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ニシダタクジ
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 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2021年12月26日

「暮らし」という当事者たちの舞台

「暮らし」という当事者たちの舞台
「くらしのアナキズム」(松村圭一郎 ミシマ社)

読み進めています。
年末年始に読みたい本です。
シビれる1冊です。
熱く問いかけられます。

~~~以下メモ

21世紀のアナキストは政府の転覆を謀る必要はない。自助をかかげ、自粛にたよる政府のもとで、ぼくらは現にアナキストとして生きている。

「公」とか「公共」といえば、お上のやることだと信じられてきた。今度はそれを企業など別の誰かにゆだねようとしている。ぼくらはどこかで自分たちには問題に対処する能力も責任もないと思っている。でも、ほんとうにそれはふつうの生活者には手の届かないものなのか。

アナキズムには、国にたよらずとも、自分たちで「公共」をつくり、守ることができるという確信がある。

どんな思想も「主義」が目的化すると、プロセスが犠牲にされ、正しさを競い合うゲームになる。でも、人生はプロセスそのものだ。だれも正しさのために生活しているわけではない。

おそらく、生きているうちに革命やユートピアは実現しない。たとえそうでも、「よりよき」へと向かう道のりを楽しむこと。それが大切なのだと思う。

だが歴史的に見れば、国家は人民を守る仕組みではなかった。人びとから労働力と余剰生産物を搾りとり、戦争や疫病といった災厄をもたらす。国家はむしろ平和な暮らしを脅かす存在だったのだ。

いかに国家から逃れるかが、生存にとって重要だった時代が長く続いた。

保守的アナキストを名乗るオードリー・タンは「保守的である」ことは進歩の名のもとにこれまでの文化を犠牲にすることなく、多様な伝統的価値を大切にすることであり「アナキズム」を「暴力や権力で威圧できる、既得権益などを独占している、ただそれだけの理由で他者を従わせてはならない」と定義する

政治家が主権者によって選ばれ、その同意の範囲で政治的な役割をはたす。それを真の意味で実践していたのは現代の民主主義をかかげる国家ではなく、「未開社会」とされた国家なき社会だった。

グレーバーはいう。ある集団が国家の視界の外でどうにかやっていこうと努力するとき、実践としての民主主義が生まれる。

ぼくらが学校で学ぶ歴史は国家の中心から描かれた「国史」だ。だから、文明化した国家の中心が先進的な優れた場所で、その価値観になじまない周辺の僻地は遅れていて、そこに住む人びとは「野蛮人」として描かれる

山の民は、国家空間にとりこまれないために、あるいは自分たちの内側から国家が生まれないように、あえて平地とは真逆の「国家に抗する社会」をつくりだしてきたのだ。
~~~

今日は第5章アナキストの民主主義論を読んでいたのだけど、うなりましたね。

僕らは「民主主義=多数決」だと思い込んでいて、「政治=政策決定と実行」「政治参加=選挙における投票」だと思っているのだけど、そうではないと。

多数決はコミュニティを分断し、破壊するし、政治とは政策を決定することではなく、対話し続けることなんだと。

かつての村落にあった「寄り合い」のように、議論を出し尽くして(機が来たら)全会一致で決まる。
それこそが政治であり、民主主義ではないのか。
それは分断を生まないための知恵だったのではないか。
同時に、それは当事者を育ててきたのではないか。

僕たちは、「民主主義」という名の下で、投票という「政治参加」できているフリ「政治」から分断されてきた。
何か困ったことがあれば、役所に電話したり、警察に届けるのが賢明なやり方だと思わされてきた。

それは「当事者意識」を圧倒的に下げた。
「こうなっていることは俺の責任じゃない。」そう思っているを増やした。
不満があれば文句を言ったり、匿名でSNSに書き込む行動様式を手に入れた。
この本のタイトルが「くらしのアナキズム」であるように、当事者になるチャンスは「くらし」にある。

暮らしという当事者たちの舞台にたち、五感を開放し、違和感をキャッチする。
みんなが「正しい」というゴールに向かうのではなく、自らが感じた(けどまだうまく言語化できない)顧客と価値に向かっていくこと。

「今しか僕にしかこの場所でしかできないことをする。」

それは勘違いかもしれないのだけど。僕が高校生のプロジェクトを見るなら、それが一番大事。街に社会にゆさぶりと編集という魔法をかける、それが「マイ」の意味だよね。賞金がもらえる社会起業プランコンテストではないから課題解決から出発しなくていい。

暮らしの当事者になり、行動を起こす。行動を振り返り、顧客と顧客にとっての価値を何度も何度もアップデートする。
それこそが当事者を育て、「政治」を取り戻す方法なのだと思いました。

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Posted by ニシダタクジ at 08:01│Comments(0)
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