2022年01月02日
「森」のような「場」
「これからの大学」(松村圭一郎 春秋社)
読み終わりました。
ラストの「ほぼ日の学校」河野通和さんとの対談がまたアツい。
素敵な読後感に包まれています。
ラストの対談からメモを。
~~~ここからメモ
アクティブ・ラーニングとかって、人前で上手にプレゼンしたり自分の意見を堂々と言えたりすることが重視されているイメージがありますが、じつは自分にとって未知のことや学びの芽のようなものをいかにキャッチできるか、その感受性の方が大事なのです。それが仲間とともに対話をとおして学ぶことの意味だし、表向きの「役に立つ」とはちょっと違う感覚が人間力につながる。
学校というメディアをつくっているという意識でいます。そこに人が集まる。そうすると何かが生まれる。学校といっても、こういうものが学校である、といった既存の型にこだわるつもりはありません。そこにあたらしい何かを加えたいと思っています。だから、学校というメディアをつくり、外にいる講師や応援団を招いてきて、受講生という参加者をつのり、そこから何らかの動きを生み出していく、つまり、編集長と同じような仕事だと思うんですよね。
最終形が活字ではなくてライブだということ。みんなに参加してもらい、そこに肉体が介在するところです。身体性の快楽を味わってもらうところです。
手を動かしたり、声に出したりするという作業が入ってくる。基本はとにかく感じたことを声に出すことですよ。
その「終わりがない」ってところも重要ですね。学びって、授業が終わったり、単位をとったり、卒業したら、終わりではない。大学の四年間のなかで何かを得るというより、その四年間で、その後に一生つづく学びのきっかけを手にしたり、学び方を身につけたりする。もちろん、そこで人生の学びの友を見つけることも含めて。
授業で語られる言葉、そこで喚起される『学び』は、相手の必要を満足させる『商品』ではない。どう受け取ってもらえるかわからないまま、なににつながるか未定のまま手渡される『贈り物』なのだ。
「贈与」の原理が学びと教えの一番大事な部分と考えるならば、対極にあるのが「完璧なパッケージをつくってお届けします」という商品経済における交換の原理でしょう。
何かを得るって発想ではなくて、楽しいということなんだ。何かと何かの交換ではない。学びは本来、楽しい時間だ、ということか。
大学の一つの危機は、教室の中の多様性がなくなってきていて、同じような年恰好の、経験も似ている人たちを集めてしまっていることです。すごく小さな世界。塾に通って同じような勉強をして集まってきましたという場所になっている。
本来、旅は何が起こるかわからないからおもしろい。偶然足を踏み入れた店でむちゃくちゃおもしろい経験をしたとか、思いがけず料理がおいしかったとか、そういう予想外のことに喜びがあるのに、いまは事前にネットにすべて情報があって、それをなぞるような旅が増えている。
トップダウンで一貫性があって、クリアな目標を掲げ、みんながそれに向かって一致団結して進む大学より、個々の教員がそれぞれ試行錯誤を重ね、互いに衝突し、矛盾しながらも、学問への熱い思いが共鳴する深い森のような大学の方がいい。きっと社会にとっても創造性の源となりうるし、学生たちも、その森をさまようなかで悩み、対話し、学びの楽しさに我を忘れるうちに、予想もしなかった未知の可能性に開かれていくのだと思います。
ティム・インゴルドは、人類学という学問は、寛容で、開かれたプロセスで、比較と批判性を特徴とする、と書いています。他者の言動に注意を払い、それに応答しながら、与えられたものを寛容に受け取り、できるだけ相手にお返ししようと努力する。その終わりなきプロセスは、最終解決が目的ではなく、他者との関係を継続するためにつねに開かれている。既存の選択肢だけがすべてではなく、比較をとおして、つねに別の道の可能性を探ろうとする。だからこそ、けっして現状に満足しない人類学の営みは批判性を帯びる。
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昨年2月、マイプロ関東サミットで出会った根本さんが放った一言を思い出した。
「確かに、本は学びの目的ではなく、過程という感じがしますね。本を開くまで何が書いてあるかは分からないですし、読むこと以上に、本からその人が何を考えて、得るのかが大切な気がします。」
「読書とは過程である」そうなんだよね。もっというと「学びとは過程である」のではないか、と。終わりなきプロセスこそが学びなのではないか、と。
そんな森のような「場」をつくれないだろうか?しかもそれは特に「多様性」という意味合いにおいて、大学でつくることは難しいのではないか、と思う。
「森」の舞台は高校、そして地域なのではないか。
個々のプレイヤー(住民も高校生も)それぞれ試行錯誤を重ね、互いに衝突し、矛盾しながらも、この町と自らへの熱い思いが共鳴する深い森のような「場」をつくれないだろうか。
旅人や高校生たちも、その森をさまようなかで悩み、対話し、学びの楽しさに我を忘れるうちに、予想もしなった未知の可能性に開かれていく「場」をつくれないだろうか。
ラストにもう一度。
ティム・インゴルドは、人類学という学問は、寛容で、開かれたプロセスで、比較と批判性を特徴とする、と書いています。他者の言動に注意を払い、それに応答しながら、与えられたものを寛容に受け取り、できるだけ相手にお返ししようと努力する。その終わりなきプロセスは、最終解決が目的ではなく、他者との関係を継続するためにつねに開かれている。既存の選択肢だけがすべてではなく、比較をとおして、つねに別の道の可能性を探ろうとする。だからこそ、けっして現状に満足しない人類学の営みは批判性を帯びる。
答えのない世の中、ゴールのない道。それをどうやって歩いていったらいいのか。
人類学的なアプローチが、その一つの方法なのだ、と強く感じた1冊でした。「楽しく学ぶ」森のような場をつくっていきたいなあ。
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