2022年01月11日
「わたし」「しごと」という輪郭を溶かし、再構築する
「うしろめたさの人類学」(松村圭一郎 ミシマ社)
ラスト、シビれましたね。
心に響く1冊です。
「はみだしの人類学」を思い出しました。
http://hero.niiblo.jp/e491269.html
(20.12.26)
心に残ったキーワードは「輪郭」。
エチオピアには、日本のような戸籍や住民票は存在しない。
僕たちが当たり前のように思っている
「赤ちゃんが生まれたら名前を決めて役所に届ける」
というシステムが存在しない。
結果、
1人の子どもは身内でさえも(たとえば母親とおじいちゃんが)
違う呼び方をすることもあるという。
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「名前」は、その人のアイデンティティとイコールではない。むしろ、社会的な関係や状況に応じて呼び方が変わったり、同時に複数が併用されたりする。相手をどの名前で呼ぶかによって、その人との関係が示される。
一方、ぼくらは、幼いころからひとつの固定した名前を前提に育ってきた。テストの答案用紙や自分の持ち物、いろんな書類などに、出征後に親が国に届けたひとつの名前を繰り返し記入してきた。複数の名前を使い分けるなんて思いもよらない。
もちろん、こうなったのは明治期に戸籍制度が整えられて以降のことだ。それまでは、日本でも年齢に応じた名づけや自分の意志での改名がよく行われていた。そpれがいつの間にか「名前」⇒「わたし」になった。
ひとりにはひとつだけの決まった名前がある。ひとつの名前が、その人の同一性を保証する。こうして、「わたし」は、つねに「わたし」であり続ける。個人の同一性と単一性。それが、国家が政策を遂行する基盤になる
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おお!って思った。さすがあたりまえを疑う学問だなあと。
「名前イコールわたし」に対して、僕たちはなんの違和感もないのだけど、それは、わずか150年の習慣でしかなかったのだ。
「複数の名前を持つ」っていうのは、ヒトにとって大切なことなのではないか。
高校生がSNSで複数アカウントを使い分ける、っていうのは、本能的な何か、なのではないか、と。
「わたし」とそれ以外を分ける境界としての「輪郭」は、近代国家成立によって、当たり前のものとなってのかもしれない。そしてアイデンティティを「かたち」だとすると、その「輪郭」を見つけることがいわゆる「自分探し」ということになる。
しかし、その「輪郭」というのは、実は曖昧なものだ、と。むしろその「輪郭」をさまざまな他者、あるいは集団との関係をつくることによって、徐々にやわらかくしていくことが実はアイデンティティの不安から解放される方法なのではないかと。
この本のラストは、うしろめたさと贈与、労働について思いがあふれている。
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「働く」ことは、市場での労働力の交換だと説明される。この「あたりまえ」の理解が、労働が社会への贈与(会社への贈与ではない)にもなりうることを見えなくする。
誰に何を贈るために働いているのか。まずはそれを意識することから始める。「贈り先」が意識できない仕事であれば、たぶん立ち止まった方がいい。
「わたし」の越境的行為が、市場や国家を揺さぶり、スキマをつくりだす。
おそらく学生に残るのは、教壇の前で誰かがなにかを伝えようとしていた、その「熱」だけだ。学生のなかで、その「熱」が次のどんなエネルギーに変わるのか、教員の側であらかじめ決めることはできない。そもそも学生たちは何者にでもなりうる可能性を秘めている。授業で語られる言葉、そこで喚起される「学び」は、相手の必要を満足させる「商品」ではない。どう受け取ってもらえるかわからないまま、なににつながるか未完のまま手渡される「贈り物」なのだ。
贈与だからこそ、そのための「労力」は、時間やお金に換算できないし、損得計算すべき対象でもない。もし教育を市場交換される「労働」とみなせば、その「成果」がきちんと計算できない以上、最低限の労力しかかけない、というのがつねに「正解」になってしまう。それだと「教育」はとたんにむなしい作業になる。
実際にはほとんど届いていないかもしれないし、贈ったつもりのないものが届いているかもしれない。教員の側には、つねに「届けがたさ」だけが残る。教育とは、この届けがたさに向かって、なお贈り物を贈り続ける行為なのだと思う。
ぼくらにできるのは「あたりまえ」の世界を成り立たせている境界線をずらし、いまある手段のあらたな組み合わせを試し、隠れたつながりに光をあてること。
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ジーンときますね。
僕が本屋をやる理由もこんな感じです。
「授業で語られる言葉、そこで喚起される「学び」は、相手の必要を満足させる「商品」ではない。どう受け取ってもらえるかわからないまま、なににつながるか未完のまま手渡される「贈り物」なのだ。」
この「授業」を、「風舟」「暮らし」「地域活動」に置き換えても同じだ。
その「場」で語られる言葉、そこで喚起される「学び」は、相手の必要を満足させる「商品」ではない。どう受け取ってもらえるかわからないまま、なににつながるか未完のまま手渡される「贈り物」なんですよね。
「本」っていうのはまさにその象徴的なアイテムだと思ってます。
僕がこの場所でやりたいこと。
まずは「わたし」「しごと」という輪郭を溶かしていくこと。
混ざりあう「場」を共有し、輪郭を溶かしたのちに可塑性の高い輪郭を自ら構築していくこと。
その「輪郭」は決してひとりでつくるものではなくて、ふたりでも、チームでも、地域全体でもいい。
そんな「輪郭」づくりのプロセスをともに歩きたいなあと思ってます。
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