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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年01月27日

この支配からの卒業

2020年12月

なんとか、1月の宿題である、2019年1月~2020年12月の2年振り返りのラストになりました。

~~~
まずは浦崎先生を囲む会の山本一輝さんの一言から

「主体性」や「当事者意識」について話していた時の山本一輝さんの一言が心に残った。
「同質化」と「危機感」。東北マイプロでの「この町がなくなったら、私が無くなるようなものだ」そういう感じ。まさに「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」に出会った人たち。

僕はそこに「好奇心」を加えようとしているのかもしれない。そして何度も言うように「好奇心」は鍛えられるのだ。「面白がる」「疑問を持つ」ことによって。「好奇心」から来る「同質化」っていうのもあり得るんじゃないか。それは「危機感」から来る「同質化」とはかなり質が違ったものになるかもしれないが。

僕が言う「場のチカラ」っていうのも、「同質化」へのアプローチのひとつだと思う。チューニングし、場と一体化する。それはこの前オンラインツルハシでイケトが言っていた「人生は自分のものではない」と感じられる瞬間であるのかもしれない。しかし、それはフィクションだ。

「遅いインターネット」によれば、
https://note.com/tsuruhashi/n/n07ca42b9a1d8?magazine_key=m21a04cf91a68
僕たちは情報技術を「ここ」を、この場所を、この世界を豊かにするために、多重化するために用いている。「多層化」という表現の方がいいか。

「主体性」「主体的に学ぶ」への旅。分かりやすいのは「危機感」から来る「同質化」(≒当事者意識)からの「主体性」。

これから実験したいのは、「好奇心」と「場のチカラの体感」によるフィクションとしての「同質化」からの「主体性」。極端に言えば、主体性を持つのではなく、主体性を持っているやつを演じるのだ。

来春、他県からも多くの新入生が入ってくる。彼ら、彼女らは「最良の高校選択をした」と思って入学してくるだろう。そこからが始まりだ。

「主体性のある人たち」を演じているうちに、「主体性のある生徒が多い高校」を演じているうちに、気がついたら素敵な高校になっている。
それを「創造的脱力」と言うのだろうな。

~~~
からの「はじめてのスピノザ」
http://hero.niiblo.jp/e491214.html
自分の使っている言葉がスピノザ哲学としっくりくることを実感する。
~~~
そして12月4日「創造的な探究の時間」というコンセプトへ。

キーワードは「創造」だろうと思う。
課題を設計して解決のアイデアを「創造」するのが探究の醍醐味であり、ワークショップ形式である意味だと思う。
あらためて、川喜田二郎氏の著作を読んでみる。
(過去のブログより)

http://hero.niiblo.jp/e490111.html
「学び」はこの直線上にない。(19.12.19)
http://hero.niiblo.jp/e490086.html
最初にあるのは、「我」ではなく「混沌」である。(19.12.10)

かつて日本にあった、「師匠」と「弟子」、そして「道」という考え方

~~~上のブログより

ゴールが見えている時。我が国において「教育」というシステムは、力を発揮した。

ゴールを見失った、いやそもそもゴールが存在しなくなった今、「道」を歩むような「学び」へシフトしていく必要がある。

そしてもうひとつ。下ブログで出てくる、「混沌」というキーワード。

~~~ここからブログより引用
デカルトは神が理性を与え、その人が「物体」を創造する。しかし、川喜田先生は、混沌の中で主体と客体が相互に関係する場があり、主体は客体を創造するかもしれないが、それにより、主体も脱皮・変容が起こる、と。そしてそれは「伝統体」による影響を受けていること。

川喜田先生は、このように説く。

創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。

場をつくる。っていうのは、きっとそういうことなのだろうと。そしてそれはそのまま「学びの場」、あるいは「学びあいの場」づくりに直結しているのだろうと。「場」の価値。それは創造が起こること。それにより自己が変容すること。そして人は、場から学ぶ。「混沌」を出発点にして、「場」から学ぶ。

いつのまにか、僕たちは、「我」を出発点にしてきた。それは西洋のシステムをモデルにした学校制度の宿命だったのかもしれない。

あなたのやりたいことは何か?そもそもあなたは何者なのか?

そんな問いが本当に重要なのだろうか?「混沌」の中に身を委ね、場をつくり、客体と一体化して何かに没頭する。そこに「創造」が生まれる、かもしれない。その「創造」の縁に、「学び」が詰まっていると僕は思う。そんな「場」をともにつくる。

~~~ここまでブログより引用

「場」の価値は創造が起こること。それは学びの創造であり、「場」の創造であり、構成員としての「個人」の創造でもある。

「創造」を前提にして、探究の時間を設計すること。ワークショップを語源通りに、工房とすること。

「創造」のワクワクの中にこそ、「学びの意欲」は眠っているし、それは個人ひとりひとりの中ではなく、関係性の中、関係性から創られる「場」の中に眠っている、っていう仮説。

そんな「創造的な探究の時間」がつくれたらいいなあ。

~~~
12月5日、情熱を探すのではなく育むということ。orientedからnon-oriented(非志向性)へ―"向かわない"社会の私たち(20.6.25)

~~~
12月6日、入寮面接を経て、あらためて「使命」ついて考えた。

「誇り」がある人には使命感がある。その使命感は「継いでいく者」だという自覚によるところも大きい。

老舗和菓子屋の跡取りであり、先祖代々の農家であり、伝統芸能の継承者であるという自覚が使命感を生む。

「誇り」が必要なんだと思う。個人にも、学校にも、そしてまちにも。「誇り」は使命感から生まれる。

「small life with mission」使命とともにある小さな暮らし。塩見直紀さんの提唱する「半農半X」(半分は農的な暮らし、半分は自分の使命を果たすような仕事)の僕なりの英語訳だ。

その「使命」というのは、極端に言えばフィクション(つくり話)だ。自分なりの物語を勘違いしているに過ぎない。

でも。そんなもんだ。
「本当の自分」なんて存在しないように、
「本当の使命」などこの世に存在しない。
「使命感」という勘違いがあるだけだ。

それはきっと文科省の言葉で言えば、「使命感」⇒「自己の在り方生き方と一体的で不可分の課題」になるのだろう。

問いかけることだ
この学校の使命はなんだろう?
このまちの使命はなんだろう?

勘違いすることだ
この学校には果たすべき使命がある。
このまちには果たすべき使命がある。

学校やまちの「使命」を物語化し、その物語に自らを登場させていくこと。そうやっている中で、自分のX(使命)が見つかっていく。正確に言えば、「見つかったような気がする」

高校生たちをプロデュースしているつもりで、実は同時に、学校やまちがプロデュースされていく。主体と客体の変容は同時に起こるからだ。

あらためて川喜田二郎「伝統と創造」より
~~~
創造的行為は、まずその対象となるもの、つまり「客体」を創造するが、同時に、その創造を行うことによって自らをも脱皮変容させる。つまり「主体」も創造されるのであって、一方的に対象を作り出すだけというのは、本当の創造的行為ではないのである。そして、創造的であればあるほど、その主体である人間の脱皮変容には目を瞠るものがある。主体と客体が創造されるだけではなく、その創造が行われた「場」も、また新たな価値を付加されて生み出されるのである。
~~~
そんな「場」づくり、「学校」づくり、「まち」づくり。
来春、入学してくる生徒のみんなと考えてみたいんだ。
このまちの使命はなんだろう?
~~~

12月8日は「スクール・ミッション」について

~~~ここから内田樹氏の本から引用
出発点における否定的棲息状況ということが、あるいはミッションスクールの場合は最大の強みではないかという気がするのです。

教わりたいという人がいなくてもとりあえず教えたいという奇妙な旗を掲げるところから始まった。教わりたい人がいるから教えにきたのではない。教わりたい人を創り出すために教えに来たのである。

自分たちの旗印の下に集まってくる少女たちをひとりひとり見つけ出し、掘り起こしていかなければならない。それは市場のニーズに対応して教育プログラムを整備するといった今日の学校の作り方と全く逆のものです。

つまり、マーケットをほぼ完全に無視して、自分たちが教えたいことを基軸に学校を作ったわけです。神戸女学院の教育についてのニーズはまだ明治初年の日本には存在しない。ならばそのニーズを創り出さなければならない。

私たちがこの学校の最初の生徒であり、そうである以上、この学校が何のために存在するのかを身を以て証明するという責務を負っている。という、責務の感覚を自発的に抱かなければ、学校は立ちゆきません。

~~~ここまで引用

僕はこの本を読んで、「ミッション系大学」の意味を知った。

キリスト教系で、教会で鐘がなる大学のことではなく、文字通り、ミッション(使命)を帯びて、日本の地にやってきた人がつくった大学という意味。

偉大なる勘違いだよ、ミッション系大学。(称賛)

地域と共に「この学校の使命はなんだろう?」と問いかけ、言葉を紡ぎ、「伝えたいことがあるんだ」と小田和正バリに語りかける、そんな学校づくり、まちづくりを始めませんか。

~~~

12月9日、パブソン大学のメソッド

バブソン大学が提供しているプログラムが次の5つの内容です。

1 遊びのプラクティス:自由で創造的な思考に関連し、イノベーションや機会を見いだす。
  ⇒マシュマロタワー、ビジネスシミュレーションゲームをして振り返る
2 共感のプラクティス:心理学、神経科学、デザイン思考などを用いて、他人のニーズや感情を理解する。
  ⇒ピア・コーチング、起業家へのインタビュー
3 創造のプラクティス:予想するのではなく、創り出すための思考を身に付ける。
  ⇒リソース獲得ゲーム、ネットワーキング
4 実践のプラクティス:実際の状況下で、実験結果を見て結果から学び、再度試すことを通して、機会の創造や資源獲得、リーダーシップに関する概念やテクニック、知識を得る
  ⇒アイデアの機会班別を行う訓練や「失敗」についてお互いの認識を議論するもの、5ドル、50ドル、500ドルでそれぞれどういう実験ができるかを考えさせるものがあったりします。
5 内省(リフレクション)のプラクティス:学習体験を体系化し、すべてのプラクティスを統合する。
  ⇒内省のフレームワークを練習したり、自社の文化や自分の価値観を振り返るような経験をする。

~~~
12月13日:マイプロブラッシュアップの日

地域の大人の関わり方3パターン
予備軍⇒3応援者⇒2協力者⇒1伴走者

3応援者:活動を認識して好意的に受け止めてくれている人
・プロジェクト発表会などへの参加
・調査アンケートなどへの回答
・単発での講和の実施

2協力者:自身のリソース(技術/知識/経験値など)を活用して具体的な協力をしてくれている人
・調査のための個別インタビュー
・場所や道具・機器の貸し出し
・商品開発など専門技術・知識によるサポート

1伴走者:継続的に関わり、裏方として活動に支援・指導をしてくれる人
・定期的な打ち合わせや相談
・計画作成や振り返りなども含めた継続的なプロジェクト推進支援

例:マルシェ(青空市場)の活性化に取り組む生徒
プロジェクト担当の先生⇒伴走者
マルシェの仕掛け人である地域の大人⇒協力者
マルシェに参加する地域の大人⇒プロジェクトの「応援者」

そして、2日間にわたり、自分自身の問いの変遷についてまとめた

「問い」はどんどん変わっていく。「問い」が変わるということは、自分(の思考)も変わっているということ。

だから。手法としては、自分に向き合い、目標を立てて、達成を繰り返し、成長実感を得る
よりも、実は「場」と「問い」に注目して、「場」をベースに活動し、結果、「問い」が深ま
る(変化・進化・深化する)探究活動やマイプロは、そんなことを繰り返すためにあるので
はないか。

「やりたいことがわからない」「自分に自信がない」
全然問題ない。結果を出すのはあなた個人ではなく「場」だからだ。

「自分自身の問いが見つからない」
全然問題ない。「場」をベースに活動し、ふりかえりの時間を多くとっているから。共感や
違和感をベースに「問い」を見つけていこう。

問いがなんとなく見つかったら、その問いに対するアクションを起こし、さらに自分で振り
返り、「問い」を育てる(変化・進化・深化させる)問いが変わると共に、実は変わってい
た自分に気づく。

そんな繰り返しでアイデンティティはなんとなく構築され、アップデートされ続けるので
は、という仮説。

~~~

なるほど。問いを育てると結果的に自分が変容しているってやつですね。
これはたしかにそうだわ。

~~~
そしてマイプロ新潟での齋藤くんの「釣りってなんだ?」プロジェクトがベストアントレプ
レナーシップ賞を受賞。あれはうれしかったですね。

~~~
からの内田樹「日本習合論」(ミシマ社)

「習合」というキーワードに、希望を感じた。なぜならそれが我が国の「お家芸」だからだ。

「習合」というキーワード。食べ物で言えば、「あんぱん」や「カレーうどん」や「たらこ
パスタ」のような。

戦わず、主導権を争わず、合わせてしまう。それを今風に言えば、「創造的ハイブリッド」
となるかもしれません。たぶんこれが1300年続いてきた我が国のお家芸なのでしょう。

だから本当は、「多数派」に従うような「事大主義」ではなく、「少数派」を取り入れ、創造
的にハイブリッドしていくこと。理解と共感をベースにしない「協働」をたくさんつくって
いくこと。

「高校(教育)魅力化」っていうのもそういう文脈で語れるのではないかと。地域には何百
年と積み重ねられてきた「営み」がある。そこに「学校」という西洋由来のシステムが入っ
てきて百数十年。

それを「習合」させていく取り組み。「創造的ハイブリッド」を生み出していくこと。
具体的に言えば、それが地域での探究活動だし、その地域ならではの「マイプロジェクト」
ということになるのだろう。

「理想的な学校をゼロから新設する」のではなく、「習合」という観点で創造的ハイブリッ
ドを目指すような「高校魅力化」プロジェクトができるなら、僕にとっては、そのほうが創
りたい絵、なのかもしれないな、と。

~~~
いいですね。「動的平衡」に通じる「習合」としての高校魅力化。これは面白いなと。
~~~

そして12月24日。
仙台「火星の庭」で読書の神様がくれたクリスマスプレゼント。

「はみだしの人類学」
http://hero.niiblo.jp/e491269.html
これは衝撃でした。

ここでは一節だけ

潜在的には、「わたし」のなかに複数の人間関係にねざした「わたし」がいる。だれと出会うか、どんな場所に身をおくかによって、別の「わたし」が引き出される。ここで重要なのは、他者によって「引き出される」という点です。それは「わたし」が意図的に異なる役を演じ分けているのとは違います。他者との「つながり」を原点にして「わたし」をとらえる見方です。

「人とは違う個性が大切だ」とか、「自分らしい生き方をしろ」といったメッセージが世の中にあふれています。でも「わたし」は「わたし」だけでつくりあげるものではない。たぶん、自分のなかをどれだけ掘り下げても、個性とか、自分らしさには到達できない。

他者との「つながり」によって「わたし」の輪郭がつくり出され、同時にその輪郭からはみ出す動きが変化へと導いていく。だとしたら、どんな他者と出会うかが重要な鍵になる。

「わたし」をつくりあげている輪郭は、やわらかな膜のようなもので、他者との交わりのなかで互いにはみ出しながら、浸透しあう柔軟なもの、そうとらえると少し気が楽になりませんか?

もちろんその「他者」は生きている人間だけとは限りません。身の回りの動植物かもしれませんし、本や映画、絵画などの作品かもしれません。いずれにしても文化人類学の視点には、そんな広い意味の他者に「わたし」や「わたしたち」が支えられている。という自覚があります。

~~~ここまで

わたしはもっと「やわらかい」存在なのだと認識して生きられた方が楽しそうです。

~~~
からの、岩手・さわや書店で買った「武器としての資本論」ですね。

http://hero.niiblo.jp/e491278.html
資本主義を内面化している私たちに問いかけます。

「誇り」が失われた。資本主義とシステムによって。
人々は数値化された。「労働者」であり「消費者」であるということによって。

システムによって「存在」が揺るがされている。「就職活動」への違和感は究極、そういうことなのだろうと思います。

「就活」というシステムに適応することは、自分たちを本当に幸せにするのだろうか?極端に言えば、それで「生きられる」のだろうか?という疑問。

本書の最後に、白井さんは語りかけます。

「私はスキルがないから、価値が低いです」と自分から言ってしまったらおしまいです。それはネオリベラズムの価値観に侵され、魂までもが資本に包摂された状態です。そうではなく、「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない。

意思よりももっと基礎的な感性に遡る必要がある。どうしたらもう一度、人間の尊厳を取り戻すための闘争ができる主体を再建できるのか、そのためにはベーシックな感性の部分からもう一度始めなければならない。だから、食べ物の話は、代表的事例であると同時に比喩でもあります。私たちの生活の全領域で、どういう感性を持つのかが問われている。

いやあ、ホントそう。「感性」に戻ること。自分自身の身体性としての「センスオブワンダー」を見つけ、感じること。

そこからしか始まらない。いま、自分が、そしてあなたが何を感じているのか?「場」として何に「価値」をおき、何を創っていくのか?

そんな根源的な問いを見つめていくことから始めていこうと僕も思っています。

~~~
いやあ、根源的ですね。「存在」を揺るがす正体が見えてきます。

12月のラストには、
「オンライン劇場ツルハシブックス」のふりかえりを
http://hero.niiblo.jp/e491295.html

自分というリソースを7:3に配分する。
そんな「経営」が可能なのではないか、という仮説です。

ということで、2020年ふりかえり終了です。
たくさんの言葉を発見しました。
ふりかえりのふりかえりが大事だなとあらためて思いました。

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Posted by ニシダタクジ at 11:15│Comments(0)日記学び足跡
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