2022年01月19日
「あいだ」で「委ねる」旅に出る
なぜ本屋なのか?なぜその場なのか?という終わりのない問い。
昨日のキーワードとしては「あいだ」と「委ねる」。
自分と社会のあいだにつくるものは、「物理的共同体」だけではなくて、もっとゆるやかな「場」、つまり巻き込まれたり、委ねたりできる、目的を持たない、即興性と一回性にあふれた時間であり、「委ねられる」空間なのかも、という仮説。
それは一言では言えないけど、一例を挙げれば、企画会議のような時間と空間。
たとえば、カマコン。
OSとしてのカマコン(20.1.30)
http://hero.niiblo.jp/e490259.html
ブレストに「否定しない」というルールは必要か?(20.3.27)
http://hero.niiblo.jp/e490498.html
ブレストで場に自分を溶かしていく(場と一体化する)経験をすること。
それはツルハシブックスの「劇場のような本屋、本屋のような劇場」にも似ている。
自分と社会のあいだをつなぐ何かを探している。
自己実現とは目標達成とイコールではない。
それは、「共同体(コミュニティ)」という伽藍ではなく、「市場(バザール)」なのではないか。
市場(バザール)的に人と接することができる場、それは偶然性と即興性と一回性の場、なのかも。
官と公と私のあいだ(14.7.3)
http://hero.niiblo.jp/e444952.html
本屋は「委ねる」(19.1.10)
http://hero.niiblo.jp/e488702.html
それは「旅」のようなものかもしれない。
「旅」か。
僕は「旅」を売りたいし、「旅」をつくりたいのかもしれない。
旅程が決まった旅行ではなく、
目の前に来るものに一喜一憂して心を震わせる旅。
「効率的な」旅行は、誰が求めていたのだろうか?
忙しいから有名な名所旧跡を見て名物グルメを行列して食べて、
温泉入って酒飲んで寝て、朝バイキングでおなか一杯。
そんな旅行を本当に望んでいたのだろうか?
「喜多方ラーメン、有名だけあって並んでたけど美味しかったね~」
「鶴ヶ城、雪景色もなかなかいいじゃん」
みたいな思い出が残る旅行を望んでいたのだろうか?
地元の人しか行かないであろう肉屋さんの馬ハツ刺しが意外と美味しかっただとか、
路地を入った中華料理屋さんで、満席だと思ったら、地元の人に席を譲ってもらったりだとか。
そういう予測不可能な何かを望んでいるのではないか。
海外や雪山で、犯罪や生死と隣り合わせの「冒険」まではいかないけど、
予定調和的な「旅行」ではない、そのあいだのちいさな「旅」はすぐそこにある。
「身体」と「思考」のあいだ
「旅行」と「冒険」のあいだ
「日常世界」と「異世界」のあいだ
「予測可能」と「予測不可能」のあいだ
「ホーム」と「アウェイ」のあいだ
そんな「あいだ」で「委ねる」こと。
そんな「旅」をしたいんじゃないのか。
それは「まなび」においても実は同じなのではないか。
先日の「自分の可能性」に好奇心を持つ(22.1.16)
http://hero.niiblo.jp/e492267.html
いま、必要なのは、作戦会議的な「場」だろうと。
一緒に企画を生み出していくような「場」をつくっていくこと。
身体を解放したあとに、言葉を紡いでいくこと。
誰かによって放たれたメッセージを受け取り、誰かに向けてメッセージを放つこと。
そこをベースキャンプにあるいはプラットフォームにして
ある人は自分の足で山に登り、ある人は電車に乗って遠くへ行く。
そこでの出会い。
自己の発見。
チームの形成。
そうやって人はまた旅に出ていく。
「探究のプロジェクト」とは、そういう旅のことなのではないか。
僕はそんな「旅が生まれる」場をつくりたいのかもしれない。
人はみな旅人であるのかもしれないな。
いや、もしかしたらこの「場」のせいで、旅人になっていくのかもしれない。
「あいだ」で「委ねる」
そんな旅と旅人が生まれる場をつくっていきたいな。
昨日のキーワードとしては「あいだ」と「委ねる」。
自分と社会のあいだにつくるものは、「物理的共同体」だけではなくて、もっとゆるやかな「場」、つまり巻き込まれたり、委ねたりできる、目的を持たない、即興性と一回性にあふれた時間であり、「委ねられる」空間なのかも、という仮説。
それは一言では言えないけど、一例を挙げれば、企画会議のような時間と空間。
たとえば、カマコン。
OSとしてのカマコン(20.1.30)
http://hero.niiblo.jp/e490259.html
ブレストに「否定しない」というルールは必要か?(20.3.27)
http://hero.niiblo.jp/e490498.html
ブレストで場に自分を溶かしていく(場と一体化する)経験をすること。
それはツルハシブックスの「劇場のような本屋、本屋のような劇場」にも似ている。
自分と社会のあいだをつなぐ何かを探している。
自己実現とは目標達成とイコールではない。
それは、「共同体(コミュニティ)」という伽藍ではなく、「市場(バザール)」なのではないか。
市場(バザール)的に人と接することができる場、それは偶然性と即興性と一回性の場、なのかも。
官と公と私のあいだ(14.7.3)
http://hero.niiblo.jp/e444952.html
本屋は「委ねる」(19.1.10)
http://hero.niiblo.jp/e488702.html
それは「旅」のようなものかもしれない。
「旅」か。
僕は「旅」を売りたいし、「旅」をつくりたいのかもしれない。
旅程が決まった旅行ではなく、
目の前に来るものに一喜一憂して心を震わせる旅。
「効率的な」旅行は、誰が求めていたのだろうか?
忙しいから有名な名所旧跡を見て名物グルメを行列して食べて、
温泉入って酒飲んで寝て、朝バイキングでおなか一杯。
そんな旅行を本当に望んでいたのだろうか?
「喜多方ラーメン、有名だけあって並んでたけど美味しかったね~」
「鶴ヶ城、雪景色もなかなかいいじゃん」
みたいな思い出が残る旅行を望んでいたのだろうか?
地元の人しか行かないであろう肉屋さんの馬ハツ刺しが意外と美味しかっただとか、
路地を入った中華料理屋さんで、満席だと思ったら、地元の人に席を譲ってもらったりだとか。
そういう予測不可能な何かを望んでいるのではないか。
海外や雪山で、犯罪や生死と隣り合わせの「冒険」まではいかないけど、
予定調和的な「旅行」ではない、そのあいだのちいさな「旅」はすぐそこにある。
「身体」と「思考」のあいだ
「旅行」と「冒険」のあいだ
「日常世界」と「異世界」のあいだ
「予測可能」と「予測不可能」のあいだ
「ホーム」と「アウェイ」のあいだ
そんな「あいだ」で「委ねる」こと。
そんな「旅」をしたいんじゃないのか。
それは「まなび」においても実は同じなのではないか。
先日の「自分の可能性」に好奇心を持つ(22.1.16)
http://hero.niiblo.jp/e492267.html
いま、必要なのは、作戦会議的な「場」だろうと。
一緒に企画を生み出していくような「場」をつくっていくこと。
身体を解放したあとに、言葉を紡いでいくこと。
誰かによって放たれたメッセージを受け取り、誰かに向けてメッセージを放つこと。
そこをベースキャンプにあるいはプラットフォームにして
ある人は自分の足で山に登り、ある人は電車に乗って遠くへ行く。
そこでの出会い。
自己の発見。
チームの形成。
そうやって人はまた旅に出ていく。
「探究のプロジェクト」とは、そういう旅のことなのではないか。
僕はそんな「旅が生まれる」場をつくりたいのかもしれない。
人はみな旅人であるのかもしれないな。
いや、もしかしたらこの「場」のせいで、旅人になっていくのかもしれない。
「あいだ」で「委ねる」
そんな旅と旅人が生まれる場をつくっていきたいな。
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