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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年07月15日

「本当のわたし」という幻想

就職活動。
「自分とは何か?」という問いに、多くの高校生大学生が苦しんでいる。

それは、現象としては「やりたいことがわからない」や「自分に自信がない」ということなのだろう。
あとは、よく就職意識調査などで問われる、「人のためになる仕事がしたい」とか「人の役に立つ仕事がしたい」とか。

その根本にある、「本当のわたしって何?」とか「わたしは何がしたいの?」っていう問いがグルグルする。

今日はそんなあなたに贈る1冊。

「本当のわたし」という幻想
「利他」とは何か?(伊藤亜紗編 集英社新書)

第2章「利他はどこからやってくるのか?」(中島岳志)より
「わらしべ長者」の話から。

観音様にお告げを聞きに来た若者に、夢に出てきたお坊さんが言った
「最初に手に触れたものが観音様からの贈り物だから大切にしなさい」
を実践しようとしたらいきなりコケてしまって、手元には1本のワラが。

ワラか・・・(笑)

大切に持って歩いているとアブが飛び回ってうるさいので捕まえてワラに括りつけて
振り回して遊びながら言った、すると子どもを連れた女性がやってきて、
その子どもがワラがほしいとねだる。
そうすると若者はあっさりとワラをあげてしまうのです。
これが出発点になっているところが「わらしべ長者」のポイントだと説きます。

つまり、結果としての間接互恵のシステムであり、行為を行った時点では間接互恵が前提とされていない、ということです。

自分が行ったら何かがかえってくるという前提で行った行為ではなく、結果として何かがかえってくるというのが非常に重要な問題ではないのか。それは衝動的なもの、思わずやってしまうこと、理由がつかない因果の外部の行為として行われいるものです。
~~~

このあと、仏教の話に続きます。

~~~
仏教の根本は「アートマン」の否定です。アートマンとは絶対的な我を指すヒンドゥー教の概念です。

コータマ・シッダールタは、アートマン、すなわち絶対的な我は存在しないことを解きました。本当の「我」はどこまで追求しても存在しないことが仏教にとっては非常に大切なのです。むしろ、存在するのは、縁起的現象としての「私」というものだけであるということです。

五蘊(ごうん)=色(=肉体)、受(=感覚)、想(=想像)、行(=心の作用)、識(=意識)
この五つの要素がたまたま結合した結果として「私」というものが存在していると仏教では考えます。

そして、五蘊の複合体である私は、いろいろな縁によって無数に変容していきます。たとえば、誰かと話をすることによって影響を受けると、私の五蘊の結合体は変容する。つまり、昨日の私と今日の私というのは変化している。本質的なアートマンなどというものに支配されず、我に対する執着を超え、無数の出会いによって変容していく「私」という現象こそが本当の「私」である。
~~~

なるほど。
「自分」っていうのがそもそもキリスト教の「神」に対する概念ですもんね。
仏教の「私」感のほうがしっくりと来ます。

もうひとつ仏教の話を。

第3章 美と奉仕と利他(若松英輔)より
柳宗悦「民藝」の思想から

ここでは「不二」の哲学が説明されています。

~~~
それは凡て現世での避け難い出来事なのである。仏の国のことではないからである。ここは二元の国である。二つの間の矛盾の中に彷徨うのがこの世の有様である(中略)。人間のこの世における一生は苦しみであり悲しみである。生死の二と自他の別はその悲痛の最たるものである。だがこのままでよいのであろうか。それを超えることはできないものであろうか。二に在って一に達する道はないであろうか?(『新編 美の法門』柳宗悦)

「二に在って一に達する道」、これが「不二」の世界である。生と死、自と他の存在はそのままでありながら、「二」の壁をこえることはできないか、と柳は訴える。「二」の壁を超える「不二」、それが仏教の説く「利他」と響き合うことはいうまでもありません。

(中略)

柳はそれを民藝という「美」によって表現しようとします。

利他は「他」と「自」がおのずと一つになっていなければ起こり得ない、という基本的かつ肉感的な認識が柳にはありました。そしてまた利他の本質は、人間の主体性の産物ではなく、非・人間的実在との呼応において現象するとも考えていました。

利他とは個人が主体的に起こそうとして生起するものではない。それが他者によって用いられたときに現出する。利他とは、自他のあわいに起こる「出来事」だといも言えます。
~~~

いいですね。
歴史や仏教、学びたくなってきますね。

「自分とは何か?」という終わりのない問いは、そこまでさかのぼらないと解けないのかもしれません。

「私」というものがあるのではなく、私というのは「現象」に過ぎない。

僕はそれを「場」という考え方でとらえようとしているし、身体性を大切にしたいなあと思っている。

いったん「私」を「場」に溶かして、「場」を主語に活動してみる。
「場」が発見し、「場」が創造する。

そこに現象としての「私」が現れる。
そのすべてが「本当のわたし」であり、常に変化(変容)し続ける。

そんな体感が無ければ、(本人たちにとって)深刻な「自分とは何か?」問題は解決しないのではないかというのが私の仮説です。

そんな機会をつくっていきたいと思ってます。

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Posted by ニシダタクジ at 07:10│Comments(0)学び
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