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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月18日

「承認」不安とアイデンティティ

「承認」不安とアイデンティティ
「ひとはなぜ「認められたい」のか ―承認不安を生きる知恵」 (山竹伸二 ちくま新書)

「認められたい」の正体(講談社現代新書)から10年。
(僕にとっては)待望の新刊です。

ツルハシブックス時代に聞いた大学生の二大悩み
「やりたいことがわからない」と「自分に自信がない」
の「自信がない」ほうの原因のひとつが
この「承認」不安なのではないかと思っています。

「承認」不安のメカニズムをどうとらえたらいいのか?
大学生からで間に合うのか?
家庭で「親和的承認」が得られない場合、学校や地域でフォローは可能か?
チューニング(チームビルディング)によって「存在の承認」は可能か?

そんな問い。

2012年夏、大学の課外活動プログラムづくりで、
粟島に行った時の劇的な効果(実感値)を目の当たりにして、
そのカギは、存在の承認(≒親和的承認)にあるのではないかと思った。

http://hero.niiblo.jp/e291471.html

この時のキーワードが
1 親和的承認
2 集団的承認
3 一般的承認
だった。

大学生が抱える「自分に自信がない」の中に、
アイデンティティの不安がある。
「何者かにならなければならない」という脅迫だ。

本書ではアイデンティティと承認不安の関係を次のように説明する

~~~ここから引用

近代以前なら、共通の社会規範・価値観によってアイデンティティも明確でしたが、そうした大きな価値観がなくなると、私たちは根無し草のようになり、自分が何者なのかを自分で探し求めなければなりません。しかも、自由な社会であるはずなのに、「自分らしく生きろ」とか「個性が大事だ」などといわれながら、独自のアイデンティティを見出す必要性に迫られています。

哲学者のチャールズ・テイラーも、近代以前は「アイデンティティが、それとした主題化されるに値するほどの疑わしさを持たなかった」が、近代ではアイデンティティが他者との対話的な関係、承認に依存するようになったのだと述べています。「内面において生み出されるアイデンティティの理念の発展が承認に新たな重要性を付与するのは、このゆえである」というのです。

このように現代は自分の固有性・独自性を他者に認めてもらわなければ、自分のアイデンティティがはっきりしない時代です。そのため、他人の目を気にし、周囲の評価に怯えるばかりで、なかなか自由に行動することができなくなっています。もはや私たちは、社会的な価値観に制約されず、社会の評価、承認をさほど怖れてはいないのですが、身の回りにいる人々に対しては、強い承認不安を抱いているのです。

~~~ここまで引用

サルトルは「人間は自由の刑に処せられている」と言ったが、まさにそれだなと。
そして彼は「社会参画せよ」とも言った。

「では、どうするか?」
という課題。

ベースとなる「存在の承認」を家庭以外で取り戻せないだろうか?

「承認」不安とアイデンティティ
ひとつ目は、離島に行くこと。新潟で言えば粟島。
シーズンオフに行けば、すれ違う人が皆、話しかけてくる。
「どこから来たんだ?」と。

2泊3日で行けば、民宿のおじちゃんが、
2日目の過ごし方を心配してくれる。
「明日の昼間、何するんだ?車、乗ってく?」

マザーテレサは愛情の反対は無関心だと言ったが、
粟島にいけば、「関心」にさらされる。
それを繰り返すと、「もしかしたら自分は若いだけで価値があるのかもしれない」と勘違いできる。
いや、本当に「若いこと」は(おじいちゃん、おばあちゃんにとっては特に)価値があるのだけど。

それは「にいがたイナカレッジ」の1か月を中山間地の集落で「暮らす」のも同じだ。
そこに「存在の承認」(自己承認)のチャンスがあると思っている。

ふたつ目は、「チューニング」だ。
ミーティングの最初に「最近あったよかったこと」を言う。
ミーティングの終わりに「印象に残ったこと」を言う。
いわゆる感覚、感性の共有。「思ったことを言う」こと。
それを繰り返すことで、「存在の承認」が得られるのではないか、
という仮説を持って、「チューニング」をやっている。

みっつ目は、
「チームや地域や場の個性の構成員になる」というもの。

これは非常に感覚的なものなのだけど、
自分が属しているチーム、地域、場の
一員として、自分が存在していて、
そのチーム(地域・場)全体として個性を発揮できる環境。
(そのチームには「チューニング」によって自らが一部溶け出している)

その個性や独自性、生産物が認められること。
それによって間接的に自分を認められるようになるのではないか。

っていう3つの仮説。
「アイデンティティ」と「承認」は密接に関係していると僕も思う。
「行為の承認」を求めて「チャレンジ」を始める前に、「存在の承認」が必要だと思う。
そしてそれは、チャレンジしながらでも作っていくことができるのではないか。

まあ、本当は「チャレンジ」などではなくて、「実験」に過ぎないのだけど。

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Posted by ニシダタクジ at 07:58│Comments(0)学び
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