちも、将来のために、「まなぶ」を響き合わせようか。一緒に走る「伴走者」としての大人だけでなく、一瞬一瞬のプロジェクトで音と音を合わせる、伴奏者としての大人たちと一緒に、ジャズ音楽を奏でるような学びを創っていかないか?

~~~

そしてこのタイミングで内田樹さんの「ひとりでは生きられないのも芸のうち」
これ、就活生必読ですよ。そもそも論好き。

「適性に合った仕事をどうやって見つけるか」という問いを立てたことがそもそもボタンの掛け違えだったのである。問いはそのようにではなく、「適性のない仕事に対するモチベーションをどうやって維持するか」というふうに立てられなければならない。

残念ながら、労働は自己表現でもないし、芸術的創造でもない。とりあえず労働は義務である。

人間の適性や能力や召命は、労働する人間が「主観的にそうありたい」と願うことや「そうであるはずだ」と信じることによってではなく、いかなる「実在する客観的な所産」をこの世に生み出したかによって事後的に決定されるのである。

能力や適性は仕事の「前」にあるのではなく「後」に発見される。ある仕事が「できた」という事実が、自分にはその仕事を行う能力が備わっていたことをはじめて本人に教えてくれるのである。

労働は本質的に集団の営みであり、努力の成果が正確に個人宛に報酬として戻されるということは起こらない。報酬はつねに集団によって共有される。

これは「まなび」についても言えるなと

「まなび」の報酬が学んだ本人宛てに戻されなければならないっていうこと自体が、子どもから「学びの意欲」を奪ったのではないか。

「まなび」の成果はそもそも属する集団に帰属するんだ。その「集団」を失っているんだろうな。と同時にアイデンティティ不安に陥っているんだ。

「労働」の報酬を受け取る人が増えるほうがモチベーションは維持できるように、「まなび」の報酬を受け取る人が増えるほど、「学びの意欲」は高まるのではないか。

~~~

オンラインイナカレッジラボ作戦会議
「チェンジ」⇒「シフト」

「にいがたイナカレッジ」とはなんなのか?について、昨日に引き続き、内田さんの本からの考察。

人々が集まって車座になり、一つの食物を分け合う儀礼を持たない共同体は地球上に存在しない。杯についてはその性質のすべてが「下に置かないこと」を人間に求めている。ご飯を食べるために両手を自由にしようと思ったら、杯を別の人間に手渡すしかない。つまり、杯の場合は、食器の形態そのものが共同体の存在を要請しているのである。

「自分が欲するものは他人に贈与することによってしか手に入らない」という文化人類学的真理を私たちはこういう儀礼を通じて学習するのである。

どうして共食(あるいは共飲)の儀礼がこれほど重視されたかというと、第一に近代にいたるまで、食料と水というものが人間にとってももっとも貴重な財だったからである。もっともたいせつなものを差し出して他者とともに分かち合う、友愛のみぶりとしてこれほどわかりやすいものはない。

もう一つは、いっしょに食べ、いっしょに飲むということが「動作の模倣」を意味するからである。同じ食べ物を同時に食べる人々は一種の「群舞」を舞っているのである。共同体のパフォーマンスを条件づけるのは何よりも「周波数の同期」だからである。

それゆえ「個食」という食事のあり方は人類学的には「共同体の否定」を意味していると解釈することができる。それが可能であるのは二つ理由がある。一つは「食物や水はもう貴重な財ではない」と人々が考えているからであり、一つは「共同体に帰属しなくてもひとりで生きていける」と人々が考えているからである。これはどちらも現代日本社会においては合理的な判断である。

ほとんどの時代、人間たちは恒常的に飢えており、集団的に行動しない限り生き延びられなかった。だから、人間の身体組成は「飢餓ベース」であり、精神は「集団ベース」に作られている。現代日本は「飽食ベース」「孤立ベース」での生存が可能になった人類史上稀有の社会である。だから、飢餓ベース、集団ベースで構築された身体運用技法や儀礼や習慣との間でフリクションが起こるのは当然なのである。

いやあ、これはすごいな。身体的なコミュニケーションと共同体の帰属儀式としての会食。チューニング(同期)方法としての食事。

~~~
いやあ、これすごいですね。「まきどき村」の朝ごはんっていうのはこういうことなんだなあと。

さらに橘川幸夫さんの「参加型社会宣言」。

現在は、18世紀から20世紀までの近代の方法論を終わらせて、次の時代の哲学を生み出すタイミングである。20世紀は近代的自我の成熟の時代であった。すなわち「私」という個人意識の鋭敏化の時代であった。次の時代は、恐らく「私たち」という関係性意識の成熟が求められている。

近代的自我のその先は、「私」と「あなた」の関係性を越えていく融合を目指すのではないか。融合の世紀がはじまる。「永遠に中間なるもの」としての「私たち」の時代がはじまるのだ。

これまでの近代的自我が、ひたすら学習と鍛錬で自らを強固に成長させていくものだとしたら、私が「情報的自我」と呼んでいるものは、影響を宇受けながら影響を与えていく情報環境の中に常に漂う自我である。(中略)双方向のシステムによって、個人意識と全体意識が絶えず交信するようになるだろう。そういう環境の中では、ますます一人ひとりの自律的な思考と感性が重要になってくるのである。

「人類」は、海から逸脱して陸に上がり、「言葉」を得て「社会」をつくった。海という環境の中での生命進化が成熟を迎えると、その環境から逸脱しようとする生命体が現れる。海という環境ではなく未知の大気という環境にはみ出していく者たちである。生命は海から生まれ、海という環境を逸脱するとき、体内に「海」を内包した。

「社会」という共同体において必要なものが2つある。それは「法律」と「貨幣」である。私たちは「社会」から次のステージに移行しようとしている。それが「情報の世界」である。

地球の物理的な環境の中で、最大限の機能を果たしたのが近代国家だとしたら、これから進む「情報」の世界は、物理的な制約を受けない、人類にとって未踏の環境である。私たちが「はみ出し者」の系譜の延長線上に生きている者ならば、社会という環境から、「情報」の世界へ、はみ出していかなければならない。

「社会」から「情報」の世界への移行においては、かつて海から陸に上がった生命体がしたのと同じように、「社会の規律」を体内に内包しなければならない。「貨幣」が必要だったのは、人間関係に不信感があったからである。そうした不信感を払拭した情報的人間が登場する。その進化までには、まだ途方もない時間がかかるのだろう。私たちの現在は「社会環境」と「情報環境」を、おっかなびっくり行き来する両生類のような存在である。いやあ、スケールデカいな。橘川さんかっこいい。

~~~

そして、「地域みらい留学LIVE」で確信を持てたキーワード「発見」
http://hero.niiblo.jp/e490866.html

若新雄純さんひさしぶり
わが町の魅力を言語化しようとしている
⇒そもそも魅力の魅は、もののけ、ばけものの意味
⇒魅力は言語化・定めるものではないのではないか

魅力を明らかにしないこと
⇒来た人が魅力を更新し続ける
⇒自ら魅力を発見・発信する人になること
「魅力化」:「魅力」を明確にしないでできないだろうか

プロジェクトとはみんなで「?」「!」を楽しむこと。都会はキケンがたくさんあるから、?が少ない。田舎でたくさんの「?」を発見すること。

「線形」と「非線形」

「線形」の学び=これまで。
〇〇大学合格⇒逆算できる⇒競争できる

「非線形」の学び
予測可能(指数関数的)⇔予測不可能(凸凹・点と点が突然つながる)
僕たちが生きている自然・社会=非線形で非連続=ゴールがない、わからない、計測不可能

やってみると「発見」が起こる。
⇒その「発見」から大人が学ぶ。
⇒その人(チーム・場)でしかできない「発見」がある。

「成果」が価値ではなく、「発見」こそが価値。

「線形」=心理的安心(行き先と立ち位置がわかる)
「非線形」=先が分からない(身体的安心・安全を確保した上で)
大企業:線形な働き方。

放課後が予測不可能になる。プロジェクトをどうするか?よりも「発見」をどう価値にするか。「発見」は100%生まれる。

「線形」と「非線形」の話で「MEDIA MAKERS―社会が動く「影響力」の正体」(田端信太郎 宣伝会議)を思い出す。

「コンテンツ」の3つの軸
ストック⇔フロー
参加性⇔権威性
リニア⇔ノンリニア

1つめが「ストックとフロー」
単行本からツイッター(SNS)までストック性は大きいものから小さくなっていく。ウェブメディアの中でも、ブログとフェイスブックでは
ストック性とフロー性が異なる。これらはどちらがいいとかではなくて、どちらもミックスする必要がある。本とSNSっていうのはたしかにいい相性かも。

2つめが「参加性と権威性」
食べログとミシュランなどを例に出して参加性と権威性について語る。こちらは現在は参加性に寄ってきている。

3つめがリニア(線形)とノンリニア(非線形)
リニアというのは線形のことで、映画のように、一度見始めると、最後まで見るというように、リニア性の高いコンテンツであり、他方、テレビやネットメディアは、チャンネルを変えたり、リンクでほかのところへ飛べるので、ノンリニアなコンテンツといえる。特にデジタルメディアは宿命的にノンリニアなコンテンツとなる。

~~~

これって・・・まさに今「学び」が直面している課題そのものではないかと。ストックとフローを組み合わせつつ、「権威型」から「参加型」に寄りつつ、ノンリニア(非線形)の学び方が来ているのではないかと。

学びの「場」のチカラを高めるのは、ゴールも、組織そのものも、非線形であることが大切なのだろうと。田舎にはいろんな題材があり、いろんな大人がいる。

「機会」から学ぶ。それは「発見」という点を打つことだ。その先に非線形の学びがある。その無数にあるひとつずつの「発見(学び)」の点と点を編集し直すと、スティーブジョブズが言う「点と点がつながる」学びが可能になるのではないか。

プロジェクトの目標達成、個人の成長などの「数値的成果」ではなく、「発見」にフォーカスすること。「発見」を価値だと認識すること。場のチカラを駆使して、「発見」を生み出し、引き出すこと。その「発見」そのものが次なる学びのアクションを駆動すること。

3年間を振り返ってようやく、「ああ、そういうことだったのか」と思えるような。いや、その3年間さえ、人生における点に過ぎないと思えるような。そんな「機会」を地域の大人一緒につくっていく仕組み。

いい問い、もらいました。

~~~

7月14日「まなびのよはく」
http://hero.niiblo.jp/e490874.html

「依存的全体」から「主体的個別」、そして「主体的全体」へ。

「はみ出し者の系譜」のところでも紹介したけど、海⇒大気⇒社会⇒情報という世界の変化の中で、前の世界を内包する(子宮の中が海と同じ成分であるように)ことが必然であると。

それってまさにここでCiftが言うところの個が自立して多様で好き勝手にやるっていう近代と皆が協調し合って一つとして愛し合う近代以前(近代はそれを内包しているのだけど)

どちらか、ではなくてそれを止揚させた世界。つまり内包した世界が必要で、それがCiftの言葉を借りれば、「主体的全体」なのだろうと。僕的に言えば、「自分たち」「私たち」なのだろうけど。

「ひとり」と「ひとつ」、「個人」と「共同体」そのあいだをCiftは「拡張家族」として実験を始めた。

それって、「まなび」の世界も同じなのではないかと。内田樹さんがよく言っている。教育の目的は「共同体が生き延びること」だと。

近代になって、時代の要請でそれが「国民国家として生き残ること」になり、個人はそのための手段としての教育を受けるようになった。

時代は流れて「個人の自立」が一人暮らしの需要を増やして家電王国としての国を支えたりした。いつのまにか教育は「お買い物」と化し、最小の努力で最大の成果を手に入れることに価値があると思い込んだ。

ひとりひとりはますます孤独になり、この先ひとりで生きていけるのか?と不安に駆られている。だからこそ共同体(コミュニティ)への回帰が起きているのだろう。「働くこと」だけでなく「暮らすこと」を考えたいと思っているのだろう。

「探究的な学習」の価値は、Cift的に言えば、「ひとり」と「ひとつ」を行き来することなのではないか。その先に「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような共同体が可能になるのではないか。

僕はそこに「まなびの創造」を見る。「ひとり」と「ひとつ」が動的平衡を保つような「場」

えぽっくの取材型インターン「ひきだし」やにいがたイナカレッジのプログラム、そして今、阿賀黎明高校魅力化プロジェクトでも目指しているような「場」

それは「まなび」の「よはく(余白)」があるような場なのだろう。その「よはく(余白)」は、「ひとり」と「ひとつ」のあいだに、いや、「ひとり」の一部分に、「ひとつ」の一部分にできる。そして、その「よはく」に「場」ができていく。それが橘川さんの言うところの「情報の世界」の感覚なのかもしれない。

高校生の学びを支援するのではなく、高校生の探究的学習に伴走するのでもなく、まなびの「場」にひとりの「伴奏者」として、ともに「ひとり」と「ひとつ」と行き来する存在でありたい。

そこに「まなびの創造」があるのではないかという仮説。

~~~

「ふだんづかいの倫理学」(平尾昌宏 晶文社)

愛(=身近な関係)には4つあるという話。

・横の相補型:恋人、夫婦など
・縦の相補型:親子、師弟など
・横の共同型:友達、コミュニティなど
・縦の共同型:部活、上司と部下など

って。これはわかりやすい。相補型では、相手もっている自分と違うものを大切にすること協働型では、相手と共通するものを大切にすることがポイントなのだと。

そして60°の「ナナメの関係」としてのおじさん

ここでいう「おじさん」は、両親と違うことを許容してくれるテキトーな存在、つまり「ナナメの関係」として書かれています。

「ナナメの関係」っていうのはNPOカタリバが言っているコンセプトなのだけど、高校生にとっての大学生という意味合いで表現されているのだけど。

「おじさん」っていうナナメの関係もありなのかもしれないと。ちょっと角度が大きくなりますけどね。(大学生30°⇒おじさん60°くらい)

それって、地域コミュニティが、というより、地域の大人ひとりひとりがなっていけるんじゃないかと。そんな「おじさん」と中学生高校生の接点をつくっていくこと。

「学びの土壌」の構成要素としての「おじさん」の存在をあらためて考えなおしてみることにする。

~~~

そして、渡辺保史さんの「自分たちごとのデザイン」を。
ここで僕は「見つけ合い」というコンセプトにたどり着く。

学ぶ意欲の塊だったはずの赤ちゃんがわずか15年で学ぶ意欲を失っているという現実。「好奇心を発動しないこと」が大人になることだと教え込まれてきたのだろうか。

主語を私たちにシフトしていくこと。「学び」の主語は「私」だが、「見つける」の主語は「私たち」だ。

「ワクワク」は伝染する。その「ワクワク」は未来に向けてのベクトル的エネルギーだったり、「発見」そのものに対するワクワクだったりもする。

「発見」を喜び合えること。「学び合い」⇒「発見し合い」へのシフト。個人の「強み」も「弱み」も両方とも、場にとっては全てが「強み」になるような場をつくる。


そして、オンラインツルハシで宮本明里さんと対話。

「発見」⇒「問いを見つける力」
「発見」するために「手触り(感)」と「異物(違和感)」に出会うこと。そうきたか!とか見つけた!みたいな。やっぱ、日常に「!」と「?」と「!?」がないとね。

「東京」には何かがある、っていうのを突き詰めれば、「出会い」とか「チャンス」とかの先に「発見」があるんじゃないか。その「発見」という最大の価値が地方に移行しつつあるとしたら。好奇心の向く先が地方になっていくときに大切なのが「インターフェイス」か。チャネルがたくさんあること

「手触り」っていうのは、システム化された大きな世界よりも小さな世界のほうが感じられやすいから。ミッション(思い込み、勘違い)って「手触り」のあるところにしか生まれないんだ。

「手触り」から紡ぎだされるリアルな言葉を他者との対話で行き来させる。それでようやく「自分」がわかる。

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さらに、渡辺さんの「自分たちごとのデザイン」より

実際に会って行うことによって、新しい価値を生み出していくような、創造の場こそ本当の会議と呼ぶべきなのだろうと私たちは考えたい。

ワークショップの3つの特徴、すなわち「参加」と「経験」と「相互作用」である。
経験をデザインする、という発想と、そのデザインに参加できるかどうか、という視点。

経験をデザインするためには、商品やサービスの内容や形態の内容を「名詞」として考えるのではなく、それを経験する人々の行為つまり「動詞」として捉える発想が必要になってくる。車ではなく、移動する。電話ではなく、話す(あるいは伝える)。カメラではなく、記録する。住宅ではなく住む(暮らす)

~~~
おおお。ここで「動詞」っていうキーワード出てきているんですね。これ、進路選択にもに使えると思う。

「探究」って一言で言えば「学びの経験のデザイン」だもんね。

人の経験は、ある一定の時間と空間的な広がりの中でなされるものである。その広がりは、経験の種類によって異なることは言うまでもない。こうした、時間と空間の中にデザインされるべき経験のかたちをとらえる場合には「物語」という発想でアプローチすることが極めて有効だ。自分たちが手掛けている仕事やつくり出すモノ(商品やサービス)を、物語の中に置いてみること。そうすれば、人はどのようにそのモノと出会い、どうやってそれを使い(経験)し、どうやってそれと離れ(あるいは場合によっては廃棄して)次の経験へと移行していくかというリアリティ。

異なるものをつなぎ、それぞれから何らかの資源や問題を引き出し、うまく組み合わせて、新しい価値を創り出し、問題を解決していくためのインターフェイスとなる人。「インターフェイス」役を育てるためには、なによりも「実践のコミュニティ」をどう設計するかが鍵になるだろう、という確信を深めている。

ノマドやコワーキングを、ITによって可能になった「自由な」働き方という皮相な捉え方にとどめておくのはもうやめにしよう。働く単位が個人化・コミュニティ化していくスタイルであるという以上に、組織やそこでの生産(価値創出)のありかた自体の革新につながっていく、と考えた方がいいだろう。

それは、たとえば既に衰退してしまって久しい「生業」や「家業」といった概念の問い直しにもつながっていくだろう。要するに仕事の適正規模とは何なのかという問い直しである。成長や拡大をむやみに志向しないこと。ハンドリングできる規模を維持すること。それと、従来の組織型の仕事との違いは一体何なのか?明確な答えがあるわけではない。

経済とコミュニティをつなぐ新たな場所が求められている。その新しい場所は、従来の経済では自明だった前提や関係性を再考し、それを愉快なかたちで組み換えていくものとなっていくだろう。

コワーキングスペース、フューチャーセンター、ファブラボ・・・。広義の「つくる」営みを支援するそれらの場所が、オフィスや工場や学校といった機能分化されて久しい従来の場所に代わって、社会における新たな「生産」や「創造」を担っていく。もちろん、それが全面的にリプレースすることはありえないだろうが、これらに代表される新しい場所の増殖は何を意味するのか。

~~~ここまで引用

新型コロナウイルス下で「学び」に起こっていること、起こりつつあることは、まさにこれなんじゃないか。「仕事」を「学び」に、「経済」を「教育」に置き換えてみる。

ひとりひとりが「フリーランスラーナー(学び手)」として、ノマド・コワーキング的に学んでいくこと、そして、そこには「コミュニティ(つながり・ソーシャルキャピタル)」の存在が必須であるということ。

先日のオンライツルハシで宮本明里が言っていた。「問いが生まれるには、「手触り(感)」と「異物との出会い(違和感)」が必要だと言っていた。その「手触り感」のためには、小さなコミュニティであることや「暮らし」に根差しているリアルが必要なのではないか。

新型コロナウイルスショックは、僕たちに問いかける。

「大学ってそもそもなんだっけ?」
いや、そもそも「学び」とはなんだっけ?

橘川幸夫さんが言う「情報の時代」は、ひとりひとりが情報とリアルの「インターフェイス」であり、「ノード(結節点)」となる時代だろうと思う。

歴史的・贈与的意味合いからすれば、タテ(時間軸)のインターフェイス・結節点となり、
コミュニティ的意味合いからすれば、ヨコ(人軸)のインターフェイス・結節点となる。

そのような地域をフィールドとした学びの場に、高校生も中学生も、地域に暮らす大人たちも、一緒に「わたしたち」としての学び・プロジェクトを創っていくこと。

「わたしたち」のプロジェクトが持つ三次元的なベクトルのあたたかさと力強さに触れることで、僕たちは、少し先の未来へと歩みを進めていくことができる。

~~~

そしてSMOUTによるプロジェクトの取材

あらためて明治時代以降の教育シフトとは何か?を考えた。

1 「発見」から「達成」へのシフト
学びの喜びを「発見」から「達成」へとシフトさせた。

2 「承認」から「評価」へのシフト
承認欲求を他者からの評価欲求へとズラした。

3 「場」から「個人」「自分」へのシフト
学びが「科学」となり、量的に測られるようになった。

これら3つのシフトは、「近代工業社会」の要請によって、「科学的」であり、「量的に計測可能」であることが大切だった。その、前提が何十年も前に崩れているのだ。

学校に通っているといつのまにか、学びは苦役となる。学べば学ぶほど、「自分はアタマ悪いんじゃないか?」って思うようになる。なんだそれって。学びが人を幸せにしないシステムってなんなんだって。

「学び」の逆シフトを起こさなければならない。いや、もう起こっているはずだ。

「個人」から「場」へ。
「評価」から「承認」へ。
「達成」から「発見」へ。

それを始めるのが「場」の構築であると思う。「場」で学ぶとは、「学び合い」を「見つけ合い」にするということ。心に浮かぶ言語化以前の不完全なキーワード、もしくは、「印象に残ったこと」というあいまいなものを「場」に出し合うこと。

それを「その人はなぜ、そんなことを思ったのだろう?」と「場」で考えること。

そして、見つけること、発見すること。
そこに喜びを見出すこと。

思ったことをいうこと。言える場があること。「個人」を「場」に溶かしていくこと。

それが「対話の場」だったり、「ワークショップ」だったり、「プロジェクト」だったり、町を舞台にした「探究学習」だったりする。この町にはそれを起こせる「場」がある。「場」の構成物、構成者たちがいる。

人口1万人の小さくて広い阿賀町には、流行りの言葉で言えば、「手触り感のある」「高解像度」な「資源」と「課題」と「関係性」が詰まっている。

それらを「場」が希望に変えていく。そんな学びの未来を見てみたい。

~~~
という感じの7月でした。

「見つけ合い」「私たち」とか
いまにつながる重要なコンセプトを見出した7月でした。

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Posted by ニシダタクジ at 05:18│Comments(0)日記学び足跡
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