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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年08月07日

巻き込まれて越境し、ふりかえりで意味と自分を知る

8月26日(木)の愛知フォーラムは残念ながらオンライン開催となってしまいましたが、
https://www.agareimei.com/posts/19710629

昨日はそのフォーラムのリハーサルを兼ねた主に保護者対象のトーク企画でした。小さな離島で「島留学」をしている中3生の保護者の方に、フォーラムのプレゼンの予行練習に付き合ってもらいました。

プロジェクトという「場と機会」に自分を差し出すことで「見つけ合うまなび」をつくっていきたい、と。

その後30分の対話の時間。
彼の暮らす小さな村では地域の団結が強く、行事が多数行われるのだという。それに参加しているうちに、両親が目を見張るほどに変化していったのだという。

あらためて思い出したこと。
「巻き込まれる」から冒険は始まる、ということ。

検索したら過去にこんなブログを書いていた。
「冒険は巻き込まれるところから始まる」(15.2.1)
http://hero.niiblo.jp/e462263.html

世の中のロングセラーと呼ばれる冒険の物語の
スタートの多くは自分の意思とは無関係に
巻き込まれるところから始まっているのだという。

名作RPGと言われる「ドラゴンクエスト」。
生まれ育った町が何者かに襲われる。
王様に呼ばれる。「君は勇者だ。」

え?おれ?勇者?なの?
と言っているあいだに冒険は始まっている。
たぶん、そんなものなのだと思う。

8月1日のブログに、はじめに越境ありきと書いたが、
実はその「越境」とは、巻き込まれることによって起こるのかもしれない。

昨日は「地域学」のまちづくりチームの課外活動で、
新潟の沼垂商店街の見学と、阿賀町の空き家の中の整理をを行っていた。
2年生2名が参加。

巻き込まれて越境し、ふりかえりで意味と自分を知る

おそらくはそういう視点でまちを見たことがなかっただろうな、と。

まちづくりチームを率いる
阿賀まちづくり株式会社の高橋眞也さんの人柄と情熱に「巻き込まれた」んだろうなと。

きっと冒険は、そうやって始まるんだ。

「やりたいことは何か?」とその子の意志を尋ねるのではなく、
まずは「越境」だし、それは巻き込まれることから始まる。

その現場で、心が動く。
ふりかえり心の動きをキャッチして、その活動の意味と自分を知る。

「自分」とは「何をやりたいか」なんかではなくて、「どうありたいか?」「どの方向へ向かうか?」なのだと思う。
「目標」(やりたいことやなりたい自分)などではなく「現在地とベクトル」こそが「自分」だと思う。

それを知るために、まずは巻き込まれて冒険をするんだ。

はじめに「やりたいこと」や「意志」があるのではない。はじめに「巻き込まれての越境」があり、その行動を振り返ることで行動の意味と自分を知るんだ。

世の中は「挑戦」に偏重し過ぎているのではないか。
意志があり、やりたいことがあり、挑戦がある。

しかし。

予測不可能なVUCAの時代(社会)が来ている、ということにはみんな同意をしているはずなのに、なぜ「挑戦」に価値を置くのだろうか。予測不可能な時代において起こっていることは、単純に「目標設定の価値の(相対的な)低下」である。だって、その方向に未来がないのかもしれないからだ。

オリンピックのような競技を見ていると、やりたいこと、なりたいものを決め、その目標に向かって「挑戦」することは美しいとは思うけど、実社会においては、挑戦の延長上に未来がないかもしれないのだ。

例えば、馬車が自動車に置き換わっている時に、「日本最高の馬車馬使いになるぜ」って目標を決めているかもしれないのだ。(美しいけども)

もっと感覚を、身体性を磨いて、ステキな大人(だと自分が感じる人)に心を開き、巻き込まれて、「冒険」を始めてほしい。
「挑戦」ではなく「冒険」なんだ。

「冒険」の途中で振り返りながら自分の現在地とベクトルを知るんだ。
阿賀黎明高校の「地域学」がそんな「冒険」の舞台になったらいいな、と。

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Posted by ニシダタクジ at 07:47│Comments(0)日記学び
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