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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月26日

まなびはつづく・・・

2020年11月

あと2か月。
ふりかえります。

10月31日~11月3日は、益田・津和野のエデュトリップにお邪魔してきました。

~~~
まずは益田市のユタラボ

静的な「場」(居場所)と動的な「場」(プロジェクト)を複数個持つこと。それぞれの「場」で「演じ分ける自分」を肯定できること。特に動的な場=プロジェクトにおいては、場と一体化できるまでチューニングすること。

たぶんぜんぶつながっているな。

「個」が「達成」して「成長」することに価値を置く「達成」パラダイムと「場」が「発見」して「変化」することを楽しむ「発見」パラダイム。

「教科(学習)」の視点で言えば、学びの目的は「成長」であるのかもしれないけど、「探究(学習)」の視点で言えば、学びは個々の「変化」を前提としている。

学びの主体を「場」に移行していくことで、個人戦から「場」の一員としての自分になり、アイデンティティの危機を超えていけるのではないか、と思っている。

あとは、「おもろい」が大事。負けないこと投げ出さないこと逃げださないこと信じ抜くことよりもずっとずっとはるかに「おもろい」が大事だ。その「おもろい」っていう要素のひとつに、「予測不可能性」があるような気がする。

そしてその予測不可能性は、「達成」のパラダイムと「発見」のパラダイムのあいだと余白に生まれてくる「何か」なのだと思っている。

~~~

2日目。
午前中は子どもたちとの「てつがく対話」。
冒頭に投げ込まれたのは「教育」という言葉への違和感。
「教育に関心のあるみなさんがここに集まってきていると思いますけど・・・」
あれっ、僕、「教育」に関心なんてあったっけ?と、心底、驚いた。

その謎は、午後に解けた。
益田市社会教育課の大畑課長の講演。
「教育」という言葉そのものへの違和感の正体。

Aという人がA´(もしくはB)という人に「成長する」。そのプロセスデザインや、右斜め上に向かう、そのベクトルを「教育」であると定義する。

でも実際地域で起こっているのは、Aという人は動的な「場」(サイクル)に投げ込まれ、ぐるぐると回っていくなかで「発見」を繰り返し、いつか外へはじきだされたときにA´かBかC、もしくはDになっているのだ。

そのサイクルの中の一瞬を切り取ると、あのスライドショーのような写真になるのかもしれない。それは、そこに立ち会った人しか味わえない一期一会の「場」だ。

そうか、僕は「個人」が「成長」するっていうことに興味が持てないのかもしれない。「場」が「発見」することには大いに関心がある。「成長」じゃなくて「変化」だし、その二つとも、目的ではなく結果だ。

その「場」のフィールドが「学び」(地域と共にある学び)っていうことなのか。フラットなコミュニケーションと見つけ合える「場」をつくりたいんだ。
ひとつ、謎が解けた。

~~~
これは大きな発見だったな、と。
「教育」をしたいんじゃないんだと。
「場」を創りたいんだ、と。
現在性と一回性と全体性を感じられる場をつくりたいのだと。
~~~
3日目は津和野高校魅力化プロジェクトを中心に。
違和感の中から見えてきたのは、「劇場」というコンセプトだった。

引っかかったのは「県外生に影響されて津和野の子もだんだんと自分を表現する、やりたいことを口に出すようになってきた」という一節。県外生に影響された、とはいったいどういうことだろうか?

だって、チャレンジできない理由として大きいのは津和野=コミュニティがひとつしかない=逃げ場がないことだったはずなのに、その原因を解消せずに、「やりたいことやろうよ」って大合唱したら、急にできるようになる?

もちろん、人間は環境に影響されるし、その環境の要因として最も大きいのは人間関係だとは思うのだけど・・・と考えていて仮説が生まれた。

学校空間(探究の授業や地域部活だけかも)そのもののサードプレイス化。つまり、1/3が県外、1/3が町外からの通いである津和野高校は、狭い津和野のコミュニティとは違う空間となっているのではないか。だからこそ、心理的安全性があるのかもしれない。

もうひとつ引っかかったのは、「中学生のやってみたい!をカタチにする」というところ。それを、日々の学校での発言から先生と一緒に拾う、というところ。中学生に「やってみたい」が言語化できるだろうか?もちろん、できる人もいるとは思うのだけど。

やりたいこと(自分の意志)を知る前に、好きなこと(快・不快)を知ること。他者を理解するためにもまずは他者のやりたいことではなく、快・不快を知ること。

「劇場」だ。劇場のような「場」をつくることだ。

★自分の好きなこと(快・不快)⇒自分の学びたいこと(意思・意志)を「場のチカラ」と「地域の大人」で「発見」する営みを「探究」の入り口に置くこと。

場のチカラを体感することで、・見つけ合い・ふりかえり・場でやればできるじゃん⇒場の構成員である実感が湧いて、それが承認につながっていくのではないか。

見つけた!という「快」と達成した!という充実感の違い。学校(教科学習)という伽藍と「探究(地域)」というバザール(市場)。バザールの戦略は試行錯誤を繰り返すこと。(伽藍の戦略は失敗をしないこと)

プロジェクトに締め切りはない⇒「成果」ではなく「自分の成長」を語る

★発見ベースで発表フォーマットをつくるのもいいかも
「個人戦」から「場」へ⇒場にまきこまれる(友人がやっているから)
「自分を知る」=関係性、行動からだんだんとわかる。

★屋号(チーム名)で活動すること
⇒自分とは違うものとして取り組む

旅に出る前のテーマ。
学びの動機を「達成」から「発見」へ
学びの主体を「個人」から「場」へ
学びの成果を「評価」から「承認」へ
その方法論は、「学校のような劇場をつくる」だ。

「演じる」ことを前提に場を設計することだ。「やりたいこと」の前に「快・不快」を大切にすることだ。頭ではなく心でふりかえり、感情の揺れにフォーカスすることだ。バザール(市場)として「探究」の舞台をつくることだ。

「高校生」というフィクションを生きろっていう感じかなあ。

学校を劇場に。
そしてまち全体を劇場に。
「一期一会」の瞬間を生み出す舞台をつくるんだ。

ああ、それなら、やったことあるな、と。

~~~
4日の帰り道。本にまつわる人に出会う旅。
広島のあやさんには「読書」の魅力をいっぱい教えてもらった。

読むってどういうこと?
1 知らない
2 知っている
3 説明できる
4 使える
3~4までいきましょうと。

読書によって得られるスキル
1面白がる
2疑問を持つ
3人に伝える
★1,2は「好奇心」の具体的表現

3つのうち、どれを頑張るか、事前に決める
好奇心を育むことはできるか?⇒面白がっている人のそばにいること
先に発表する人を決めておく⇒そのつもりで聞くことができる
疑問を持つ⇒目の前に著者がいたら何を聞きますか?

サードプレイスは、第1、第2の場と異なる価値観によって運営されている場だとすると、「本屋」には、無数の価値観が(もちろん店主の価値観によりセレクトされているが)背表紙から訴えてくる。

そういう言語と非言語のあいだにあるもの、それが「本棚」であり「本屋」だ。ゆたラボの檜垣さんの言う「グレーゾーン」(学校教育と社会教育の)は、僕が言ってきた、「境界をあいまいにする」「余白をデザインする」っていうのは、本棚、本屋でこそ、成立しやすいのではないか。

出会う「場」であり、託す「場」であり、創る「場」としての本のある空間。
そんなのをつくりたいなあ。

~~~

そして、「阿賀探究の森構想」へ。
「未来をつくる言葉~わかりあえなさをつなぐために」(ドミニク・チェン 新潮社)
第7章にこんな一節がある。

~~~ここから引用
自然史は、遺伝子複製のエラーを許容することによって駆動されてきた。つまり生命はそれ自体が非生産的な現象として進化してきたのだ。自分の領域が侵犯されるという認知によって、「わたし」と「他者」を区別しようとする防衛本能が働くことは、身体の免疫系と同様の働きだといっていいだろう。生物学的にいえば、これは原初のレベルの自己同一性(アイデンティティ)である。しかし、連綿とつながる進化の鎖に注意を向ければ、種の系統発生という個体の寿命よりも長い時間軸の中で、より高次な自己同一性が発現してきた。

先に見た遺伝子の交配とは、個々にとっての自己、つまり究極的な「わたし」に、「他者」のものが混ざることで個がゆるやかに変容していくプロセスなのだ。短期的な個体発生の時間の上に、より長期的な系統発生の時間が重畳している。この二つのリアリティを架橋するための認識が必要とされていないだろうか。
~~~

「他者」と混ざりあい、自己が変容していくプロセスは、これまでの歴史そのものではなかったか、と問う。それは自然との関係性でも同じだ。常に変容し続ける自然に対し、種は遺伝子エラーを許容することによって生き延びてきた。

さらにこの章は「ぬか床」を引き合いに出しながら続く。

~~~ここからさらに引用
ぬか床と人間はひとつのホロビオントを形成していると言える。
ホロビオント:複数の異なる生物種が共生関係を結び、一個の不可分の全体を形成すること。(リン・マーギュラス 1991)

標準的なぬか床にの内部には100種類ほどの菌類が棲息しているが、この多様性こそがぬか床の成立条件だろう。なかでも、一般には悪臭の原因だとされるグラム陰性菌は、ぬか床の初期段階では抑制される必要があるが、最終的には彼らが「復活」しないと、ぬか床独特の豊かな風味が生まれない。

システムの構成要素を善と悪、効率と非効率で区分する思想からは、ぬか床の豊潤な発酵状態には到達できない。造礁サンゴやぬか床のように、複雑な要素が互いに排除し合うのではなく、絶妙なバランスの上で共生するシステムの姿から、人間の社会の在り方を考えることはできないだろうか。
~~~ここまでさらに引用

ここで言う、ぬか床のような、もしくはサンゴ礁や雑木林のような。そんな共生関係のある学びの場が可能なのではないか?

名付けて「阿賀探究の森構想」(仮)だ。

この町を舞台に、いくつもの探究サイクルが回っている。その真ん中には、子どもたちがいる。そして、それはひとりではないかもしれない。

町の大人たちもいつのまにか、そのサイクルに巻き込まれ、サイクルの規模(対象範囲)がだんだん広くなっていく。子どもはじきにそのサイクルを卒業し、次のサイクルへと歩みを進める。

大人達も刺激を受け、自ら探究サイクルを回す大人もいる。そのサイクル全体を多方向から支える人たちがいる。学校システムや行政システムがある。

まちと探究サイクルも「ホロビオント」(共生関係)を形成しながら、まちそのものも元気になっていく。

気がついたら子どもは18歳になっていて、自らつくった新しい問い、新しい探究サイクルに向かうべく、旅立っていく。ある人は大学で、ある人は専門学校で、またある人は就職先で、サイクルを回す。

探究の森の子どもたち。
それは保育園児、小中学生、高校生だけのことじゃない。
この町で探究サイクルを回す人はみんな、子どもたちだ。
20年後、みんながハタチになったら、同窓会でもやろうかな。

~~~
いいなあ、これ、実現したい。

11月10日
「存在」は創造のエッジにある。
http://hero.niiblo.jp/e491178.html
ここから何かが見えてきています。

「課題発見/問いを立てる」には、「違和感の言語化」が必要で。
「違和感のキャッチ」には心を開いていることが必要で。
「言語化」は普段から思ったことを言葉や文字にしていくことが必要で。
「違和感」を感じるためには自分の「快・不快」を知ることと「他者との違い」を理解することが大切で。

っていうように、つながっている。
「主体性」という言葉はよく叫ばれるけれども、「指導」によってそれを生むことは原理的に不可能で、「対話」によって課題(問い)を発見することで生まれてくるのだと思う。

「好奇心」とは、面白がることと疑問を持つことでそれってスキル(技術)だよね、って友人が言っていた。「場」においてそのスキルを磨いていくこと。「主体性」さえ、見つけ合うことが可能なのではないかと僕は思っている。

~~~

そして大辻さんによるICT講習(オンライン)

15歳から18歳までを単なる「消費者」として過ごしていて、18歳、あるいは22歳になったら突然感性と企画力(課題発見・解決能力)が付くのだろうか。

田舎で、まずは感性を開く。感じる。疑問・違和感をキャッチする。問いを立てる。仮説を立てる。ICT活用して調べ、計画書・企画書を書く。「場」に飛び出す。

「発見」する。「発見」をシェアする。ICTで他校とも他流試合ができる。

「学び」がある。次の課題が見つかる。次の「場」へ飛び出す。その繰り返しの中で学びたいことができる。進路希望ができる。ICTで個別最適化された学びができる。総合型選抜だけでなく、受験にも対応できる高校生になる。

そんなシナリオ。
これ、実現できるよ、って。
この町でならやれるわ、って。
ICTってそういうことか。

~~~
いいっすね。
ICT化する必然を感じました。
最上のマイプロ学びの場のゲストは飛騨の関口さん。
これもシビれましたね。
~~~

関口さんのアプローチ(課題に向かう時に大切にしている考え方)

1 森を歩く
・関係する人々はどんな日々を送っているのか(情報収集できているか?)

2 声を聞く
・どんなことを目指しているのか(目的や目標を知っているか?)
・どんなことを大切にしているのか(価値観を知っているか?)
・今何に困っているのか(困りを聞けているか?)

3 妄想する
・本当はどうなったらいいと思うのか(共有したい未来を考えられているか?)
・どんな未来は避けたいと思うか(どんな未来が来ることは避けたいか?)

4 手札を知る
・既に上手くいっていることは何か(出来てることに気がつけているか?)
・既にどんな資源があるか?(人や文化、団体、活動、施設など)(町の資源についてどれだけ知れているか?)

5 道を描く
・何をしたら良さそうか(いくつか行動のイメージができているか?)
・やってみる(実際行動できているか?)

大人の存在が学習意欲を高める鍵を握っている
★学習意欲とのつながり:
1 勉強の面白さを教えてくれた大人の数
2 将来目標にしている大人の数
3 尊敬できる大人の数
4 相談できる大人の数
5 友人の数
6 親友の数
7 所属しているグループの数
8 異性の友人の数
9 近所であいさつしたり、会話をする大人の数
10 日常的に連絡をとる家族・親戚の数

★「支援マインド」と「協働マインド」
★大人の課題解決力・探究心をいかに高められるか?
★「地域」と「授業」のあいだでカリキュラムマネジメントする。

ステキな視点だなあと。

あとは冒頭の問い。何のための教育魅力化か?中心的課題は何か?その課題をどうやって解決するのか?

僕はが取り組みたいのは、やっぱり「アイデンティティ」の課題だ。「やりたいことが分からない」「自分に自信がない」という大学生。アンジェラアキの「手紙」を聞いて、涙する15歳。そんなんじゃないぜって。

教育魅力化は、学校と地域が対話しながら、その地域独自の「新しい学び」を創っていくことだと思う。その創造のエッジに、アイデンティティ、つまり「存在」があるという仮説。言い換えれば「発見」になるのかもしれない。

アイデンティティ問題の原因の多くは、家族・地域社会のつながりの薄さだろうと思う。だからこそ、つながりを取り戻していくんだ、みたいな意見もあると思う。

しかし、課題は同じパラダイムでは解決しない。存在の承認を、つながりによって取り戻すことは難しいと僕は考えている。

存在の承認を、創造のエッジに求めていくこと。フラットなコミュニケーションの「場」に求めていくこと。自らを部分的に取り出し、そのそれぞれを「場」に溶かし、それを本体である自分が承認すること。そんな方法で、アイデンティティは構築できるのではないか。

そのための「場」の構成要素として、「地域」、そして「地域の大人」が必要になってくる。その「場」はプロジェクトを生むだけではなく、結果として大人も、まちをも創っていく。

そんな循環。生態系。そんなのを僕は見てみたいのだよね。森と川と温泉のあるこの町で。

~~~

そして、「まなびはつづく」へ。

現在、多くの人が抱えている「存在」への不安の秘密はそこにあるのではないか。新型コロナウイルスによって「予測可能な未来」は破壊された。だとしたら、自分の「存在」はどこにあるのだろうか?

ひとつの方法は、「継承者になる」ということではないかと。

僕は29歳のあの日(完全に思い込みなのだが)、吉田松陰先生の思想「学び合えば希望は生まれる」の継承者となった。(現在、旧会津藩に住んでいるので、声を潜めて言いますが)

そこに、自らの「存在」の意味が発生したのではないか。
受け取ったこの「手紙」を誰かに渡さなければならない。
受け取ったこの贈与を、誰かに返礼しなければならない。
「継承者」となる、というのは、そういうことだ。

近代社会成立以降、僕たちは「自由」と引き換えにたくさんのものを失ってきた。
・身分制度と役割の固定化
・イエ制度と継承者である自覚
・地域コミュニティと祭りなどでの一体感
・日本型雇用と社内コミュニティ
ひとつひとつが今のアイデンティティ不安に影響しているのではないか。

好きなことを仕事にしたほうがいい、やりたいことは何か?みたいな「自由」こそが、人の「存在」を揺るがせているのではないか。ひとりひとりを「交換可能」にしているんじゃないか。

「つながりが大切」「コミュニティを再構築せよ」と人は言うけれど。ヨコのつながりだけではなく、「営み」のようなタテのつながりを感じられるようにすること。

継承者、つなぎ手であると同時に、創造者であること。その創造を生むのは、自分とまわりの人たちと、環境とタイミング(時)(誰といつどこで)をチューニングした「場」であること。

そんな場に身を委ねることで、「存在」を感じられるような仕組みをつくりたい。つなぎ手として生きる。かつて、会津若松城にモノを運ぶ中継地点として栄えた河港がある、この町で。

まなびはつづく・・・

~~~
11月17日、小国高校へ。
http://hero.niiblo.jp/e491191.html
体育館の床で真剣にフィードバックを書く先生の姿に胸が熱くなりました。

~~~

11月のオンラインツルハシのゲストは益田の大庭さん。

大庭さんの「軽やかな移住」は、そこに「一回性」の高い「場」を生み出した。このまちで、いま、自分(たち)にしかやれないこと。これは、「場」の構成要素である「誰と、いつ、どこで」に対応している。カレー会も、フォトウォークも一期一会の瞬間を生み出している。

イケト×井上有紀のシェアハウスの話がつづく。「人生は自分のものではない」という感覚。
シェアハウスは、「家」をシェアしているのではなく。日常でありながらも「偶然性」の高い「場」をシェアしているんだなと。暮らし、人生そのものを「シェア」している、というか「シェアしている感覚」をシェアしているのかもしれない。

ラストの対話の部屋の「神話」の話も、少し抽象化(メタ化)した「場」の話だったように思う。「場」には神話(物語)が必要なんだ、と。特にゴールが明確(確実)じゃない「場」には。ひとりひとりの人も「場」であるとすれば、

その場に立つための神話(物語)が必要で、それはフィクションなのだけど、そのフィクションを自分で選んでいる、っていうことが大切なのではないかと。

~~~

次にいつも連続している工藤くんゲストのはたらくくらすラボ

1 好奇心や主体性は磨くことができる
「面白がる」習慣によって、「好奇心」は磨くことができる。「好奇心」を磨いた結果、内発的動機が磨かれ、「主体性」につながる。これは高校生からでも、中学生からでも、小学生からでもやったほうがいい。

2 「存在」の切実さが好奇心のトビラを開く。
「ただ居る」ということを許される「田舎」という場と切実に「存在」の課題を抱えている大学生が出会う。「地域という場」は、いちいち楽しめる対象がある。⇒それって、自然とか、農とか、営み?なのかな

3 もうひとつの「自分」を切り離す。
「対象を通して世界を見渡す」っていうのはそういうこと、なのかもしれない。自分が面白がった(興味を持った)対象そのものから世界を見渡してみる。

4 変化の可能性にあふれた「場」に身を委ねる。
「変化の可能性」の中に「存在」がある。そしてそれは、「自分」という単位で世界を捉えないこと、なのかもしれない。

もしかしたら、「面白がる」ことで、人は自分の存在を確認できる、のかもしれない。

もしかすると、アイデンティティ(自分らしさ、個性)が必要なのではなく、自分が「存在」する(「存在」していいんだと感じる)場が必要なのかもしれない。
~~~

「問いのデザイン」をようやく読みましたね。

面白かったのは、リフレーミングのテクニック(P98)
1 利他的に考える
2 大義を問い直す
3 前向きにとらえる
4 規格外にはみ出す
5 小さく分割する
6 動詞に言い換える
7 言葉を定義する
8 主体を変える
9 時間尺度を変える
10 第三の道を探る

特に次の3つ
4 規格外にはみ出す
理想の学校教育とは?⇒国を滅ぼす最悪の授業を考えてみることで理想の学校教育を考えると

6 動詞に言い換える
万歩計をリデザインする⇒歩行を「はかる」をリデザインする

8 主体を変える
この会社の10年後のあり方を考える⇒この会社で働く私たちの10年後のあり方を考える

うーむ、これは面白いぞと。これ、学校現場が直面している課題そのものだなあと。なんとなく思っている「問題」からチームが共通認識できる「課題」へ。その「課題」を手に入れるための「問い」。

それには、リフレーミング(枠組みを組み直すこと)が大切なのだと「地域との連携」「地域に開かれた教育課程」ってそういうことですよね。それは地域側も同じだ。「学校との連携」「小中学生、高校生と一緒にやるまちづくり」

その両者のあいだに、というか全体としての「場」に、「問いのデザイン」が必要なのだなあと。

チームになる1歩は、「問い」を共有することから始まる。

~~~

ここまで。「リフレーミング」ってとっても大切だよなあと。
11月ラストは、とある高校で開催されたフォーラムの感想です。

~~~
「これをやっても世界を1ミリも変えない探究」みたいなお題でワークするのも面白いなと。

課題を解決しない探究っていうのを1度回してみることだ。「やってみた」⇒「ふりかえってみた」⇒「印象に残ったこと、感じたこと」⇒「次のやってみる」っていうのを1度、回してみることだ。

そうすると、振り返りを経て、自分が少し変わっていくのが実感できる、かもしれない。世界は1ミリも変わっていないけど、自分が(自分の世界の見方)が変わっている可能性は十分にある。

今回のテーマは「変容の可視化」だったけれど、その前に「変容」の体感、「変容」の快感を味わうこと。やってみる、ふりかえってみる、のサイクルを回してみることがまずは出発点なのかなあと思った。

~~~

11月、終わりました。
長かったなあ。

ラスト1か月。
ラストスパートです。

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Posted by ニシダタクジ at 07:06│Comments(0)日記学び足跡
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