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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年08月05日

「個」と「システム」、そして「場」と「余白」

「個」と「システム」、そして「場」と「余白」
サウナのあるオフィス、はたらクリエイト(ハタクリ)の佐久オフィスにお邪魔してきました。
(サウナ前で井上さんと)

上田オフィスはこんな感じ。
「個」と「システム」、そして「場」と「余白」

ハタクリサイト
https://hatakuri.jp/
もう、いろいろ圧倒されて「サウナめし」の試食までさせてもらって、ずっとビックリしてました。
「場をつくる」ってこういうことなんじゃないかって。

ハタクリは、サイトに書いてあるように、はたらくをクリエイトすることで仕事を楽しむ人を増やす、というミッションの元、子育て中のお母さん等がスキルを磨いて段階的に再就職していく場などを提供している。

その人と人とのコミュニケーションのデザインも試行錯誤しながらかなり作りこまれていて、これは寮運営にとってもすごく参考になるなあと思った。

ハタクリの人を育てるコミュニケーションシステム(個人の強みや性格を開示したり、フィードバックしたり、〇〇係をつくったり)は、よく「学校みたいですね」と言われるらしい。

たしかにやっていることは、学校みたいなのだけど、そのベースにあるものが「個」なのか「システム」なのかの違いがあると思った。

この前の大城さんの福祉の話ではないけど、「その人に出会う」ことを大切にしたシステムと、組織や会社を「運営・マネジメントする」ことを大切にしたシステムとの違い。いや、もちろん、「個」と「システム」は、相互に関係しあっているから、両方ともの要素が必要なのだけど。

ハタクリはそのあいだに絶妙に「場」をつくっているから、人が育ち、組織も成長していくのだろうと。
「その人に出会う」ことと、「組織を運営・マネジメントする」の動的平衡の絶妙な「場」を作れるか?っていう。
そういうアートに挑んでいるんだなあと。

たぶん「学校」も「寮(地域や家庭)」も同じで、学校はどちらかと言えば、システムを重視して、そこに適応できる人を育てていくことに重きが置かれ、寮はどちらかと言えば、「その人に出会う」ことを重視して、構成員に合わせシステムの方を育てていくことが大切なのだろう。

たぶん、場をつくる意味ってそういうことなのだろうなと思った。

その「場をつくる」ときに、必要となってくるのが、シロウト(素人)の意見なのかも。
「専門家」と呼ばれる人たちは、その世界に長く暮らしているので、当たり前を疑うことが難しくなる。
(超一流の専門家は、それをいとも簡単にやるのだろうけど。)

「私にとって建築は手段でしかない」とある学生が言っていたけど、そういう感覚こそ必要なのではないかと。「建築は手段でしかない」と言われたときに、じゃあ目的は?とかゴールは?とか聞いてしまうことこそが、近代システムの奴隷であるのかもしれないが、VUCAの時代、予測不可能な、答えのない時代において、手段が(感覚的に)分かっているということには大きな意味があるのだと思った。

専門家ではないからこそ、それを手段としていろんな目的地への行き方として使うことができるのではないか。

「では、私はどこに向かっているのだろう?」というのは永遠の問いなのだから、それを早いうちに決めてしまう必要は必ずしもない。(決めることでの安心感はもちろんある)

今回の遠征で出会ってしまった2冊の本

「個」と「システム」、そして「場」と「余白」
「シェルパ」と道の人類学(古川不可知 亜紀書房)

「個」と「システム」、そして「場」と「余白」
季刊誌『tattva』vol.2「にほんてき、ってなんだ?」(ブートレグ)

「シェルパ」はヒマラヤの山岳ガイド「シェルパ」について考察した人類学の論文の書籍化。

希望とは、もともとあるとのだともいえぬし、ないものだともいえない。それは、地上の道のようなものである。もともと地上には、道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。(魯迅「故郷」)

いきなり魯迅の言葉がすごくて購入。
希望ってそういうものかと。
「道とは何か?」っていい問いだなあと。

もうひとつのtattvaは、にほんてきってなんだ?のあとに、いとなみ、たのしみ、アイデンティティ」って書いてあり、これはヤバい、と思ったのと、冒頭の黒川雅之さんのところにビビっと来たので。

~~~
西洋文化の市場価値は「知」、日本が大切にするのは「美」

例えば、車のハンドルには「遊び」がちりばめられています。ダイレクトではなく、ちょっと動かしてから反応する。人間の動きに完全にシンクロできてしまったら、すごく運転しにくい車になります。

この「遊び」は、人間がハンドルを操作するという行為とメカニズムとの間をつなぐために設けられています。そう考えると理詰めのものをつなぐあいまいな余白、つまり「間」のようなものを「遊び」と言っているのではないか。そして、余白をあえて埋めない「遊び」の感覚が、ものづくりから日々の暮らしまで隅々にちりばめられていたのが、日本文化の豊かさにつながっていたのではないかと思うのです。

しかし、そうした日本人が持っていたはずの美意識は、「知」を中心に置く西洋的価値観に染まった現代ではかなり失われています。では、どうすれば取り戻すことができるのでしょう?

日本の美意識を支えているのは、肌で感じ、香りを嗅ぎ、触れてわかる身体的な感覚です。細部を重視するので、表面的な形はシンプルになっていきます。ただ同時に「シンプルが至上である」というルールもないので、調和をあえて壊す型破りな側面もあります。ひとつの価値観に固定化されようとすると、そこに居心地の悪さを感じ、創造のために破壊するのです。そのため常に揺れ動き、確固とした思想として捉えることを困難にしています。代わりに日本人が重視するのは、「気」であり「間」であり、つまりは感覚的な調和感です。
~~~

そうか。日本的な美は、調和的なものなのだなあと。
そして調和的なものというのは、「あいだ」というか「余白」が大切なのだと。

はたらクリエイトのオフィスにある「純信州産サウナ」のような。

「個」と「システム」のあいだに「場」があり、その「場」には「余白」が必要なんだ。
その「場」と「余白」があることで、「個」と「システム」はうまくやっていける。

たぶん、そんな「場」と「余白」を作りたいんですよね、となんとなくあいまいに思っています。

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Posted by ニシダタクジ at 08:11│Comments(0)日記学び
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