2022年03月14日
「伴走」から「共鳴」へ
「手の倫理」(伊藤亜紗 講談社選書メチエ)
読み終わりました。
めちゃめちゃいい本でした。
タイムリーすぎる。
ヴィネスパさん幅さんありがとう。
最高の1冊でした。
今日も自分のためにメモします。
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【記号的メディアと物理的メディア】
デジタル⇔アナログ
不連続⇔連続的
コード化⇔非コード化
非接触⇔接触・同期
書き言葉⇒話し言葉⇒手話⇒ジェスチャー⇒さわる/ふれる
【伝達モードと生成モード】
メッセージは発信者の中にある⇔メッセージがやりとりの中で生まれていく
一方向的⇔双方向的
役割分担が明瞭⇔役割分担が不明瞭
スピーチ⇒おしゃべり
さわる⇒ふれる
「伴走してあげる」とか「伴走してもらう」じゃない「一緒に走っている」という感覚。役割が曖昧になり、どちらかが能動でどちらかが受動かということの線引きができなくなるのです。言葉は共鳴に対する「切断」です。「二人で一つ」の共鳴を脱して、「自分でしっかり注意してね」と「個」のスイッチを入れることなのです。
共鳴の「伝わっていく」関係は、伝えるべき情報とそうでない情報の取捨選択ができないという意味で、文字通り「意のまま」の対極にあるやりとりの形態です。
「相手の体に入り込み合う」能動性すら消え、「あずけたことによって入ってくる」ものを分け隔てなく受け取っている。この筒抜けの直接性において、共鳴は生成モードの究極形態である、と言うことができます。
安心とは、「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を意識しないこと、信頼は「相手のせいで自分がひどい目にあう」可能性を自覚したうえで、ひどい目にあわない方に賭ける、ということです。
ポイントは、信頼に含まれる「にもかかわらず」という逆説でしょう。社会的不確実性がある「にもかかわらず」信じる。この逆説を埋めるのが信頼なのです。
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今回、一番感動したのは、ブラインドランナーと伴走者の話でした。
第5章「共鳴」
目の見えないランナーと目の見える伴走者は、ロープを通じてコミュニケーションしています。
そこには、伝わらなくても伝わってしまう何かがあると言います。
伴走者の視界に子どもが入り、危なくないなと思って何も言葉を発しなかったとしても、
ロープから伝わってしまい、「子ども?」と聞かれてしまうという。
それぐらい伝わってしまうし、いつのまにか一体となって走っているという。
そしてそれがすごく気持ちいいのだと。
それを著者は「共鳴」だと言います。
「伴走」ではなく「共鳴」か。これは響くなあ。
これって、高校生の探究的学びと地域の大人との関係にも、通じるし、
5年くらい前から言っていた「場のチカラ」とか、「場に溶ける」とか、
アイデンティティとかもこういう話だよね。
この前海士町の澤さんが言っていた「探究」「協働」から「共創」へ
ってきっとこういうことだろうと思うんだよね。
教育と探求社宮地さんの「探求のススメ」を思い出した。
一生残る問いを投げかけることができるか?(21.7.17)
http://hero.niiblo.jp/e491897.html
信じること、感じること、待つこと、一緒にいること。
たぶん、こういうことなんだろうな。
僕が「伴走者」ではなく「伴奏者」に言ってたのもきっとそういう感じ。
視覚や言語だけではなくて、もっと身体的に、「共鳴」なのだろうと。
そこにはまず、「委ねる」ことが大切なのだろうと。「安心」から「信頼」へシフトし、委ねること。
「越境」とは、そういうことなのかもしれませんね。予測不可能な未来を実感し、委ね、先へ進むこと。その超えた先に「共鳴」する何かに出会えるかもしれない。
「場」をつくる、っていうところの先にあるものは「共鳴」かもしれないと思いました。
阿賀黎明高校「地域学」発のクラウドファンディング、3日目です。
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「自分たちの居場所は自分たちで創る」阿賀黎明高校生と阿賀町の空き店舗活用PJ
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