2021年07月22日
LOVE&FREE
2001年。
サンクチュアリ出版の営業デビューしたときに
最初に営業した本。
「LOVE&FREE」(高橋歩 サンクチュアリ出版)
新潟市内の本屋をくまなく回って、
「はじめまして、サンクチュアリ出版です。新刊のご案内に・・・」みたいな。
「え?紀行文?旅エッセイ?ウチそういうの弱いんだよね~。じゃあ棚イチで。新刊なら3冊で平台おいてもいいけど。」みたいな。
「平台お願いしまーす」みたいな。
結果、この本が順調に版を重ねることで、僕は出版社の営業として本屋さんに話を聞いてもらえるようになった。
ちなみにこの本は名言が詰まっていて、ラストはドキドキしてページをめくる手が止まらなくなります。
先日紹介した「夢があろうとなかろうと楽しく生きてる奴が最強」も、祭りの写真とともに納められています。今でも震えるなあ。
という前振りで。
本日は、NHK100分で名著「善の研究 西田幾多郎」(解説 若松英輔)
「善の研究」は難解であると言われていて、まだ読めてないのですが、
こういう入門編があるといいですよね。
なんとびっくり若松さんは最終章である「知と愛」から読んでいけ、と言います。
~~~
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられて居る。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。しからば如何なる精神作用であるか、一言にて言えば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。(第四編 宗教 第五章 知と愛)
「知る」と「愛する」という営みは一見すると二つの異なる認識の方法のように映る。しかし、そうではない、と西田はいいます。それらは「主客合一の作用」、すなわち自分と対象が一つになろうとするとき、共に動き始めるものだと考えています。
普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。(同前)
ここでの「人格的対象」は、「生けるもの」と置き換えることができます。「非人格的対象」は「止まっているもの」ということになります。私たちは「生けるもの」を生きた存在として感じるとき、内なる愛をもってそれに接する。だが、愛が失われた目で世界を見るとき、「生けるもの」は生命なきもの、すなわち「止まっているもの」であるかのように映る、というのです。
また我々が他人の杞憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直に自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。(同前)
「知と愛」は西田にとって同じもので、二つは別な側面を持っているだけなのです。それを近代人は分けて考えてしまっていた。私たちは「知と愛」をもう一度、一緒にしなければならない。さらに、それを一つにすることによって見えてくるものを世に告げることが哲学の役割だというのです。
西田にとって「愛」とは生けるものの本質を掴むちからです。花の中には生けるもの、いのちがある。それを感じたときに私たちは花を愛し、そして花に愛されていると感じる。花に愛されるというのは、花との交わりが生まれるということです。
~~~
なるほど。「知」と「愛」ですね。
「主客合一」とか「主客未分」は僕も好きな概念です。
「私」を外すという美学(17.3.28)
http://hero.niiblo.jp/e484378.html
ここに書いた西田の言葉。
「主客があるかのように思うのは、私たちの思い込みにすぎない。実は主客未分のほうが本来の姿であり、純粋な経験である。経験の大もとを純粋な経験だとすると、純粋経験は主客未分でおこっているはずだ。本質を捉えようとするならば、私というものを前提として考えるのではなく、むしろ主客を分けることができない純粋経験こそを追求するべきだと考えたのです。」
これ「中動態の世界」にも通じていくなあと思ってます。
愛とは、分けないこと、そして感じること、なのかもしれません。
そして「個」と「善」についての記述に移ります。
~~~
近代では、「個」が尊重され、「私」が「私」の人生を「私流」に生きることがよしとされました。それ以前はさまざまなところで「個」が束縛され、大きな不自由を強制されていたのです。国、宗教、共同体などが「個」であろうとすることを阻害していました。
「個」の自由、これは社会的な出来事としては、大変重要な、文字通り革命的な出来事でした。しかし、「個」で生きることに慣れた私たちは、他者とのつながりを忘れがちになっていることも否めません。
社会生活における「個」と、他者と共にある「個」は両立し得ます。この二つの「個」がともに開花することが、西田のいう「善」なのです。
~~~
これ、「LOVE&FREE」に書いてあることじゃないかって。
高橋歩さんは、「LOVE OR FREEじゃない。LOVE&FREEなんだ」と言った。
社会生活における「個」と他者と共にある「個」は両立できる。
まさに「愛」と「自由」は両立できるのだと西田幾多郎は言うのです。
たぶんこういう感覚が高校生たちにとって必要なのだろうと思う。
サンクチュアリ出版の営業デビューしたときに
最初に営業した本。
「LOVE&FREE」(高橋歩 サンクチュアリ出版)
新潟市内の本屋をくまなく回って、
「はじめまして、サンクチュアリ出版です。新刊のご案内に・・・」みたいな。
「え?紀行文?旅エッセイ?ウチそういうの弱いんだよね~。じゃあ棚イチで。新刊なら3冊で平台おいてもいいけど。」みたいな。
「平台お願いしまーす」みたいな。
結果、この本が順調に版を重ねることで、僕は出版社の営業として本屋さんに話を聞いてもらえるようになった。
ちなみにこの本は名言が詰まっていて、ラストはドキドキしてページをめくる手が止まらなくなります。
先日紹介した「夢があろうとなかろうと楽しく生きてる奴が最強」も、祭りの写真とともに納められています。今でも震えるなあ。
という前振りで。
本日は、NHK100分で名著「善の研究 西田幾多郎」(解説 若松英輔)
「善の研究」は難解であると言われていて、まだ読めてないのですが、
こういう入門編があるといいですよね。
なんとびっくり若松さんは最終章である「知と愛」から読んでいけ、と言います。
~~~
知と愛とは普通には全然相異なった精神作用であると考えられて居る。しかし余はこの二つの精神作用は決して別種の者ではなく、本来同一の精神作用であると考える。しからば如何なる精神作用であるか、一言にて言えば主客合一の作用である。我が物に一致する作用である。(第四編 宗教 第五章 知と愛)
「知る」と「愛する」という営みは一見すると二つの異なる認識の方法のように映る。しかし、そうではない、と西田はいいます。それらは「主客合一の作用」、すなわち自分と対象が一つになろうとするとき、共に動き始めるものだと考えています。
普通の知とは非人格的対象の知識である。たとい対象が人格的であっても、これを非人格的として見た時の知識である。これに反し、愛とは人格的対象の知識である、たとい対象が非人格的であってもこれを人格的として見た時の知識である。(同前)
ここでの「人格的対象」は、「生けるもの」と置き換えることができます。「非人格的対象」は「止まっているもの」ということになります。私たちは「生けるもの」を生きた存在として感じるとき、内なる愛をもってそれに接する。だが、愛が失われた目で世界を見るとき、「生けるもの」は生命なきもの、すなわち「止まっているもの」であるかのように映る、というのです。
また我々が他人の杞憂に対して、全く自他の区別がなく、他人の感ずる所を直に自己に感じ、共に笑い共に泣く、この時我は他人を愛しまたこれを知りつつあるのである。(同前)
「知と愛」は西田にとって同じもので、二つは別な側面を持っているだけなのです。それを近代人は分けて考えてしまっていた。私たちは「知と愛」をもう一度、一緒にしなければならない。さらに、それを一つにすることによって見えてくるものを世に告げることが哲学の役割だというのです。
西田にとって「愛」とは生けるものの本質を掴むちからです。花の中には生けるもの、いのちがある。それを感じたときに私たちは花を愛し、そして花に愛されていると感じる。花に愛されるというのは、花との交わりが生まれるということです。
~~~
なるほど。「知」と「愛」ですね。
「主客合一」とか「主客未分」は僕も好きな概念です。
「私」を外すという美学(17.3.28)
http://hero.niiblo.jp/e484378.html
ここに書いた西田の言葉。
「主客があるかのように思うのは、私たちの思い込みにすぎない。実は主客未分のほうが本来の姿であり、純粋な経験である。経験の大もとを純粋な経験だとすると、純粋経験は主客未分でおこっているはずだ。本質を捉えようとするならば、私というものを前提として考えるのではなく、むしろ主客を分けることができない純粋経験こそを追求するべきだと考えたのです。」
これ「中動態の世界」にも通じていくなあと思ってます。
愛とは、分けないこと、そして感じること、なのかもしれません。
そして「個」と「善」についての記述に移ります。
~~~
近代では、「個」が尊重され、「私」が「私」の人生を「私流」に生きることがよしとされました。それ以前はさまざまなところで「個」が束縛され、大きな不自由を強制されていたのです。国、宗教、共同体などが「個」であろうとすることを阻害していました。
「個」の自由、これは社会的な出来事としては、大変重要な、文字通り革命的な出来事でした。しかし、「個」で生きることに慣れた私たちは、他者とのつながりを忘れがちになっていることも否めません。
社会生活における「個」と、他者と共にある「個」は両立し得ます。この二つの「個」がともに開花することが、西田のいう「善」なのです。
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これ、「LOVE&FREE」に書いてあることじゃないかって。
高橋歩さんは、「LOVE OR FREEじゃない。LOVE&FREEなんだ」と言った。
社会生活における「個」と他者と共にある「個」は両立できる。
まさに「愛」と「自由」は両立できるのだと西田幾多郎は言うのです。
たぶんこういう感覚が高校生たちにとって必要なのだろうと思う。
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