2022年02月06日
呼びかけに応えるという「存在」の承認
「複雑化の教育論」(内田樹 東洋館出版社)
読み終わりました。
第3章もシビれましたね。
キーワード的にはやっぱり「身体性」とか「アイデンティティ」とか、まさにこのタイミングで。
そして、土曜日に大学生と話していた風舟の新サービス「緒(いとぐち)」のことも、つながってきてビックリしました。
~~~ここから引用
オンライン授業の最大の欠点は教育が「オン・デマンド(on demand)」になるということです。
レストランのメニューを見て、オーダーするようなものだと、注文するのは「食べたことのある料理」に偏ります。どんな味で、どんな栄養があって、どのくらいのカロリーであるかの情報が事前に開示されている選択肢の中からしか選ぶことができない。
こういう知識、こういう技術を身につけたい、こういう資格や免状が欲しいという学生たちの側に「プロセス・チャート」があって、その工程表に従ってこつこつと履修して、単位を集めて、卒業する。そこに限定されてしまうというのが「オン・デマンド」教育の最大の難点です。
実際には、どんな科目を履修して、どんな専門分野を選んで、どんな研究室に所属することになったのかって、おおかたが偶然なんですよね。大学教育の実態は「バイ・アクシデント(by accident)」なんです。その偶発性のうちにキャンパスライフの豊かさはあると僕は思います。
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なるほどなあ。オンライン授業によって奪われたものは「身体性」と「偶発性」か。
それこそがキャンパスライフの豊かさだったはずなのに。
「授業料」とは、授業を履修するために払うものではなく、身体を使って、偶然をキャッチするためのものだと気づいたのかもしれない。
そして、次の学校には「呼びかけ」がある、は面白かった。
~~~ここから引用
「学園マンガ」の世界では、主人公たちは誰一人予定通りの学生生活を送ることがない。思いもよらない出来事に「巻き込まれる」ことで学園生活が生き生きとしたものになる。これはすべての「学園マンガ」に共通しています。このパターンは、子どもたちの無意識的な願望を表現していると思います。
いま学校では、小学校から将来設計を書かせて、その目標を達成するために、いつ何を学ぶかまで工程表を作成することを義務づけようとしています。「買い物リスト」を手にしてスーパーに買い物に行くような気分で、自分の学びの過程を一望俯瞰することを子どもたちに強要している。
(中略)
子どもたちが求めているのは、「まだ知らない世界」に入ることだからです。思いがけない冒険に巻き込まれることだからです。
子どもが小学生の時に描いたシンプルな「地図」を手にして、わき目もふらずに歩き続け、どんな出来事が起きても、どんな呼びかけがあっても、一切の外部情報を遮断して、目的地をめざすということをさせて、いったい何をしようというのでしょう。
学校で子どもたちが経験するのは「呼びかけ」です。誰かに「ねえ、君。ちょっと来てよ」と声をかけられる。これは自分であらかじめ仕込んでおくことができない。でも学校というのは、まさにこのような無数の「呼びかけ」が行き交っている場です。
キャンパスをぼんやりと歩いていると、誰かに「ちょっと来て」と声がかけられる。そして、その呼びかけはたいていの場合「ちょっと手を貸して」という「救援の要請」なんです。
(中略)
そして、人間は「ちょっと手を貸して」というタイプの要請を断ることができない。
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「呼びかけ」。これは大きなキーワードを手に入れたような気がします。
オンライン化した学校によって失われる最大のもの、それが「呼びかけ」なのかもしれません。
そして、その「呼びかけ」には応えざるを得ない、とタツル先生は説きます。
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「ちょっと、そこ持ってて」とか「ちょっと、そこ抑えてて」とかいきなり言われて、図らずも手を貸してしまったところからそこで行われている不思議なゲームに巻き込まれる。
でも、これは人類学的心理なんです。人間は「救援の要請」を断ることができない。それは「救援信号の宛て先はそれを聴き取ったものである」という太古からのルールがあるからです。聴き取った者が「宛て先」なんです。「宛て先」はあらかじめ決まっていたわけじゃない。聴き取ってしまったものが「宛て先」に指名されて、ただちに応答責任が発生する。その時、人は「主体」として立ち上がる。
「他者からの承認」というのは、いろいろなかたちがありますけれど、要するに「あなたはそこにいる」と認められるということです。認知的にただ「あなたはそこにいる」と言うだけでもいいけれど、「あなたがそこにいることを私は願う」という遂行的なメッセージの方がずっと承認の強度は高い。そして、「あなたがそこにいることを私は願う」というメッセージを端的に表現したのが「ちょっと手を貸して」であり、さらに端的に言えば「助けて」ということになるわけです。人間は他者からの「助けて」という支援要請を聴き取った時に主体として立ち上がる。昔からそういうことになっているんです。
だから、学びの場に立った時に、子どもたちに必要なのは、キャリアパスポートだとかポートフォリオだとかいう野暮ったいものではなくて、自分の支援を求める声に耳を傾けることなんです。オン・デマンドの教育では「呼びかけに応答する」というアクシデントが起こらない。
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学園マンガってたしかにそうなっているかもしれませんね。
そして、ラストに引用するのは「天職」の話です。
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「天職」のことを英語ではvocationとかcallingと言います。どちらも「呼びかけ」という意味です。自分を呼ぶ声を聞いて、それに耳を傾ける。それによって人間は自分の召命を知り、天職に出会い、おのれの適性・資質を見出す。そういうものなんです。自分にはどういう才能があり、どういう道に進むべきかは、自分で決定することじゃない。「呼びかけ」を聴き取るんです。
「呼びかけ」というのは「意味がよくわからないもの」です。ただ、呼んでいるだけですから。先ほどキャンパスで「図らずも」巻き込まれる経験のきっかけとなるのは「ちょっと手を貸して」だということを申し上げましたけれど、これが「呼びかけ」の基本文型です。「ちょっとこっちへ来て、ちょっと手を貸して」なんです。いったい自分に何をさせたいのきあ、わからない。どうして自分に声をかけたのかも、わからない。わからないけれども、自分が呼びかけられたということは、わかる。
メッセージのコンテンツは理解できないけれども、宛て先が自分だということだけはわかる。メッセージというのは起源的にそういうものなんだと思います。意味はわからないけれど自分宛てであることはわかる。
赤ちゃんはまず自分が「呼びかけ」と「懇請」と「祝福」の宛て先であることを理解する。人生はそこから始まるわけです。すべては「呼びかけ」を聴き取ることから始まる。「呼びかけ」を受信することで初めて「呼びかけの宛て先」として「私」という概念がかたちづくられる。まず私がいて、他者がいて、その間にコミュニケーションが成立するという順序ではないんです。呼びかけがあり、その宛て先が「ここにいる」という確信とともに「私」という概念が受肉する。
アブラハムに主の声が臨んできたとき、主はアブラハムに「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい」と告げます。いまいる所から外に出よ、と。「あなたの生まれ故郷、あなたの父の家」というのは、あなたがいまいるシステムということです。あなたがいまそこに包摂されている記号のシステム、価値体系の外側に出なさい。そこにとどまっている限り、このメッセージは理解できない。
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そうか、そのメッセージを聴くために「越境」するのか。そして、メッセージを受け取る、つまりメッセージの宛て先になることによって、わたしはわたしになるのか。
「手紙」としての本棚っていうのは、そういうことなのかもしれないですね。
「呼びかけ」と「越境」と「天職」と「わたし=アイデンティティ」と、これらすべてがつながってきます。
「緒(いとぐち)」は、そんな「呼びかけ」が本棚と本を通して伝わってくる、そんな仕組みになっていくのだと思っています。
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