2021年09月26日
「プロモート」のために観察し、感じること
探究学習コミュニティ2回目。
ゲストは後藤寛勝さんと水戸部智さん。
新潟で活躍する2名から学ぶ「探究的」な姿勢。
シビれる名言だらけでしたのでメモに残します。
~~~
「未来の自分に期待しない」「自分の世界を広げられるのは自分だけ」
このまま受験勉強に取り組む、というのは「思考停止への恐怖感」があった。
違和感のキャッチと言語化。思考停止しないために、その機会と時間を持つこと。
「国公立大学に入学する」という理想的生徒像をプロデュースする先生という構図から、「何がやりたいがわからない」から、たくさん拾い上げて助長するというプロモートする地域の大人と先生という構図へ。
「プロデュース」と「プロモート」。
「プロモート」とは、予測不可能な未来に対しての謙虚な姿勢のような気がした。
「プロデュース」するほど、未来に確信ありますか?っていう。
「ファシリテーター」は「プロデューサー」ではなく「プロモーター」なのか。
プロデュースの主体は自分(プロデューサー)で、プロモートの主体は商品。
「プロモーション」とは、商品の特長を引き出して、アピールすること。
以上後藤さん
人から求められること⇒最後のバッターボックスだな、って。最後のバッターボックス。っていいな。機会を大切にしようと。バット振っていこうと。
地域に「ふれる」⇒やりたいことを「さがす」⇒自分らしい生き方に「きづく」⇒目標に向かって「うごく」
すこしずつ、すこしずつ。
「調べる」⇒「考える」⇒「やってみる」を繰り返す。
繰り返しの中で自分のモノサシが見つかる。⇒周りの評価基準に左右されなくなる。
挫折=モノサシの精度が上がる
パッションを維持できるか⇔金を回せるか
という事業の両輪。
WHYとHOWの両輪、か。
なぜ今、自分がそれをやらないといけないのか?に答え続けること。
以上水戸部さん
~~~
「やりたいことがわからない」というときのやりたいことって、whatじゃなくてwhyなのでは、と思った。
なぜ?を教えてほしいんだ。でも、なぜ?は、主観であり、その源泉は自分の中にしかない。「経験」から「違和感」をキャッチし「なぜ?」を磨こう、と。
昨日の最大の学びは「自分を信じすぎないこと」でした。
「信じること」より「感じること」
「プロデュース」から「プロモート」へのシフト。
予測不可能な「未来」に対するリスペクトを。
「挑戦」よりも「実験」のほうが、観察したり、感じたりすることに重点が置かれそう。成果を示すよりも、結果を観察しよう、と。
そんな基本姿勢が大切なのでは、と思っていたら、タイミングよく1冊の本が。
「観察力の鍛え方」(佐渡島庸平 SB新書)
いやあ、タイミングがいいなあと。
「探究学習に必要な姿勢」ってこういうことなのではないかと。
一方で、現在行われているいわゆる「キャリア教育」っていうのが大丈夫かなと。
少し抜粋メモ
~~~
いい観察は、ある主体が、物事に対して仮説を持ちながら、客観的に物事を観て、仮説とその物事の状態のズレに気づき、仮説の更新を促す。
計画→実行→振り返り→計画というサイクルにおいて、起点にすべきは計画ではなくて、振り返り。
オリジナリティとは、型がないのではない。型と型を組み合わせるときに生まれる。いかに遠い型と組み合わせるかが革新を生み出す。
自問自答を繰り返すことで、価値観をモノサシへの進化させる、か。
~~~
読んでいて、「自信がない」っていうのは観察力を鍛える、という意味ではいいことなのではないか、って思えてきた。
自信がない、というのは、観察することが得意になる可能性があるということ。「自信がない」という相談を受けたら「観察力を磨け」とアドバイスするのがいいのかも、と。
今朝は第3章「観察は、いかに歪むか 認知バイアス」を読んでいたのだけど、これはホント、その通りすぎてすごいな、と。
以下に一覧で挙げておく。
・確証バイアス:仮説を強化する情報ばかりが見えるようになる
・ネガティビティバイアス:ポジティブな未来は漠然としか描けないがネガティブなことは仔細に思い浮かぶ
・同調バイアス:みんながそう言っているから、と多数派の意見を支持すること
・ハロー効果:顕著に目立つある特徴に引きずられて、他の特徴がゆがめられる
・生存者バイアス:成功した人の意見には特別な何かがあると思ってしまう
・根本的な帰属の誤り:問題の原因を個人の資質や能力に求めてしまう
・後知恵バイアス:物事が起きてから、それが予測可能だったと考える傾向
・正常性バイアス:異常事態になった時に、パニックになるのを防ぐために、予期せぬ出来事には鈍感に反応するバイアス
~~~
各バイアスにどのように対処し、あるいはむしろそのバイアスを推進力に変えていくか?については、本書を読んで頂きたい。
今日は2つ紹介します。
1つ目はネガティビティバイアスについて
自然の中に暮らしていてどこに危険が潜んでいるかわからない時代は、悲観的であることが、人の生存を助けたのだろう。
そうか。「自信がない」とか「悲観的に考える」っていうのは動物である人にとってはデフォルト(初期設定)なんだな、と。
2つ目は「炎上」について。「炎上」とは現代の魔女狩りで、後知恵バイアスと根本的な帰属の誤りによって起こる。
昔の魔女狩りと同じことが形を変えて、現代でも再現されている。昔は火炙りになり殺されたが、今はマスコミ、SNSで集中砲火にあい、社会的地位から引きずりおろされる。本人の意思や能力が本当に問題であれば、魔女がいなくなれば状態は改善されるはずだが、環境、仕組みが要因だから何も変わらない。そして、また次の魔女を探しにかかる。リーダーを担える能力と気概のある人が、社会から排除されていき、緩やかに社会は弱体化していく。
昔の人たちは、この2つのバイアスで間違った判断をしすぎるのを防ぐために、「妖精」を考え出したのかなと僕は思う。
もしも、起きている問題が、妖精のせいであれば、個人を責める必要がなくなる。集団全体の気持ちが、個人の人格へと執着するのを防ぐ。代わりに、妖精の気持ちを鎮めるための儀式が必要になるのだ。
妖精は、昔の人たちが、無知だから信じてしまった迷信ではない。対立を生み出すことなく、バイアスから自分たちを守る、人間ならではの知恵なのではないか。その知恵を僕たちは、科学的であることが正義であるという考えの下に捨ててしまった。
~~~
うーん、なるほど、と。
「科学的であること」の迷走が起こっているのだなあと。
バイアスの話を読んでいて思ったのだけど、世の自己啓発本と呼ばれている本の多くは、バイアスの強化もしくはバイアスの否定なんだな。成功者の○○とか、不安の何%は幻想、だとか。「バイアス」とは何かを認識することって大事だ。そのメガネで見えてます?みたいな。そう考えると、いわゆる「キャリア教育」で行われていることっていうのはバイアスだらけでまったく科学的じゃないな、と。
探究学習の起点も、科学の原点に返り
「観察」と「振り返り(そして発見)」に置いた方がいいのだなと。
僕たちはバイアスという色眼鏡を通して世の中を見ている、いや自分自身に対してもそうなのかもしれない。自分はこういう性格だから、とか。ジョハリの窓とかそういうのを外して見てみる効果があるのかも。
探究学習コミュニティでも言っていた、「プロデュース」と「プロモート」の違い。
「自分が信じる未来」がいかに危ういか。
そんな前提に立たなければいけないのではないか。
生徒の特徴を生かし、伸ばしていく「プロモート」のために、「観察」し、「感じる」ことを強化しないといけない。
そして、この本の中に何度も出てくるコルクのミッション「物語の力で一人一人の世界を変える」に影響を受けて、僕もミッションを暫定で書いてみようと思った。
フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザインによって「場」をつくり、自分と地域とまなびの未来を、いま、ここから創造する。
ちょっとまだ長いので、シンプルにまとめようと思う。
ゲストは後藤寛勝さんと水戸部智さん。
新潟で活躍する2名から学ぶ「探究的」な姿勢。
シビれる名言だらけでしたのでメモに残します。
~~~
「未来の自分に期待しない」「自分の世界を広げられるのは自分だけ」
このまま受験勉強に取り組む、というのは「思考停止への恐怖感」があった。
違和感のキャッチと言語化。思考停止しないために、その機会と時間を持つこと。
「国公立大学に入学する」という理想的生徒像をプロデュースする先生という構図から、「何がやりたいがわからない」から、たくさん拾い上げて助長するというプロモートする地域の大人と先生という構図へ。
「プロデュース」と「プロモート」。
「プロモート」とは、予測不可能な未来に対しての謙虚な姿勢のような気がした。
「プロデュース」するほど、未来に確信ありますか?っていう。
「ファシリテーター」は「プロデューサー」ではなく「プロモーター」なのか。
プロデュースの主体は自分(プロデューサー)で、プロモートの主体は商品。
「プロモーション」とは、商品の特長を引き出して、アピールすること。
以上後藤さん
人から求められること⇒最後のバッターボックスだな、って。最後のバッターボックス。っていいな。機会を大切にしようと。バット振っていこうと。
地域に「ふれる」⇒やりたいことを「さがす」⇒自分らしい生き方に「きづく」⇒目標に向かって「うごく」
すこしずつ、すこしずつ。
「調べる」⇒「考える」⇒「やってみる」を繰り返す。
繰り返しの中で自分のモノサシが見つかる。⇒周りの評価基準に左右されなくなる。
挫折=モノサシの精度が上がる
パッションを維持できるか⇔金を回せるか
という事業の両輪。
WHYとHOWの両輪、か。
なぜ今、自分がそれをやらないといけないのか?に答え続けること。
以上水戸部さん
~~~
「やりたいことがわからない」というときのやりたいことって、whatじゃなくてwhyなのでは、と思った。
なぜ?を教えてほしいんだ。でも、なぜ?は、主観であり、その源泉は自分の中にしかない。「経験」から「違和感」をキャッチし「なぜ?」を磨こう、と。
昨日の最大の学びは「自分を信じすぎないこと」でした。
「信じること」より「感じること」
「プロデュース」から「プロモート」へのシフト。
予測不可能な「未来」に対するリスペクトを。
「挑戦」よりも「実験」のほうが、観察したり、感じたりすることに重点が置かれそう。成果を示すよりも、結果を観察しよう、と。
そんな基本姿勢が大切なのでは、と思っていたら、タイミングよく1冊の本が。
「観察力の鍛え方」(佐渡島庸平 SB新書)
いやあ、タイミングがいいなあと。
「探究学習に必要な姿勢」ってこういうことなのではないかと。
一方で、現在行われているいわゆる「キャリア教育」っていうのが大丈夫かなと。
少し抜粋メモ
~~~
いい観察は、ある主体が、物事に対して仮説を持ちながら、客観的に物事を観て、仮説とその物事の状態のズレに気づき、仮説の更新を促す。
計画→実行→振り返り→計画というサイクルにおいて、起点にすべきは計画ではなくて、振り返り。
オリジナリティとは、型がないのではない。型と型を組み合わせるときに生まれる。いかに遠い型と組み合わせるかが革新を生み出す。
自問自答を繰り返すことで、価値観をモノサシへの進化させる、か。
~~~
読んでいて、「自信がない」っていうのは観察力を鍛える、という意味ではいいことなのではないか、って思えてきた。
自信がない、というのは、観察することが得意になる可能性があるということ。「自信がない」という相談を受けたら「観察力を磨け」とアドバイスするのがいいのかも、と。
今朝は第3章「観察は、いかに歪むか 認知バイアス」を読んでいたのだけど、これはホント、その通りすぎてすごいな、と。
以下に一覧で挙げておく。
・確証バイアス:仮説を強化する情報ばかりが見えるようになる
・ネガティビティバイアス:ポジティブな未来は漠然としか描けないがネガティブなことは仔細に思い浮かぶ
・同調バイアス:みんながそう言っているから、と多数派の意見を支持すること
・ハロー効果:顕著に目立つある特徴に引きずられて、他の特徴がゆがめられる
・生存者バイアス:成功した人の意見には特別な何かがあると思ってしまう
・根本的な帰属の誤り:問題の原因を個人の資質や能力に求めてしまう
・後知恵バイアス:物事が起きてから、それが予測可能だったと考える傾向
・正常性バイアス:異常事態になった時に、パニックになるのを防ぐために、予期せぬ出来事には鈍感に反応するバイアス
~~~
各バイアスにどのように対処し、あるいはむしろそのバイアスを推進力に変えていくか?については、本書を読んで頂きたい。
今日は2つ紹介します。
1つ目はネガティビティバイアスについて
自然の中に暮らしていてどこに危険が潜んでいるかわからない時代は、悲観的であることが、人の生存を助けたのだろう。
そうか。「自信がない」とか「悲観的に考える」っていうのは動物である人にとってはデフォルト(初期設定)なんだな、と。
2つ目は「炎上」について。「炎上」とは現代の魔女狩りで、後知恵バイアスと根本的な帰属の誤りによって起こる。
昔の魔女狩りと同じことが形を変えて、現代でも再現されている。昔は火炙りになり殺されたが、今はマスコミ、SNSで集中砲火にあい、社会的地位から引きずりおろされる。本人の意思や能力が本当に問題であれば、魔女がいなくなれば状態は改善されるはずだが、環境、仕組みが要因だから何も変わらない。そして、また次の魔女を探しにかかる。リーダーを担える能力と気概のある人が、社会から排除されていき、緩やかに社会は弱体化していく。
昔の人たちは、この2つのバイアスで間違った判断をしすぎるのを防ぐために、「妖精」を考え出したのかなと僕は思う。
もしも、起きている問題が、妖精のせいであれば、個人を責める必要がなくなる。集団全体の気持ちが、個人の人格へと執着するのを防ぐ。代わりに、妖精の気持ちを鎮めるための儀式が必要になるのだ。
妖精は、昔の人たちが、無知だから信じてしまった迷信ではない。対立を生み出すことなく、バイアスから自分たちを守る、人間ならではの知恵なのではないか。その知恵を僕たちは、科学的であることが正義であるという考えの下に捨ててしまった。
~~~
うーん、なるほど、と。
「科学的であること」の迷走が起こっているのだなあと。
バイアスの話を読んでいて思ったのだけど、世の自己啓発本と呼ばれている本の多くは、バイアスの強化もしくはバイアスの否定なんだな。成功者の○○とか、不安の何%は幻想、だとか。「バイアス」とは何かを認識することって大事だ。そのメガネで見えてます?みたいな。そう考えると、いわゆる「キャリア教育」で行われていることっていうのはバイアスだらけでまったく科学的じゃないな、と。
探究学習の起点も、科学の原点に返り
「観察」と「振り返り(そして発見)」に置いた方がいいのだなと。
僕たちはバイアスという色眼鏡を通して世の中を見ている、いや自分自身に対してもそうなのかもしれない。自分はこういう性格だから、とか。ジョハリの窓とかそういうのを外して見てみる効果があるのかも。
探究学習コミュニティでも言っていた、「プロデュース」と「プロモート」の違い。
「自分が信じる未来」がいかに危ういか。
そんな前提に立たなければいけないのではないか。
生徒の特徴を生かし、伸ばしていく「プロモート」のために、「観察」し、「感じる」ことを強化しないといけない。
そして、この本の中に何度も出てくるコルクのミッション「物語の力で一人一人の世界を変える」に影響を受けて、僕もミッションを暫定で書いてみようと思った。
フラットな関係性をつくるコミュニケーションのデザインによって「場」をつくり、自分と地域とまなびの未来を、いま、ここから創造する。
ちょっとまだ長いので、シンプルにまとめようと思う。
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