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ニシダタクジ
ニシダタクジ
 ツルハシブックス劇団員。大学在学中、「20代サミットメーリングリスト」に出会い、東京王子「狐の木」に育てられました。豊かさとは、人生とは何か?を求め、農家めぐりの旅を続け、たどり着いたのは、「とにかく自分でやってみる。」ということでした。
 10代~20代に「問い」が生まれるコミュニケーションの場と機会を提供したいと考えています。



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2022年01月13日

フレーム(枠)を外す

昨日のつづき。

水戸留学時代にお世話になった茨城大学Yさんの投稿に、ハッとさせられたと同時に、最近のテーマのヒントをもらった。

~~~一部引用
批判ではなく提案を

最大野党党首までもが「批判ばかり」という「批判」(そんなのは批判でもなんでもないと思うが)に耐えられず「提案型」を標榜しなければならないぐらい、これは規範として相当力をもってしまっている。

しかし、ある問題に対して、批判ではなく提案を求める場合、往々にしてその問題設定のフレーム自体には同意したということになりがちだ。コミュニケーションの仕事をしている自分たちは、問題のフレームを勝ち取ったものが社会のナラティブを勝ち取るみたいなところがあることを実感としても技術としても知っている。

つまり、「提案を」という時点で既に相手の土俵の上での闘いが前提となってしまうのであって、一方でその問題のフレーム自体を批判すべき場面がある。そのときは必ずしも提案はできないかも知れないが、批判だけでも大きな意義があり、提案ができないからと言って引っ込めるべきでもない。
~~~

さらに、Yさんはその原因は表面的な問題解決型学習にあるのではないか、と指摘する。

~~~
そしてこれは、学校で「問題解決型」の教育をやってこなかったからではなくて、反対に(表面的な)「問題解決型」の教育が蔓延した結果ではないか、とも思う。

思考と批判のトレーニングを積み重ねるよりも、目の前の課題への貢献を常に問われるとき、課題はいつも所与のものであって、「解決」こそが責任の果たし方である、という見方が蔓延ってしまう。

しかも教育現場における課題設定と解決のアプローチが半端で「それっぽく終わる」ほど、「解決しないと責任は果たせない」という自己規範を内面化してしまう。
~~~

「フレーム(システム)への適応」
これは、生き延びるための本能的な何かだろうと思う。
そして、僕自身が志向しているのが、「フレーム」を外すことだとあらためて実感した。

株式会社えぽっくのビジョンセッション「えぽっくミライ会議」で、
えぽっくにとって、コーディネートするとは、

・無理でしょ、と思えることをできるようにつなぐ
・面白がる(リフレーミング)
・リソースを拡張する
ということだと定義された。

参考:目的地を決めないこと、地図とコンパスを持たないこと(21.11.25)
http://hero.niiblo.jp/e492190.html
そっか、会社という「枠」から自由になるために、コーディネーターは存在しているのだと。

新潟の田舎で1か月生活を共にする「にいがたイナカレッジ」では、ひたすら「場のチカラ」の体感にフォーカスする。田舎の暮らし、地域への愛という空間の中で自分という「枠」を外して(溶かして)場が生み出す成果物を体感することに大きな意味があると思っている。

参考:はたらく女子のための「プロジェクト」ラボ(18.9.12)
http://hero.niiblo.jp/e488073.html

フレームを外し、再構築すること。おとといの話で言えば、「輪郭」の再構築だ。たぶんそれが僕が志向していることなのだろう。そして、その手法こそが、20年前に不登校の中学3年生シンタロウに出会ったときからの宿題に対するひとつのアプローチなのかもしれない。

新型コロナウイルスは、フレームやシステムそのものの前提をゼロにしてしまった。「与えられたフレームの中で最適化する(つまり、そのまま適応するか、改善策を提案する、あるいは実際に行動する)」ことに、意味がどれほどあるのか?

「自分で考えること」「実行すること」「それを振り返ること」が大切なのだろうけど、それを「与えられた」「設計された」フレームの範囲内でやる訓練を繰り返したところで「ニーズ」には応えられるが新たな「価値」は生み出せない。

ミュージックプレイヤーとカメラとインターネット端末を携帯電話機に詰めこむ、みたいなイノベーションほどではないにしても、自ら違和感をキャッチし、フレームを疑い、フレームを外し、フレームを再構築し、自らが動いて変えていく、変えていけることを体感すること。

それをやっていく必要がある。
そしてそれをやるのは、決してひとりではない。
「場」をつくること。

その「場」には、個人として意見に対する「批判」ではなく、場の一員として場に差し出すための「違和感の表明」がある。

参考:ブレストに「否定しない」というルールは必要か?(20.3.27)
http://hero.niiblo.jp/e490498.html

違和感を「場」に置いていくんだ。「場」のチカラが生み出すから。
そんな感覚でいいのではないかと思う。

冒頭の大学生には、関西弁の「知らんけど」を贈りたい。
https://diamond.jp/articles/-/292649

知らんけど。

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Posted by ニシダタクジ at 07:58│Comments(0)日記学び
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