2022年03月17日
プロとアマチュアの共創プロジェクト
ルネサンス期の三大発明は「火薬」「羅針盤」「活版印刷」ということなのだけど。
近代社会(工業社会)の三大発明は、「未来」と「自分」と「自由」だと思うんですよね。その3つの発明を駆使して、工場労働者あるいは「サラリーマン」という存在を創出することに成功した。それが富国強兵な近代国家を成立させるため必要条件だったからですね。
2020年に始まった新型コロナウイルス下の世界からすでに2年以上が経過した。2年前の3月上旬には完全オンラインになった会議に上野のビジネスホテルから出席していた。
「未来」が失われた2年間、正確に言えば、直線的に進んでいく「未来」を失った2年間だと言えるだろう。まさにVUCAな時代そのものを体感したとも言える。
そんな中で生きていくためのキーワード。
・アマチュアリズム・・・とらわれずにやってみる
・ブリコラージュ・・・寄せ集めてつくり、修繕する
・共創(コ-クリエーション)・・・一緒に創造する
ちょうどABCになってますが。(講演とかに使える。笑)
いろんな人が教育を語る時に使っている「フラットな関係」とはそもそも何か?
この前の隠岐の国学習センターの澤さんの話を聞けば、それは場を共有し「問い」を生み出すことだし、未来をつくっていく方法はビジョンではなく「問い」そのものだと思う。
「共創」によるアイデンティティの構築(22.1.5)
http://hero.niiblo.jp/e492252.html
それは、僕の15年に渡るキーワードである「アイデンティティ」にも関わってくる。
「あなたは何のプロなのか?」
もしくは「あなたは何のプロになりたいのか?」
キャリアを考える大切な問いであると思う。
しかし。
その問いの前提を疑う。
・専業の時代(1人の人の「本業」は1つである)
・「プロ」(専門家)こそが価値を生み出す
それって、「未来」そのものが失われた今、まだ前提として正しいのだろうか?
プロを定義すると
「納期を守り、一定以上のクオリティで納品する人(会社)」と言えるだろう。
そこに金銭が発生する。
同時にプロ至上主義は、家庭や地域における非金銭的なことを仕事よりも下位に置くようになった。それは一部の進学校と呼ばれる学校での「(教科)学習」と地域活動の関係にも似ているのかもしれない。
でも、いま。「未来」そのものが失われた。「時間」という発明そのものが揺らいでいるのだとしたら。あるいは、プロセスエコノミーのように、人々がアウトプットのクオリティではなく、プロセスそのものに価値がある、と感じているとしたら。
アマチュアリズムとブリコラージュとコ・クリエーションの出番だ。
今までの常識をアンラーニングし、現在ある限られた資源を使って、様々な人たちと対話し共創していくことだ。
その移行期にある。
おそらくそれは学校も同じだ。
移行期に必要なこと。
それは「プロとアマチュアの共創」なのだろうと思う。
「未来」も「自分」もフィクションだった。「自由」も「未来」や「自分」を前提にした、尾崎豊風に言わせれば「仕組まれた自由」だった。
「場」を主語に、場に溶けだし、問いを生み出し、その問いへと向かっていくこと。
その共創のプロセスの中にこそ、学びがあり、「存在」があるのだと僕は思っています。
そんなリアルメディアとしての授業や課外活動が作れないかなあと。
近代社会(工業社会)の三大発明は、「未来」と「自分」と「自由」だと思うんですよね。その3つの発明を駆使して、工場労働者あるいは「サラリーマン」という存在を創出することに成功した。それが富国強兵な近代国家を成立させるため必要条件だったからですね。
2020年に始まった新型コロナウイルス下の世界からすでに2年以上が経過した。2年前の3月上旬には完全オンラインになった会議に上野のビジネスホテルから出席していた。
「未来」が失われた2年間、正確に言えば、直線的に進んでいく「未来」を失った2年間だと言えるだろう。まさにVUCAな時代そのものを体感したとも言える。
そんな中で生きていくためのキーワード。
・アマチュアリズム・・・とらわれずにやってみる
・ブリコラージュ・・・寄せ集めてつくり、修繕する
・共創(コ-クリエーション)・・・一緒に創造する
ちょうどABCになってますが。(講演とかに使える。笑)
いろんな人が教育を語る時に使っている「フラットな関係」とはそもそも何か?
この前の隠岐の国学習センターの澤さんの話を聞けば、それは場を共有し「問い」を生み出すことだし、未来をつくっていく方法はビジョンではなく「問い」そのものだと思う。
「共創」によるアイデンティティの構築(22.1.5)
http://hero.niiblo.jp/e492252.html
それは、僕の15年に渡るキーワードである「アイデンティティ」にも関わってくる。
「あなたは何のプロなのか?」
もしくは「あなたは何のプロになりたいのか?」
キャリアを考える大切な問いであると思う。
しかし。
その問いの前提を疑う。
・専業の時代(1人の人の「本業」は1つである)
・「プロ」(専門家)こそが価値を生み出す
それって、「未来」そのものが失われた今、まだ前提として正しいのだろうか?
プロを定義すると
「納期を守り、一定以上のクオリティで納品する人(会社)」と言えるだろう。
そこに金銭が発生する。
同時にプロ至上主義は、家庭や地域における非金銭的なことを仕事よりも下位に置くようになった。それは一部の進学校と呼ばれる学校での「(教科)学習」と地域活動の関係にも似ているのかもしれない。
でも、いま。「未来」そのものが失われた。「時間」という発明そのものが揺らいでいるのだとしたら。あるいは、プロセスエコノミーのように、人々がアウトプットのクオリティではなく、プロセスそのものに価値がある、と感じているとしたら。
アマチュアリズムとブリコラージュとコ・クリエーションの出番だ。
今までの常識をアンラーニングし、現在ある限られた資源を使って、様々な人たちと対話し共創していくことだ。
その移行期にある。
おそらくそれは学校も同じだ。
移行期に必要なこと。
それは「プロとアマチュアの共創」なのだろうと思う。
「未来」も「自分」もフィクションだった。「自由」も「未来」や「自分」を前提にした、尾崎豊風に言わせれば「仕組まれた自由」だった。
「場」を主語に、場に溶けだし、問いを生み出し、その問いへと向かっていくこと。
その共創のプロセスの中にこそ、学びがあり、「存在」があるのだと僕は思っています。
そんなリアルメディアとしての授業や課外活動が作れないかなあと。
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